第7話

 執拗なノックが雨の音に変わる。

 全てを瞬時に濃い緑色に変える熱帯の驟雨の音。

 熱帯と言っても、もうバンコクはいい。真矢のいないバンコクなどたかじんのいない大阪と同じだ。

 だが、台湾生まれのためか元々、暑い国は好きなので、今度目が覚める場所がパラオやトラック諸島やラロトンガあたりの海が綺麗で、自然が手付かずで、観光客の少ない所ならば中華屋の親父でもしながら住んでみたいと思う。真矢のことを忘却の川に流し、あの会話すら成り立たない病的に強欲で利己主義な不細工なストーカーから逃れる場所としては最高だろう。

 そういえば、昔から雨が好きだった。優しい春の細雨も、多くの人を失望させる休日の忌々しい雨も、人命を奪う豪雨も、そしてこの長続きしない気まぐれな驟雨も彼はまんべんなんく愛していた。

 雨で遠足や運動会や野外コンサートが中止になることが信じられなかった。

 なぜ人はあの雨の中で誰の声にもどんなことにも縛られずに自分を解放して、走り回ったり、踊り狂ったりすることができないのだろう?と。なぜ人は雨が降ると悲観的になったり、雨そのものを呪詛するのだろう?と。

 書や義務教育によって教えられてきた善悪や常識はやはり、大部分は嘘なのだろう。「親より先に死んではいけない」ことと「人のものを盗んではいけない」ことと「人を殺してはいけない」と言うこと以外は。

 それにしても懐かしい音だ。古今東西どんな名曲や名演や名盤よりも心にすんなりと入ってくる。リリックやコードやメロディを排除することで、我欲や雑念が削がれ、音楽とはこんなにも尊いまでに純化されるものなのだと感心しきりだ。

 その驟雨の音に微睡み、視界の緞帳が降り、時の刻みが終わったら水になって土に還ってゆく雨になってしまいたい。いくつもの河を経て、海に至る頃には、今回の人生のことも忘れ、憎むことも愛することも知らなかった頃のように祝福される存在として再生されることだろう。それは粋な船乗りだけが海を見ながら想い出しそうで想い出せない何かであって、来世と呼べるべきものかどうかわからないが、雨にはそれだけの期待を抱かせる何かがある。

 雨についての瞑想は楽しく、現実を忘れさせてくれる。瞬きする間に百年が過ぎていたことにも気付かないくらいに時間が経つのを忘れる。真矢のことだって、物書きのことだってきっとここまで一途で夢中になれてはいなかったのだろう、と考えると今、手元にあったカードは全て取り上げられ、高熱にのた打ち回る身を労わってくれる者すらおらず、たった一錠のロキソニンすら与えられず、現実と現の狭間で雨を愛で、雨になりたいなどと所望していることがふさわしい結果に思える。

 これほどまでに愛すべきものを愛せばよかったのだ。

 今からでは遅すぎる。

 そして、雨脚が少し弱まり、忘れた頃に夢が訪れる。

 雨上がりの空には虹が架かり、吉祥の訪れを告げる叭々鳥が鳴き、その澄んだ高音は鬱蒼とした山影に消えてゆく。驟雨の残香を含んだ海からの風が気持ちいい。ここは小高い丘の上に建つ墓地のようだが、母方の実家である吉原家の菩提寺ではないし、初めて来る場所だ。

 彼は、傘と線香と榊を手にしているが、いったい誰の墓に参っているのかもわからず、その理由を誰かに尋ねるわけにもいかず、手持ち無沙汰に海を見下ろしている。雨の後で少し、藍は灰が混ざり、濁ってはいるが、小さく白波が立ち、とても穏やかだ。誰かが死んだとか、誰かが裏切ったとかの対極にある世界と言ってもいい。

 しかし、墓地とは不吉だ。

 真矢がここに埋葬されているのであれば、今、ここにいる理由は明確であり、地下へと優しい言葉のひとつでもかけてあげられるのだが、探しても探してもどこにも真矢の苗字である流川家の墓標やそれらしい卒塔婆は見つからない。そもそも、あんな国王陛下の叡智とごく一部の富豪や軍人の才覚と外資と観光業だけで成り立ってるような万事、適当なあの国でまともに埋葬されたかどうかも怪しい。

 しばらく思案に耽り、どうしたものか、と途方に暮れていたら陽もすっかり傾き、辺りもだんだん暗くなり、目の前も心許なくなってきて、ここにいる意味すらわからないし、進んで一夜を明かしたいような場所でもないので、ここから離れようと思えども、バス停もないし、霊園管理事務所のようなものも見当たらず、タクシーを呼んでもらうこともままならない。

 歩くしかない。

 行き場のなくなった線香と榊を黄昏の海に向かって投げ、バケツや柄杓の置いてあるところの水道で渇いた喉を潤し、下界に降りる道を探すが、どうもパイプ椅子が三脚置かれただけの簡易休憩所の脇のほうに人がなんとか歩ける程度の獣道のような石段がエンエンに続いているだけで、車両が通れる道がないこの場所にいったいみんなどうやって来るというのだ?

「皆、死んでいるからね。場所はあまり関係ないのさ」

 彼の心の声を聞き届けたように後ろから声がする。

「何も捨てることなかったのに」

 その痩せて貧相で、どことなくユースケサンタマリアに似た男に彼は何度か会ったことがあった。

 凄腕FXトレーダーとして、『猫にでもわかるFX入門書』と『気楽なバンコク暮らしのススメ』というタイプの違う二冊の本まで出版していたバンコクの日本人社会では一寸、いい顔のお兄さんだった国分正一だ。

 元々、共通の友人がいたので顔見知りで、学年が一緒と言うよしみで何回か食事をご一緒したことがある。一生、タイで遊んで暮らせるくらいの大金を持っていながらも偉ぶらず、外こもりや稼ぎの悪い人間を絶対に見下さないその気さくで謙虚なその人柄には敬意さえ払っていたくらいだ。

 そんなタイで死ぬまで悠々自適に暮らせたはずの国分もFXで国分の「この場合の逆張りは危険すぎる」の忠告に耳を傾けず、たった一週間で南アフリカのランドを一千万円ほど溶かした不良在住日本人に逆恨みされて、文章でも映像でも再現できないほどの惨い拷問の末に殺され、ほぼ全財産を強奪された上に、カオヤイ国立公園の山中に遺体を埋められた。

 これは五年ほど前にタイでは同胞殺人事件として一時期、各方面のメディアを賑わせ、付き合いのあった彼のところにも警察の事情聴取と日本のテレビニュースの取材が来て、一週間ほど、執筆の時間がそっちに取られた。顔見知り程度の彼のところにまで取材が来るとは、国分の知り合いの少なさを露呈された格好になっていた。

 犯人は、半年ほど韓国やカナダを逃亡したのち、新宿で他人名義のパスポートを手に入れようとしていたところを現行犯で捕まった。余罪に問われ、簡単にこの案件が発覚したが、反省の弁も遺族へのお詫びの言葉もなく、同情酌量の余地なしとして裁判で終身刑を申し渡されたそうだが、こんなところに現れるくらいなので、志半ばで客死した国分の無念は晴れることはないのだろう。

「国分さん。なぜここんなところへ?いつぞやのランナムのイサーン屋いらいじゃありませんか!『お元気でしたか?』ってお聞きするのは変ですけど」

「それに僕が『元気です。』って答えたら嘘になるでしょ。死んでるんだから」

「すいません。野暮なことお聞きしました」

「それよりも真矢さんのこと色々伝えたいんでね。天さんとは積もる話もあるが、僕はあんまりこっちには長くいれない。すまないけど、そっちを優先する」

「僕はやっぱり、死ぬんだろうか?」

 死の事は死人に聞くのが一番だ。幽界というのは、三次元世界のどこにでも自由に行き来でき、予言者の如く、未来を見渡せるという話をスピリチャル系の本で読んだことがある。

 国分は、答えにくそうに腕組をして唸ったが、告知を決心し、顔を上げた。

「もうすぐ蝋燭の炎が燃え尽きるのは確かだ。僕だって三十二歳で死にたかなかったから気持ちは察するよ」

「ロキソニンさえあればなぁ」

「生憎、それは用意がない。口頭で失礼するよ」

 死人に会う夢も墓の夢も吉夢と聞いたことがあるが、「助からない」ことを宣言されるとそれは瞬時に悪夢に転じる。

 はじめて目を合わせた国分は、どこか淋しげで、恨めしそうで、よく見ると、殺害されたときに絞められた首の辺りが紫色に変色し、眼圧で目は兎か苺ゼリーみたいに充血し、耳からは血が垂れている。彼はその痛ましい姿に国分の客死後、五年も長く生きながらえたことをひどく申し訳ないことのように思った。

「真矢さんが薬漬けにされて死んだって話は残念ながら本当だ。但し、誰かさんの言うように中州君は関係ない。あいつは売人の福原に聞いたままを天さんに伝えたまでだ。一瞬、疑ったかもしれないけどね。どうだい?少しはモヤモヤは晴れたかい?」

「一応。こっちは面倒見ましたからね」

 疑っていなかったとは言え、正式に中州の線は消えた。

「で、ここからが真実なんだが、その外道は、福原の飼い主の堀内という何年か前に関西の抗争で下手打って逃げてきた末端の暴力団員だ。嫌がるのを拉致して、輪姦して、軟禁して、そっから薬漬け。要らくなったら口封じに山に廃棄だ。それも僕が埋められたカオヤイの山中だ。しかし、そいつも堅気からはした金を巻き上げたしょうもない恐喝事件で捕まり、余罪も暴かれ、今では塀の中だ」

「国分さん……」

「悪い。天さんが知りたいのはそんなことじゃなかったね」

 いったい、誰が本当のことを言っているのか?

 いったい真実は何個あるのか?

 いったい神は何体いるのか?

 これはきっと知っていても誰も答えを教えてくれない愚問なのだろう。

「一日三時間ノートパソコンの前でトレーディングをやればあとは遊んで暮らしてゆけるゆるい生活が一生続くって思ってたからね。だから肉体は滅びてるんだけど、魂が納得していないのか、ずっと死に切れなくてね、何年もあのへんを浮遊していたんだけど、三月ほど前だった。衣類を剥がれ、薄汚れて、ほとんど幽霊みたいになった真矢さんが森の中でひとり突っ立ってて、虚ろな目で泣いてるんだよ。『天ちゃんがよく作ってくれたお豆腐の入ったピリカラの酸っぱいスープが飲みたい』って」

「酸辣湯好きだったからな」

「それからこうも言ってた。『もっと優しくしてあげればよかった。軀なんて関係なかった』って。それから程なくして息耐えて、僕と同じカオヤイの土だ。三日くらい経って、腐敗が始まる頃には犬に食われてたよ。助けようがなかった。こんな話、聴きたくもなかったと思うけど、これが全てだ」

「あいつ……」

 そう呟くと、可哀相でもあり、嬉しくもあり、懐かしくもあり、腹立たしくもあり、恨めしくもあり、愛おしくもある錯乱した感情が胸を締め付け、涙が止まらなくなった。「犬に食われた」なんて聴くと、どうにも手の打ちようのなかった非力さが虚無に襲われ、言葉を失った。

 結局、国分の話が一番残酷で、一番救いがあった。言葉は悪いし、言うべきではないのかもしれないが、最後の最後に想われるなんて男冥利に尽きる。

「僕はきっと永遠に成仏できないと思うけど、真矢さんは天さんがいれば死を受け入れるんじゃないかな」

「呼ばれているんですかね?」

「かもな。でも、生きれるなら生きたほうが絶対にいい。作家なんだから死とは真剣に向きあうべきだと思うけど、それでも生きたほうがいいんだよ」

「説得力ありますね」

「だって僕、生きたいけど、生きられなかったからね」

 自虐的な笑みを浮かべると、国分は「そのうちカオヤイにも遊びに来てよ。滝とかあるし、象とかいるし、涼しくていいとこだよ」と握手を交わすと、まるでCGのように一瞬で目の前から消えた。

 宵の口のまだかろうじで青さの残った海を渡る鴎の影に国分を見たような気がした。

 彼も、亦、寶島へ帰る途中なのだろうか?

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