第3話

「いったい僕はどこで道を間違え、このように漂っているのだろう?」

 急な雨で濡れたようにシャツがぐっしょりと濡れている。高熱のせいだけでない。終焉が近づいた時の緊張感と恐怖が沸点を超越してしまったことによる尋常ではない発汗。生きていることと死んでしまったことが曖昧になる。汗ではなく、彼の中で溜まり、燻り続ける滓や膿が流れ出ればいいのに。そうすれば、きっと悪夢の記憶の断片もない新しい自分に生まれ変われるはずなのに……

 それなのに、その為にできることが何も思いつかない。彼にとって唯一の表現手段である小説の書き方なんて生活に追われるうちに忘れてしまったし、そんなオナニストな小説を書くほど彼は自虐的ではない。勿論、原稿料が発生するならプロフェッショナルに自虐するつもりだが、誰も読みたがらないだろう。

 跪いて祈ればいいのか?

「どうか充分な時間を……」

 充分な時間が与えられなかった或いは、与えられていたのに自らそれを断ち切った数多の革命家や芸術家のような実績も伝説もない彼にはそのささやかな祈りさえ虚しい。

 それは果たされない約束だから。

 果たされない約束。果たされることのない約束。果たされたことのない約束。

 幻覚と現実の狭間、高層ビル群が立て続けに崩壊しているのが見える。心に突き刺さるような負の感情とつま先から血が引いていく感覚がないのでそれは現実の出来事ではないことがわかる。その惨事を彼の隣で眉一つ動かさずにグラスにハイビスカスを落としたマイタイを舐めながら俯瞰している女がいる。三葉の写真どころか、つい数年前までは彼の人生にさまざまな光と影を落とし、終焉まで関わる可能性のあった女だ。

 陽だまりの笑顔と空っ風の無理難題を彼に課し続けた女。処女の恥じらいと娼婦の妖しさで彼を一目惚れさせた女。絹の肌とマイナス百℃の皮肉で彼を混乱させた女。上質なチーズの子宮とテンダロインステーキの肉体で彼を篭絡した女。青空の寛大さと理由のない驟雨で彼を錯乱させた女。古代の神秘と現代の合理で彼の魂を奪い去った女。朝に生まれ夜に死に彼を悲嘆に暮れさせた女。悲しみのように美しいのに他人の悲しみには徹底的に無関心な女。

 これが現実の出来事であっても悲しんだりはしないんだろうな。

 彼は、全てをあきらめたように微笑んだ。



 強烈な喉の渇きで目が覚めた。

 快適なエアコンの冷気がまだ熱の下がらない肌に心地よい。晩秋のこんな時期に熱に魘され、現実と非現実とが混沌としながら混在し、何の断りもなく、世界を都合のいいようにいじくりまわされていると言ってもエアコンでは時系列まで辻褄が合わなくなる。まるでアンへレスかサダルストリートあたりの即ち、熱帯の場末のホテルにでもいるようだ。しかも、この体の熱さは発熱ではなく、寝起きにまだアルコールが抜けきらない、足元が地上から五ミリほど浮ついたあのフワフワした状態だ。確かにアルコールは入っているようだ。

 それにしても、いつの間に?

「天ちゃん。気が付いた?」

 チェジウのようにおばさんくさい声。

 あの頃、冗談でよく「お前の声も田中美里に吹き替えてもらえ」って軽口叩いていたのが懐かしい。

 本当は、この女の魔性に身も心もすっかりいかれていたくせに、安目を売りたくないものだから、怯えながら強気を装ったものだ。だとしたら「熱帯の場末のホテル」は当たらずとも遠からず。ここは数年前まで居を構えていたバンコクエカマイソイパシーの安アパートの角部屋ということになる。ベッドの下に転がっている半分以上空いたリージェンシーのボトルと机の上の食い散らかしたヤムウンセンとガイオップの皿がここが日本ではないことを雄弁に物語っている。

 そう。あの頃……

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