無我-crazy in trouble- 1
◆二〇〇五年 六月十一日 叶市某所
土曜日の午後は一面の曇り空となった。
雨雲ほど重たい色味ではないものの、陽の光を遮るには充分な厚さの雲が幅を利かせている。
そう表現すると、なんとも気分が沈みそうなものだけれど、人出はここ数日のうちでは一番多かった。
「……五日ぶりの雨上がりなら、こうもなるか」
既に梅雨入りを果たしていた関東地方においては、たとえ曇り空でも晴天と同じくらいの価値があるのだろう。久しぶりとなる傘要らずの休日で、ここ
その中においてオレは、どちらかというと今の空模様に近い気分で往来を進んでいる。
その理由は二つ。
一つは、この外出が自分ではなくオレの雇い主、
簡単に言ってしまえば、上司のための使い
「ったく……買い物くらい、自分でやれよな……。しかもコーヒーの粉とフィルターって、神流しか使わないじゃないか」
ぶつくさ言いつつも、歩いていればそのうち目的地には辿り着くもの。
街に一つはあるであろう、
あとは必要な物を購入するだけ。
……なのだけど。
ここでどんより気分の理由、二つ目が顔を覗かせることになる。
らっしゃいませー、と気の抜けた女性店員の声に出迎えられつつ、オレは狭い店内から最も安いコーヒーフィルターを探し出す。
ちなみに神流がコーヒーを求めるのは別に味に凝っているわけじゃなく、朝の仕事始めで一杯飲むというのがルーチンになっているだけ。……という身も蓋もない理由だったりするので、なおさらこの買い物に対するオレのモチベーションは上がらない。
徳用フィルターを片手にレジに向かう。この店はコーヒー豆の仕入れに力を入れているようで、レジ前に多種多様な豆が陳列されていた。
ざっと説明文を眺めると酸味と苦味のバランスだ何だと色々書いてあるけれど、オレはろくに飲んだこと無いし、どうせ神流も味わって飲んでるわけじゃないだろう、とこちらも最安値のものを選ぶことにした。
「あー、すんません。この……コロンビア?ってのを二〇〇グラム」
「はぁい。かしこまりました、少々お待ちくださーい」
慣れた手つきで豆を量り取り、自動のコーヒーミルで手早く粉末に仕上げていく。
……店員はまだオレの素性に気付かない。
決して愛想が良いとは言えないまでも、しつこくない程度の丁寧さを備えた心地良い接客。
そんな彼女もひとたび気付いてしまえば、どんな反応を示すことになるかは分かりきっている。
ミルの豆を砕く音が、それまでのカウントダウンに思えた。
「お待たせいたしました、そちらの商品と合わせてお会計――――」
せせらぎのように流れていた女性店員の言葉が、詰まる。
まるで、いきなり排水溝のドブにぶち当たったみたいに。
オレと視線がかち合う。
正確にはオレの左目、少し下にあるとある刺青に、彼女の視線は釘付けになる。
その刺青が示すところを理解して、表情が消える。
「――……あ、九五〇円……です」
どうにか絞り出された続きの言葉もまた、色彩を欠いたものだった。
それでもオレは、彼女のことを評価したいと思う。
経験上、オレの素性に気付いた人間のほとんどは愛想笑いを浮かべる。
相手と事を荒立てないために使われる、その場しのぎの笑顔。表面上はにこやかでも、その根底にある、
――――急に暴れ出したりしませんように
――――頼む、それ以上近寄らないでくれ
そんな本音が見え透いている、嫌な笑顔を。
マイナス感情が伝わってくる愛想笑いに比べれば、ゼロ感情な彼女の無表情はオレにとってむしろプラスだ。
きっと、店員としての能力が彼女の心情とは無関係に機能しているんだろう。
「千円頂戴します…………五〇円のお返しです」
「どうもー」
釣銭皿に載せられた硬貨とレシートをつかみ取る。
もし相手がオレじゃなかったら手渡しだっただろうか。
自分が世間一般にとって異常者であることを嫌でも思い知らされる。
今までに幾度となく経験してきた光景とはいえ、やはり良い気分はしない。
一〇分にも満たない買い物を終えて、元来た道を歩く。
空を覆う雲は、心なしかその重みを増しているような気がした。
◇◇◇◇
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