第2話 本編
意識を取り戻した時には闇はどんよりとした灰色がかった乳白色の昼間に取って代わられていた。そんな水垢で曇った仏蘭西窓越しの視界に入る天候不良の風景の一切ですら今の彼には遠い昔の遠い異国での出来事に思えてくる。苦しみの末にあんなにもロキソニンを求めたことさえも亦、幼き頃に読み聞かされた寓話のようだ。
気を失った瞬間からのことは何も覚えていない。
悪夢を見なかったことが幸運なのか、随分と長い空白があった割に全くと言っていいほど熱が引いていないことが不幸なのかの判断が難しいところだったが、命あることが何よりの幸福であると思えるほど、彼の心身は快癒しておらず、昨夜と同じ鎖に繋がれ、昨夜と同じ重量の痛みを与えられているのだ。ただ、決定的に違うことは昼間にはロキソニンを買いに行く自由があるということだ。即ち、昨夜、あれだけ闇でのた打ちまわりながら「求めたもの」を手に入れる自由があるということだ。
しかし、どうだろう。
ほうほうの体で起き上がり、重い鉄の玉と鎖で足を繋がれた囚人のように重い軀を引きずり、息を切らせて、ふらつきながら冷蔵庫を開け、デスバレーの荒野のように絶望的に暑く乾ききった軀にエビアンを流し込めば、消費者金融に今月分の利息を支払ったあとのように、取立てから逃れ、それで当面の間、幾分か救われたように思うのだ。元金すなわち、昨夜から続く高熱はそのままだというのに。
きっと、彼が真に求めるものもこんなふうにその場凌ぎの代価品が見つかればどうでもよくなってしまうものなのかもしれない。だからいつもいつでも、求めるものが与えられないできたのか。それは心から欲していなかったからなのか。
そんな自己分析などに意味はない。
死んだ稚児の年齢を数えるようなものだ。後ろばかりを向いては生きていけない。尤も、そう達観してあきらめられるのかと言えば、それは全く別の問題であって、必ずあとになって背に腹を変え、あわててわずかな利を得て、安目を売ったことに気付き、口や態度には出さないが、喪失の大きさに途方に暮れるのだ。何のことはない。敗因はこんなにもはっきりしている。
「エビアンが僕に嘘をついている」
軀が覚えているいつかのあの地獄。
あれは八年前の四月。場所はラオスのヴェンチャン。エアコンのない一泊二ドルのドミトリー。
観光ビザでバンコクエカマイの安アパートメントに居座りながら、注目もされず、発表の場すら与えられない行き場のない小説を書いていたあの頃の彼は、半年に一度、ラオスのヴェンチャンに出向き、滞在を延長するための新たな観光ビザを取るのが半年に一回のお決まりの行事であった。
ワットチャンの裏の薬草サウナでリフレッシュし、ファーグム通り『コートダジュール』の南仏料理と赤ワインに舌鼓を打ち、メコン川を薔薇色に染める夕陽の美しさに震えながら癒されるという気ままな旅人の特権を享受しつつも、四月の東南アジアの酷暑は如何ともし難く、領事館やカフェで涼が取れる昼間はともかく、夜はぬるく、熱く、重苦しい空気を天井のファンが嬲るようにかき回すエアコンのない大部屋の床に腹ばいになって、水を飲めば飲むほど喉が渇き、水を浴びても涼は五分と続かず、言葉にならない「暑い」を呻りながら、ただ祈るように死体同然になっていた。
そして、ほぼ一睡も出来ず、朝が訪れる。
「あの地獄」を。
根本の解決がなされないため、熱は引かないが、彼は「あの地獄」を恐れると同時に、諸事情で喧嘩別れした嘗ての親友のようにしっくりとはいかなくとも懐かしく思っていることも事実である。
歌の文句みたいに「懐かしい痛み」を感じながら彼は、この世のものかあの世のものかもわからない混沌としていながらも責任の所在を問わない、フワフワと優柔不断な風を全身に感じながらまたもや気を失った。
寶島が陥落し、化外の地に追われる時というのは、いつも、恥辱や敗北よりも、「もう自由のために戦わなくていいのだ」という何か大きいものから逃れた安堵があるせいか、乾いた涙を流しながらも、心は案外、真冬の湖のように透き通っているものだ。水を濁すものというのは心が勝手な判断で作り出す仮想の敵でしかない。しかも、その敵というのは、声と存在を無視するか、腕を組み、無言で睨みつけるかすれば目を逸らして、あきらめて去っていく程度の育ちと親の稼ぎが悪い雑魚でしかない。
しかし、それに気付き、やり過ごせるようになるにはどうしても相応の時間と裏切りが必要になる。不器用な人間ならば尚更だ。
彼は、高熱で薄れ行く意識の中で、自身の不安な体調を気遣うよりも強く、これまでの人生の膿を全て出し切りたい、と願っている。この禊をすることでしかもう先はないものという脅迫感がある。
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