寶島

野田詠月

第1話 序章

はぐれはぐれて

逃れ逃れた地の果てで

皺くちゃになった理想に泪を零し

陽の匂いを思い出そうとするたび

「何が幸福か?」ということが

ハラワタの底の底の底へと突き刺さる

そしてハラワタが濁りはじめる

安い酒に喉が焼けるように痺れている

八方塞がりに慣れたように

四面楚歌に慣れたように

真実を揉み消される事にも

きっと耐性ができてしまうのだろう

神在月の議題にのぼるべき彼女が

こんな微笑の消えた街で

なぜひとりぼっちで貶められ続け、

ひとりぼっちで闘い続けなければいけないのか?

八百万の神の証を得るにも姑息な根回しが必要だと言うのか?

ねぇ、正義はおいくらですか?

ねぇ、祖国はおいくらですか?

言い値を払うので

どうか寶島まで僕から奪わないで

匕首動脈に突き刺せば人生なんて簡単に終わる

だけどやめておけ

愛されたかったら何をやっても許されるのか?

罪を重ねる余力があるなら

何度も何度も欺き続けても信じてくれた

年老いた親に「ありがとう」とでも言ってやれよ

寒い

真夏だと言うのに寒い

寶島の記憶

またひとつ

カーテンのスクリーンに影絵の寸劇

青春のようにいとおしげに燃え尽きた



「求めば与えられず、されどあきらめ切れず、真摯に頭を垂れて乞えども足蹴にされる」

 吉原天佑にとっての半生は、まるでその言葉に脚本、演出、配役、大道具、そして、劇場と当日のケータリングや打ち上げ会場の手配に至るまで主宰された芝居のようにひたすらに結果の不在の中を生きてきた。

「人生は何を得たかではなく、何をやってきたかが重要だ」と胸を張って講演会やら著書で説く社会的成功者もいるが、掘っても掘っても鉱脈にたどり着けない彼には憐れまれながら否定されているようで空疎なだけだ。

「天より多くの助けがあるように」という願いをこめて台湾人の祖父から付けられたその名も皮肉なことにまったく体をなしていない。それならば、ありふれた日本式の名前にしてもらったほうがどんなによかったかと悔やめど、旧正月や清明節に台湾を訪れると人なつこい笑顔で迎え、今日日の日本の若者なんかよりもずっと正しく、好ましい日本語で日帝時代、すなわち、青春時代の色々な話を聞かせてくれる大好きだった祖父を想えば、口に出すことはできない。

 三十五を過ぎた昨年の初夏あたりからは目に見えるように体力が落ち始め、その求めるもののために向ける情熱を維持するのにも息も絶え絶えになる有様だ。それでも、性根が明朗でわだかまりがなく、マゾヒストと違えるくらい忍耐強い彼ゆえ、簡単にそのチキンレースからは逃げ出すことはないのだが、今夜のように健康を取り上げられ、一人ぼっちで気の遠くなるような発熱と悪寒と間接が千切れてしまいそうなくらいの節々の痛みにのた打ち回っている時は「もう転んでしまおう」と弱気になりもする。

 太陽の匂いが消え、その代わりにトニック系の体臭とあまり自分の体臭を好まない彼が愛用しているブルガリのアクアというタイプの違う二つの匂いが不機嫌に絡みついた毛布にくるまって震えている。

 すでに軀の支配者は入れ替わり、骨髄の中でトランプのジョーカーに似た出歯の男が煮えたぎったスープみたいに血液をグツグツと沸騰させて、意地悪くそいつをステッキで攪拌させながら不敵に笑っている。そんなそのうち使えそうな比喩が浮かんだところでペンを握る気力はない。ベッドで高熱に魘されているのは自分なのか?それとも自分ではない誰かの死体なのか?わからなくなるほどに高熱で意識は朦朧としているし、今にも死にそうな老婆の声で『グレゴリアンチャート』を歌う幻聴が聴こえる。それは地を這うような埃と垢を身に纏った招かざる福音であって、ルーベンスの絵画の前で力尽き、愛犬とともに数多の天使たちに天国へと導かれた悲運の天才少年ネロには程遠い。

 闇の中で求めるものは、柔らかな女の肉体や行為の終わったあとにそいつが漏らしてしまう陳腐な愛の言葉でもない。

ロキソニン一錠。

 それだけあれば、一時間後にはこの苦しみなどはじめからなかったかのように眠れるはずだ。

ロキソニン一錠。

 今の彼にとって幸福は金銭で購える。

 しかし、深夜三時という絶望的な情況が意地悪く行く手を阻んで、それすら与えられない人生に立ち往生し、苛立ちながら、快楽に変わることのない苦痛を消去するためのロキソニンを、ロキソニン一錠を、求めているが、それは熱で口の中がカラカラに乾いてしまっていて声にならず、老婆の歌う『グレゴリアンチャート』にすらならない。

 孤独死するのならば、こんな暑いのに寒く、饒舌なのに寡黙な苦しみに塗りたくられたちぐはぐな夜よりももっと、ありふれた穏やかな夜がいい。できれば誰にも迷惑をかけずに、薄れゆく記憶の中で微笑んでいたい。

 ロキソニンが無理なら、せめてそれだけでも……

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