2.落陽

 エルロイのパイプからくゆる煙が、夕陽に照らされてきらきらと輝いていた。その向こう側に立つアイジーの姿は、背後からの夕陽に彩られ、さながら地上に舞い降りた女神か、さもなければ血染めの悪魔のようだった。


 黙っているアイジーに向かい、エルロイはジャケットのポケットからなにかを取り出す。



「これに見覚えがありますよね?」


「…………」



 それは、大聖堂に押し入った際、エルロイがルーネットに入手を頼んだものだった。細い鎖で作られた装身具だ。



「そう、あなたがロアム・ドーソン神官に渡した頭飾りサークレットです。そして……」



 エルロイはちらりとおれを、そしてルーネットを見る。



「……相手に身につけさせた魔道具を通じ、感覚を共有して相手の身体を操る……擬験シムスティムという魔術を施すためのものだ」



 そう、それはおれがドーソンと会った時、身に着けていたもの――そして、死んだドーソンもまた、それを身に着けていた。だが、通常神官はそんな装飾品を身につけたりはしない。



「違和感はあったんです。ラッドから聞いたロアム・ドーソン神官の印象は、どことなく浮ついて軽薄な印象だったという。だが、実際のドーソン神官は無口で厳粛な、遊びひとつしない男だったらしい」



 そうだ――ドーソンをおれに繋いだという故売屋のギルも、似たようなことを言っていた。だいたい、ドーソン本人が盗賊ギルドの構成員に話を通す符丁を知っているはずがない。



「あなたは言ってましたね。地方の教会の司祭は、領主様から泥棒まで広くつき合いがある……と。そのコネクションとドーソンの身体を使い、あなたはラッドに接触した。大聖典マーテル・アヴィアの間に入る扉の合鍵を作るためにね。なぜなら、それだけはあなたの作ったものではなかったからだ」



 エルロイは手にした頭飾りサークレットを弄びながら、言葉を継ぐ。



「ラッドが解析してくれましたよ。確かにこの頭飾りサークレットには擬験シムスティムの魔術が込められていました。非常に強力なものだそうです」



 そして、その魔術は聖典マーテルと同じ、混沌言語の組み立てアセンブリで構築されていた。魔紋は偽装されていて読み取れなかったが――



「ドーソン神官はどうやら、あなたに心酔していたらしい。なにしろあなたは聖祖イズなのですから、それも当然でしょう。擬験シムスティムは相手にどれだけ身体を明け渡すか、術をかけられる側の意思に大きく効果が左右されますが……貴女に心酔していたドーソンなら、自殺さえ可能にする強力な術が施せたでしょうね」



 アイジーは反論もせず、ただ黙っていた。その表情は穏やかに、エルロイの言うことを受け止めているようだった。断崖の下から聞こえてくる波の音が、夕暮れの静けさの中に響く。



「……いつから、私を疑っていたのですか?」



 静けさの満ちる情景を、崩さないような声でアイジーが言った。エルロイが金髪を揺らし、答える。



「僕らが襲撃を受けたあと、ダルトサイドの酒場で会った時です」


「なぜ?」


「あの時、僕らは馬車を失い、御者も死んだと言った。それに対して、あなたはこう言ったんだ。『困っているならうまやを紹介する』ってね……御者が死んだことにはまったく反応せずに、です」



 エルロイはパイプを咥え、言った。



「それであなたが上帝神族アルコンであることを疑った。僕が言うのもなんですが、上帝神族アルコンは他者に対する共感性が著しく低い。なにしろ、文化や社会というものを持ちませんから」


「…………」


上帝神族アルコンだとすれば、1500年前に聖典マーテルを作ったというのはおかしな話じゃない。そして真犯人は、以外ではあり得ないんです」


「……なるほど、これが探偵ディテクティブか」



 アイジーはため息をついた。背の高いその身体が、ふらっと揺れて肩を落とす。エルロイはパイプを手に、アイジーに問うた。



「聞かせてもらえますか? 聖祖イズがなぜ大魔王を作り出し、なぜそれを消去したのか」


「別に、大した話ではありません。あれは人間たちへのプレゼントだったの」


「……プレゼント?」


「ええ、プレゼントよ」



 アイジーはブドウの木の枝に手を触れ、言う。



「1500年前……人間はもっと野蛮で、獣たちと大して変わらない存在だった。道具を作り、魔獣から身を守って村落を作り、強い個体がリーダーとなって国が生まれた。そうして必死に生き延びようとする姿に、私は興味を惹かれたのです」



 おれたちは黙ってそれを聞いていた。アイジーは続ける。



「一部の上帝神族アルコンたちが、人間たちに魔術を伝えた。人間たちはそれを独自に発展させていたものの、まだそれは稚拙なものでした。個体のそれぞれが、バラバラに活動しているから、10年経っても、100年経っても、大した発展は見られない。私は考えました……彼らに必要なのは秩序だと」


「……それで、聖典マーテルを作ったと……?」


「正確には、私一人で作ったわけじゃないのです。人間たちの中に、少数の意志ある者がいてね。彼らの要望に応える形で、私は聖典マーテル構造体アーキテクチャを構築していったの……」



 ――かつて、5人の賢者が神の使徒から言葉を賜り、その導きを伝えるために聖典教会を作った。教会を作ったその賢者たちは、飢餓や病気、戦乱などの困難に苛まれる世界を嘆き、人々を導くための知恵を模索した。


 彼らは人が隣人を愛し、その命と自由を尊重することを教えるため、洗礼によって戸籍を作った。生まれた者に対し、世界にその居場所と役割があることを教えるためだ。


 賢者たちが望んだことは、人々が自らの役割を尊び、世界のためにその役割を全うする世界。その要請から職能洗礼クラス・バプテス職能系ジョブが作られた。人々が未来に望みを持つことができるよう、階級レベルが作られた。そうやって、聖典マーテルは徐々にその機能を拡張していき、聖典教会はそれを核とした教義を大陸中に広めていった――



「……だけど、そうやって世界の仕組みが固まっていくと、かならず不確定要素バグが生じます。社会の枠組みから外れる者、仕組みに過剰適応してただ乗りフリーライドし、楽をしたり、権力を得ようとする者、とかね」



 アイジーはブドウの木から枝をひとつ、手でもぎ取った。



「世界が過密になれば、必要なところに栄養が行き渡らず、不要なところが肥え太る。それを避けるためにはが必要になるんです」


「……剪定だって?」


「ええ、そうよ。増えすぎた個体を間引いてあげるの」



 アイジーはもぎ取った枝を地面に捨て、言った。



「ただ……ブドウ畑と違って、わざわざ手で剪定を行うのはかなり面倒でね……それで、聖典マーテルの中にその仕組みを作った。それが『大魔王』です。これは我ながら、いいアイデアだと思ったわ」



 アイジーはにっこりと笑った。おれはその笑顔に底知れぬ恐怖を覚えた。なんだ、この――は。人間の間引き、剪定なんていうとんでもないことを言っているのに、本当にブドウの剪定と同じ調子で話をしてなんの疑問も持たない、この笑顔は――


 おれは拳を握ることさえできず、ただ呆気にとられていた。それはルーネットも同じだったに違いない。エルロイだけが、淡々とその言葉を受け止め、パイプをひと口、吸った。



「……それをなぜ、消去したんです?」


「……結論から言うと、『大魔王』は失敗だったと思ったの。500年前に現れた大魔王は、50年に渡って大陸中で暴れまわり、人間の文明を壊滅に追いやりました。せっかく、高度な魔術文明が発達してたのにね。ちょっと強力過ぎたみたい」



 アイジーは眉を八の字にし、困ったような顔をした。まるで、ミルクをこぼした失敗談を話すかのような調子だ。



「あれは私が起動する仕組みだったから、まあ二度と使わなければいいかなーと思ってたんですけれど……あのクィゼロスっていう人は、自力でその〈魔典〉を創り上げ、大魔王の職能系ジョブを引き出したんです。正直言って、感心しました」


「……もういい……」



 おれはアイジーの話を聞く内、こみ上げるものを抑えきれなくなっていた。やっとのことで絞り出したおれの声はしかし、アイジーに届かなかったらしい。アイジーは話を続ける。



「そろそろ剪定の時期でもあるかと思ったし、まあ、いいかなと思ってみてたんですけどね。そこに、あの勇者が……」


「もういいって言ってるだろ!」



 激昂して叫んだおれの声が、アイジーを黙らせた。



「なんなんだお前はさっきから!! 剪定? いいアイデア? 強力過ぎた!? ふざけんな!! 人間はブドウの木じゃねぇ!!!」



 一気にまくしたてた。涙が流れているのを自覚した。おれの声はそれでも、夕暮れの情景の中にこだますることさえなく、ただ流れていくようだった。



「……でも人間は、ブドウの木を平気で剪定するでしょう?」



 アイジーはこともなげに言って畑を見渡す。



「そういうものよ、人間さん。知能というのはね、自分より下位の存在には共感できないものなの」


「な、にを……」


「あなたには怒る権利があるわ。自分の同胞をたくさん殺されたんですものね」



 そう言って、アイジーはおれたちの方を向き、両手を軽く広げて立った。



「たとえ植物でも、過剰に収奪しすぎれば干ばつや砂嵐、山崩れを呼び、牙を剥いて逆襲する。人間が逆襲するというのであれば、私は甘んじてそれを受けましょう」



 アイジーの姿が夕陽の中に揺らめき、水面に浮かぶ像のように、その輪郭が崩れていった。その頭部は白い骨格が露になり、首から下も白い甲殻のようなものを纏った、黒ずんで細い手足の伸びた姿に――



「……上帝神族アルコンイズ。あなたは……」



 上帝神族アルコンとしての正体を顕にしたアイジー――聖祖イズの姿を見たエルロイが、呟くように言った。



「ふふふ……あなたたちは間に合ったのです」



 イズが言った。


 上帝神族アルコンとしてのその姿――それは、人間であるおれの目から見ても、はっきりと老いさばらえ、衰弱した醜い姿だった。



上帝神族アルコンは物理的に死ぬことはない。例えその肉体が消滅しても、いずれ甦る……自らの魔力が尽きるまではね。2000年近い時を生きた私の魔力は、今まさに尽きようとしています」



 黒ずんだ手足は折れそうなほどにボロボロで、白い甲殻にもヒビや染みが目立つ。かつては強靭な皮膚であったであろうその顔も、しわがれて頬が落ちくぼみ、崩れ落ちかけて動く屍ゾンビのようになっていた。



「さあ、逆襲を果たしなさい……早くしないと、もう……」



 そう言って聖祖イズは、その場に膝をついた。


 夕陽が、山際に沈もうとしていた。紅に染まる空に夜の闇が染み渡り、さながら血が乾くように世界が色を失っていった。



「……人間に……祝福を……」



 聖祖イズが呟くように言った。その声が風にさらわれて消え失せると同時に、その身体も灰となり、崩れ落ちた。


 おれたちは黙ってその場に立ち尽くしていた。あまりに静かなブドウ畑の情景に、断崖の下から響く波音が日の終わりを惜しむように語り掛けていた。


 頬を伝う涙を、おれは拭った。



「……てめぇに言われるまでもねぇ」



 おれは足を踏み出して前に進み出る。そして、イズの身体が崩れ落ちたその灰に、唾を吐いてから足で踏みにじった。

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