第6話

 そんな夜明け前の一番深い闇に降る霧のように晴れない気持ちで雀荘を出たら、階下へ下るエレベーターの前には赤い商売用のチャイナドレスを着た青いシャドーを引いた瞼を伏せ、虚ろな目をした、客にあぶれて日照り気味な夜の女が通せんぼをするように立っていて「ショートならホテル代込みで千五百でいいわよ」と面倒くさそうに科を作る。

 断って悪態をつかれるのも不快なので、薄野さんから渡された紫色の五百バーツ紙幣を出して「ショートは無理だけど、これで咥えてくれないか」と冗談で言うと、女は、感情なく、瞬きもせずショップとショップの間の暗がりを指差した。 

 痒いところを搔き、渇きのままに飲み、溜まったものを放出したところで何の解決にもならないことはわかっていたが、夢と現を往来するうちに、疲れや人恋しさが蓄積されて、女の軀の温もりに飢えを感じていた。甘いものが苦手な人でも日々の仕事で疲れ果てて、血糖値が下がるとチョコやらマドレーヌやらクイニアマンやら赤福もちやらを軀が欲するあの感じに近い。 

 暗がりへと手を引かれ、女は前儀などなく、細くひんやりとした指でジッパーを下ろし、中途半端に膨張し、中途半端に硬直したものを取り出すと、短い舌で先っぽを転がしながら咥え込んだ。まるで歯がないみたいに口の中は柔らかで、カリ周りを攻める舌触りはタンというよりもテンダロインを想起させる。夏の陽光の中でとろけてゆくキャラメルになったように快楽と女の黒髪のココナッツの香りに陶酔し、正体が曖昧になってゆく過程でこれまでの苦痛や真矢の死やそれに関するきなくさい噂のことなど一瞬、忘れてしまいそうになる。まさにその一瞬が欲しくて、このけばけばしい女を跪かせているのかもしれない。 

 彼は、間抜けな顔で「シャオマーク(超気持ちいい)」と卑猥な呻きを漏らし、櫛を入れれば蛇が這う音がしそうな濡れた鴉の羽のような真っ直ぐな黒髪を優しく撫で、さらに指を南下させ、ふくよかで、甘い香りのする乳房に指を滑らせ、その膨らみがシリコンを入れた人工のそれではないことがわかると、掌で優しく包み、やがて人差し指でじらすように弄ぶ。果てそうになったら違うことを考えるか、攻めるかだが、どうでもいい女には冷静にそれができる。心は絶対に裏切らないが、軀は割と平気で裏切れてしまう男特有の悲しい性だ。 

 熱帯夜に吹くねっとりとした湿気を帯びた夜風は薄く、藍いブランケットになって、快楽に今にも果ててしまいそうな軀をくるみ、何度目かの浅い眠りへと誘う。「チップ呉れたらコンドームなしで入れていい」という女の発情して濡れた声がだんだんと遠ざかってゆく。体温や感触もだんだんと薄れてゆく。その代わりにやって来るものがいったい何なのか? 今はただ身を任せるしかない。発熱前の思い通りには行かないが、割と普通だった日々が恋しい。 現実世界の発熱はきっと抜き差しならない状態に違いない。

 真矢は一人ぼっちで地獄に堕ちるのが不安で、渡るに渡れぬ三途の川のほとりで窶れ果て、勝手に追っ手や盗聴を疑心する壊れた脳の片隅の甘酸っぱい記憶を頼りに、呂律の回らない心許ない声で僕の名を呼んでいるのかもしれない。「僕は助かるのか?助からないのか?」 

 もし過去も未来もお見通しの全能の神がいるとするなら、これまで知ってしまったことが真実かどうかよりもただ、それが知りたいと思う。 

 もう、どこへ辿り着いても構わないけど、これが死の直前に見るという走馬灯のように駆け巡る記憶だとしたら、あまりにもの報われなさに足元が凍え、寒くなってくるほどだ。寒いよりは暑い方がいい。すでにいい想い出も色褪せ、信用できる者が誰一人いないただ暑いだけのバンコクよりも生まれ故郷の台北の士林区の生家で目覚めたいものだ。大好きな祖父や幼馴染の阿琳や阿春や従兄弟の志明や浩君にも会いたいものだ。祖母の作る客家風チャーハンや烏賊団子や切り干し大根の入った卵焼きも懐かしい。

 もしかしたら、彼にとっての寶島は台湾での幼少時代そのものなのかもしれない。台湾の別称が「寶島」であるように。 

 それは年々、燦爛と輝きが増してゆく、彼自身、唯一の黄金時代であり、その想い出は盗むことも書き換えることも何人たりともできない聖域なのである。  

 そうだ。これまでの一切は、その再会を人生最良の日にする為に巧妙に仕組まれた試練であり、必要悪なのだ。なんだそうだったのか、と膝を叩いてみても虚しい。「僕は助かるのか?助からないのか?」 

 旅と呼ぶには、どこにも居住や長居が出来ないこの淋しい流浪の果てにあるものは、やはり、死なのだろうか? 眠りに落ちるのが怖い。目覚めるのが怖い。 蝮のように執念深く、執拗なノックはこの一ヶ月くらいにはじまったことだ。 

 昔からどうでもいい女には好かれ、追いかけ回されるのに、真矢のような本命には見向きもされず、幸運にも気持ちが伝わり、結ばれても粗末に扱われてきた彼にとって、前者の完成形とも言える狂人の出現には今回の人生での女運のなさを力づくで思い知らされたようなもので、嘆くよりも苦笑が先に来たものだ。 しかし、ほどなく、ままならなさを鷹揚に笑ってもいられなくなった。即ち、八王子の不細工な女が用意周到に目の前に現れたストーカーだと言うことに気付くのに時間はほとんどかからなかった。 

 命からがら日本に戻って来てから数年はまだ純文学に未練のあった彼は、読者八十人ほどの同人誌に小説や詩を寄稿していた。読者よりも同人からの評判がすこぶるよく、「天さんの文学には祖国を蹂躙された者にしか表現できない深い絶望と喪失を感じる」などと真剣に称賛され、同人の何人かとは鎌倉で句会を開いたり、家族ぐるみで湘南に海水浴に行ったり、新宿ゴールデン街で詩の朗読会なんかを楽しむ仲になり、ただ嘲笑と不安の闇の中を足掻き苦しみながら書き続けたバンコク時代とは大いに異なり、書くことに救いさえ感じるようになってきていた。 

 それがつい最近のことだ。 

 ここ数ヶ月ほど、同人の西川口さん主催のイヴェントでは毎回のように必ず隅のほうで壁の造花になっているいかにも元文学少女と言った、イトーヨーカドーで買ったようなセーターに艶のないひっつめ髪に牛乳瓶の底のような眼鏡の冴えない佇まいの五十女は、同人と言うわけではなく、西川口さんに訊くと、「そういえばいつもいるけど誰だろうね?僕の知り合いじゃない。天さんのほうばっかり見てるからてっきりそういうことかと思ってた」ということで正体不明と相俟って、気味悪く感じ始めていた。 

 そんな折、翌日は月曜日と言うこともあって、朗読イヴェント後の新宿三丁目の焼肉店『美龍』での食事会の集まりは悪くて、目聡く席を隣にしたその五十路の不細工な女は文学談義を強引に遮断し、勝手に彼の胸に頬をうずめ、「天佑さんは、父に似ているんです。嘘ではありません。ずっとあなたを探していたんです。そしてやっと見つけたんです」と泣かれる始末。  皆、白けてしまうし、折角の上ハラミや塩タンはちっとも味がせず、ビールからソジュに切り替えても酔えず、女を泣かせた負い目すら感じてしまって、「日が悪いし、これとは関わっちゃいけない」と早々に切り上げ店を出ると、女が追いかけてきて、「天佑さんったら、二人っきりになりたいんならそう仰ってくださればいいのに」とさっきとは打って変わって煌めきながら浮ついている。枯れ木も山の賑わいと言うが、枯れ木の枝が刺さって痛し痒しだ。そのうち山が枯れ木に食い尽くされてしまう。

「帰るんですよ」

「どっか連れてってくださいよ」

「あのねぇ」

「じゃぁ、天佑さんのお部屋で飲み直しましょう。家どこですか?」

「あんたには関係ない!」

「どうしたんですかぁ?そんな大きな声出しちゃって」 

 文化の差異が理解できない異人に曖昧な態度は禁物だが、こういう話の通じない狂人は怒鳴ろうが殴ろうが無駄だ。悪いことなんて何もしていないと言うのに逃げの一手。

 狂人を振り切って、新宿通りまで全力で駆け抜けて、そこで流しのタクシーを捕まえ、尾行されていたらたまらないので、「五反田まで」と告げ、車内で電話し、事情を説明しておいた不動前に住んでいる友人の車に五反田の駅前で乗り継ぎ、西新橋二丁目の自宅まで送ってもらった。 

 しかし、だ。 やっと人心地がついて、PCを立ち上げ、同人誌のFB(フェイスブック)ページを見ようとアクセスしたところ、「飛田国子」という八王子在住の顔写真を載せていない見知らぬ女から友人申請が来ている。

 いつものことだが会ったことない人なので削除とブロックしようとしたところで携帯が鳴る。見るとこれも知らない番号からなので出ない。あとで着信拒否にする。切れるまで無視する。出たところでそこに幸せはない。この前、知らない番号からの電話にうっかり出てしまったところ「アダルトサイトを見たとかでいついつまでに十五万振り込め」といういわれのない恐喝だったので余計に警戒している。 

 よほど図々しいか気の長い人間からのようで、無視してもコールは鳴り止まず、辟易させられ、耳を塞ぎ、身を屈め、嵐が過ぎ去るのを待った。 

 やがて五分も十分もあんなに喧しかった携帯が静まったタイミングで電話の主、すなわち、「飛田国子」からFBにメッセージが届く。「天佑さん。運命からは絶対に逃れられないんですよ。あたしとあなたは運命です。だって天佑さんの『西の果ての岬』という詩はあたしのことを想いながら、あたしのことを書いたんですもんね。窓の外を見てください」

 おそるおそる仏蘭西窓を開け、階下を見下ろすと、さきほどの不細工な五十路女がまるで出待ちのアイドルが車や劇場から出てきたみたいにうれしそうに存在をアピールしている。それも今警察を呼べば、ストーカー行為がなくても不審者として連行してくれそうなほどの狂気じみたはしゃぎっぷりだ。 

 本名と携帯番号登録が義務のFBの盲点をつかれた格好になった。彼は、ソーシャルネットワークの管理の甘さに立腹するよりも、尾行どころか先回りまでして奇襲攻撃を仕掛けてくるこの女に今度会ったら、言葉を交わすよりも先に無理やりに愛されるか、殺されるかのどっちかのような気がして、囚われの身になる前に若い頃のように「ここではないどこか」を探したくなった。 

 寶島を。

「天佑さんがあたしの顔をちゃんと見てくれた。うれしい。今からお部屋に行きますね。あ、おでんとか好きですか?あたし作りますよ。お酒は日本酒ですか?でも、天佑さんは赤ワインのイメージ♪」 

 その日から続く執拗なノック。

 苦しい。 

 ロキソニンが欲しい。

 でも、絶対にドアを開けてはいけない。

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