第5話

 坂本龍一の『シェルタリングスカイ』の美しい旋律が美しい砂漠のイメージと共に現実の方角から近づいてくる。それは彼の携帯の着信音であり、甘く切なく悲しい夢の終焉を告げる非情な警笛に等しい。

 これが仕事の依頼ならばそれでも多少の喜びはあるが、大方、彼を勝手に恋人だと思い込み、ストーカー行為を続ける八王子在住の不細工な五十路女か、そうでなければバンコク時代からの弟分中州からの飲みの誘いだろう。血を吸われるか血反吐を吐くかの選択肢だが、熱が下がらないので居留守を使う。留守電に切り替わったところで「天さん。天さん!大変なんすよ!」といういつになく鬼気迫った中州の声に叩き起こされてしまったので、仕方なく電話に出る。

「はい。もしもし」

「中州っす。すいません。お休み中でしたか?」

 この男、図々しく、鉈でも切れないような太い神経をしているが、意外なくらいよく気が付き、折り目正しいところがあって、どうしても憎みきれない。こういう得な性格をしていれば、世界中、どこへ行っても路頭に迷うことはないだろう。

「うん。昨夜から熱が下がらなくてな。近くにいるんならロキソニン買って来てくれないか?」

「そうしてさしあげたいんですけど、自分今、バンコクなんすよ」

「求めば与えられず」……もう慣れてしまってはいるが、必要なものが必要なときに欠けるのは最早、「宿命」と言ってもいいくらいだ。「肝腎なときに」という言葉が出掛かるが、必死に飲み込んだ。

「あ。そう。君はいいなぁ、そうやってとっかえひっかえ。今日はソイカウか?テーメーか?女に代わるのか?」

 また通訳か、と舌打ちしたくなったが、中州はいつも忘れた頃にどこから貰ってくるか定かでないレポタージュやコラム書きの仕事を回してくれるのでそう塩対応も出来ない。それに折角、覚えたタイ語を錆び付かせずにすんでいるのだから寧ろ、感謝するべきか?

「天さん。何を誤解なさってるんですか?真矢さんのことでお耳に入れたいことがあるんです!」

「なんだって?」

 ついさっきまで幻覚か夢の世界で再会を果たした真矢。中州とは懇意だが、連絡を取り合っているとは思わない。できれば知らないままで過ごしたい話であることは察しがつくが、口から先に生まれてきたようなこの男が黙ってるわけもない。

「天さん。深呼吸して落ち着いてください」

「ああ」

 彼は、言われたとおり、大きく深呼吸して、熱で物が三重に見える右目を閉じ、幾分か心の準備をして、中州の言葉を待った。

「ナナ界隈で売人やってた福原ってチンピラ覚えてます?」

「ああ。あのいけすかない野郎か。あいつまだ生きてんのか?」

「まぁ、警察とグルですからね、捕まるどころか肥えるばっかりですよ。で、真矢さんですけど」

 中州の声がかすれる。

「真矢さんですけど、先日、お亡くなりになったそうです」

 声を荒げることも出来ない、涙も出ない。まるで成人になったある日、親から「お前は実子ではない」と聞かされたように、或いは、それまで生きていた世界や吸収した知識や経験が全て嘘であり、それが自分とは全く陸続きではないと知った時のように自分を支えていた基盤のような昨日までが足元から崩れてゆく。そして、ついさっきの出来事は高熱が見せた幻覚ではなく、真矢が最後に一目会おうと夢に訪れてきてくれていたのだと気付く。それなのに優しくもしてあげられなかった鈍感な自分を銃殺刑にしたいくらいの自己嫌悪に陥る。

「福原が言うには、どうやら天さんのあとに付き合ったタイ人の男がとんでもない屑だったらしくて、やるときに薬使ってたらしいんっすよねぇ。かわいそうに、薬がやめられなくなったそうで、真矢さん、福原からヤーバーやら白い粉やらを買われていたんだそうです。自分が天さんの代わりにそいつ見つけ出してぶっ殺してもいいんですけど、快楽貪り、銭を毟り取ったらイサーン方面にさっさとトンズラですからお手上げっすよ」

 あの頃は、本当に幸せだったのだろうか?

 それは僕から快楽を得られなかった反動だったのか?

 星の巡り合わせや運命に全ての責任をなすり付けて、三日三晩、ひたすら悲しみに打ちひしがれていたくても、破滅の種子を蒔いたのは他でもない、彼自身であるような気がして、どこかの隣国の狂った要求のように子々孫々まで真矢に謝り続けることを自ら志願したい、いや。するべきだと自らを責める。

 勿論、許しを請おうなどと甘えたことは考えないが、もし、気も狂わんばかりの末期の禁断症状の絶望の中であの頃のことを想い出してくれていたのなら、少しは救われるが、そんなことは絶対にないだろう。さよならを告げに来た女の最後の笑みすら見過ごすほど鈍感な男のことだから。

 いったい今、誰と会話していたのかさえわからなくなるほどの長く、悲痛な沈黙が流れた。

「あのう。何も仰らないでください。自分、天さんのお気持ち死ぬほどよくわかりますから」

「ああ。よく知らせてくれた。東京に戻ったら連絡くれよな」

 いつもよりどこか元気のない「ちーす」を置いて、中州は中州の寶島へと踵を返した。

 この話が中州の創作である可能性は低い。調子と要領は抜群にいいが、嘘は言わない男だ。

 また、真矢を薬漬けの享楽に沈めたのは、匿名のタイ人ではなく、福原である可能性もない。浮気がばれてタイ人の女房に「あれ」をちょん切られたという話はバンコクの日本人社会の間では有名だ。

 詰まるところ、これが現実なのだ。

「真矢……」

 命の価値が安く、善人が一夜にして簡単に一線を越えてしまう阿片の夢のような非日常が日常で、何が起きても驚くに値しないあの南の街での出来事だ。喪失と後悔と悲しみを同時に背負い込むこと自体、滑稽で傲慢なことなのかもしれない。それが心なのか、体の一部なのかわからないが、真矢はとうとう盗んで返してくれないまま逝ってしまった。いや。もしかしたらそれを返そうとして夢に現れたのかもしれないが、これじゃまるで身も心もカタワじゃないか。

 そして、この熱。本当にカタワになってしまうんじゃないか。

 目を閉じれば、また真矢に会えるという甘い期待はない。何年も前に割れてしまい、パーツすら揃わない硝子細工を修復できないのと同じように、風にさらわれて空の彼方に飛んでいった風船を取り戻せないのと同じように。悪魔の所業としか思えない悪寒に震えつつ、死体のように横たわりながらも俯瞰している。

 また意識が薄れる。

 みんな夢で、みんな嘘で、穢れのない朝に寶島で目覚めればいいのに……

「おい。天。お前のツモ番だ。何を寝ている?」

 聞き覚えのある声に煙たく、ここにいるだけで肺癌になりそうなほどの厭なタバコの匂い。そして、早朝に鳴くすずめのような牌を操る音。そういえばスクムビットプラザの雀荘でボーイをしてた頃は、客の要望で徹夜で打たされてよく対局中に眠りこけるたびに、マスターの薄野さんに紫煙を顔に吹きかけられて、咳き込んだものだ。

「阿佐田哲也の真似なんぞ百年早いぞっ!」

 パンチパーマにレイバンに金ネックレスに黒シャツの堅気とは言いがたい風貌の薄野さんが咥えたタバコのままで小さく怒鳴った。上家のもう何年もここに寝泊りしているジャージ姿で歯がタバコのヤニで茶色く汚れた漫画家の蛭子さんに似た常連客の中年がハイボールを飲みながらニヤニヤしている。下家は名前は忘れたが、家族も家も処分して移住してきたロクでもない爺さんだ。

「すいません。一寸、熱があるもんですから」

 彼は、朦朧とした頭でなぜよりによって真矢のいなくなったこの街に、それも嘗ての職場にいるのかがわからず、色んな人間や事情にたらい回しにされ、騙された気持ちで、盲牌もせず、相手の捨て牌も見ず、牌を河に切り、それが家族よりもこの街での快楽を優先した外道に当たり、八千点を持っていかれた。不幸にも南四局だったようで、後味悪く勝負は終わった。トップは蛭子さんで、早い局に字一色を和了ったらしい。

「しかし、そのぬるい二筒切りを熱のせいにしているようではまだまだトーシロの仕事だな。阿佐田哲也が聞いてあきれらぁ。ちったあ打てると思って雇ったのにこれだもんなぁ。この前のとあわせて二万バーツ貸しな。お前さん、来月給料ないぞ」

 薄野さんは根元まで吸ったマルボロを苦虫を潰したような顔で灰皿にこすりつけて、不機嫌そうにメモ帳に精算を筆記する。この業界、店員が代走で負けた分は自己負担だ。現役の頃は勝ち負けのバランスシートは少しプラスなくらいだったのだが、二万バーツの負けとは、薄野さんの言うとおり完全に素人の仕事だし、これが現実世界の出来事でないことの証左だ。ならば痛くも痒くもないが、「給料なし」と言われると実害はなくともさすがに落ち込む。

「しかし、あんたもこのところ踏んだり蹴ったりだねぇ。飼い犬に手を噛まれるとはこのことじゃないのかね?」

 蛭子さんがニヤニヤしながら他人事のようにつぶやき、長い赤ラークを咥えて、ただでさえ細い目を糸を引いたように細める。少し、幸福な者への嫉妬と悪意を感じるが、その様子は真っ直ぐな言葉が人を傷つけることを知らない子供のように残酷なほどに天真爛漫だ。

「え?そりゃどういうことなの?穏やかじゃないねぇ」

 おしぼりを両手で弄んでいる他人の不幸を嗅ぎつけたロクデナシのじじいが話に首を突っ込む。薄野さんは赤いハンカチでレイバンを拭きながら渋い顔をしている。

「天ちゃん。俺が言ったって言わないで呉れよ。実はね、あんたの弟分の優っているだろ?」

「中州がどうかしたんですか?」

「うん。あくまで又聞きの噂なんだけどね、あのぅ、ほら、気が強そうな綺麗な子何て言ったっけ?一寸、前まであんたといい仲だった」

「真矢」

 その名を口にして戦慄が走る。生暖かな悪い予感。そして、こういう予感はえして当たるものだ。

「売人の福原の言うことだからほぼ間違いないと思うんだがね、あんたと別れたのを待ってましたとばかりに薬を使って組み伏せたと言う話だ。俺はよく知らないんだがね、薬を使ってあれをするとそりゃ気持ちいいなんてもんじゃないらしいね。普段の十三倍は感じるとか。しかし、丸山さんがいくら外道だからって兄貴の女を薬を使って寝取って、言いなりにさせて、挙句の果てにポン中になったらポイしやしないだろう」

「俺は、買うほう専門だからね。そんな七面倒くさいことするもんか」

「まぁ、この街に巣食う日本人は我々を含めてロクなのがいないが、そいつは畜生道に堕ちたね。もう日本人社会じゃ誰も人として認めてないよ」

 中州が?

 異国の地から真矢の死を知らせ、できることなら下手人の男を探し出して、報復の一撃を加えたいと息巻いていたあの中州が?

 所持金千ドルでバンコクに来て、そんなもんとっくに使い果して、ホームレス同然にフードコートの食べ残しを漁っていたのを同胞のよしみで助け、しばらく居候させ、仕事を世話し、三度三度、きちっと飯を食わせた中州がなぜそんな恩知らずで鬼畜な所業ができるのか?できるわけがないだろう。微塵も疑っていなかったし、もし本当のことだったら、という疑念すら湧かない。お人よしだと言われればそれまでだが、ここまで築かれた信用を崩すには至らない。

 但し、感情は別のようで、行き場のない怒りが沸々とこみ上げてくる。

「おっさん。いい加減にしないとセンセープ運河に沈めるぞ!」と怒鳴り、拳がグーになったタイミングを見計らったように薄野さんは巨体を揺らすように立ち上がり、魚のように濁り、人を殴ることを一切、躊躇わない目で蛭子さんを見下ろした。

「九条さん。それくらいにしといてやんな。天は体調不良を押して、あんたの一存で徹マンに付き合わされ、銭ふんだくられた上に、そんな話まで聴かされたんじゃたまったもんじゃねぇや。天。噂だから気にすんな。今日はもういいから帰ってゆっくり休みな」

 鰐皮の財布からタクシー代として五百バーツ紙幣を差し出す薄野さんの顔は険しく、唇が震えていて、蛭子さんの話がほぼ真実であることを物語っている。この男気あふれる人でさえ「嘘」だと胸を張って言い張れないほどの真実なのだろう。

「天ちゃん。俺、悪いこと言っちゃったかな」

 ちっともすまなさそうに思っていない蛭子さんのにやけ顔を背に彼は、売人の福原を捕まえて問い詰めようと思った。このままでは真矢は中州に殺されたことが揺るがぬ真実になってしまう。ナナ界隈ならここから歩いて五分だ。



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