第8話
「生きたい」
こんな単純でいて切なる願いすら叶えられず、今日もこの世界の至るところで多くの命の灯火が消える。それも善良な人間から順番に。
目が覚めて、まだあの不細工なストーカー女がしつこくドアをノックしているのだとしたら、意地を張らずにドアを開けて「一生のお願い」と縋り、頼る者が誰もいない弱弱しさでロキソニンを買ってきてもらおうか。意味を取り違えられて、操を奪われ、部屋に居座られても死ぬよりはマシなはずだ。
しかし、伸るか反るかの期待とは裏腹に夜更けはただ静寂なばかりで、昼前まではよろめきながらも冷蔵庫にエビアンを取りに行くことができたのに、今はもう、うまく力が入らず、軀の節々が悲鳴をあげていることもあって、立ち上がることもできない。思えばあの時、横着をせず、無理をしてでも、地を這ってでも近所のドラッグストアにロキソニンを買いに行けばよかったのだ。一時の快楽は一時の快楽に必ず復讐される。格好悪くとも「急がば回れ」なのだ。
勝手に開花した徒花がその美しくもない花びらを枯らしてゆくように、その美しくもない花びらがアスファルトに落ちてゆくように、日毎に腐っていき、このまま最後の時を迎えるというのだろうか?
そして、国分のように「生きたかった……」という強烈な残留思念と拭っても拭いきれない未練と執着が重い手枷足枷になって、何百年も何千年も、この世に浮遊し続けさせることになるのだろうか?
全く気が滅入る。
干支はまだ三周したばかりだというのに……
まだ何も始まっていないし、終わってもいないというのに……
携帯のバッテリーはさっきの中州からの長電話で切れてしまったし、起きあがれず、デスクトップまで辿り着けないので事実上、外部との連絡手段も絶たれた。
ストーカー女が鍵屋でも呼んで不法侵入してくるか、熱が下がるかしない限りは、最悪のケースを想定し、相応の、或いは、悲愴な覚悟を決めなければならない。命綱を握っているのがすでに機嫌を損ねているかもしれない招かざる客だとは大いなる皮肉だ。
そして、いよいよ、長期になるかもしれない兵糧攻めが始まったのか、と思うと暗澹たる気持ちになる。
同じ高熱でも十五年前にインドでマラリアを患ったときは、ただ目の前の悪魔のせせら笑いのような四十℃を超える高熱と闘うのに必死で、クヨクヨと思い悩む余裕がなかっただけもう少し楽観的だったし、死にはしないという根拠のない自信があったが、今回は黄泉と地続きの夢の世界で死人である国分に「死ぬ」と宣告され、外部に向かって助けも呼べないのでは何も期待できない。降参し、あの不細工なストーカー女を受け入れたところで結果に大差はない。失うものはあっても得るものが何もない。最早、次に訪れる夢にしか希望を見い出せない。
どこの誰でもいいからどうかロキソニンを。
否。このまま死んでしまうのならば、最後に台湾に行きたい。
あの三月の台北の暖かで、終わりなき雨に打たれていたい。
暖かい我が家。
僕の寶島。
そして、本当に消えてなくなるときには、できるだけ照明はゆっくりと落として欲しい。真菜板の上で切り刻まれ、地下に消えゆく男の顔を少しでも長く、見詰めていて欲しいからだ。
たとえそれが一笑に付されるエゴなのだとしても。
そして、色褪せ、いつかどこかで失ったはずの懐かしい夢が始まる。
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