月光浴

椎崎麗

第1話

 夜に寝て、朝起きる。

 ただそれだけのことが出来ない、そんな時期がある。

 不定期に訪れるそれを扱いきれずに持て余して、眠れない夜と、起きられない朝を繰り返す。その度に学校へ行けなくなったり、仕事を辞めたりして、もう何年が経っただろうか。


 陽の光を浴びること。

 月の光を浴びること。


 そのどちらもが必要なのだと気付いたのは、つい最近で。もしかしたらこの気付きが、自分の人生を変えるかもしれない。そう思えるようになった。


 そう、思わせてくれたのは、彼女だった。



 ―月光浴



 友人たちと夕方から集まって、道玄坂で飲み会をした土曜日。

 二軒目の誘いを断ってその場で別れようとしたら、「最近付き合いが悪い」とか「彼女でも出来たのか」とか「家で女が待ってるのか」とか、揶揄い半分、不満半分で告げられる。

 まだ19時前だから、引き止められるのも仕方がない。それでも適当な返事をして、笑顔で片手をあげて家路を急いだ。

 商業施設の中を通って、JR線方面へ。

 途中でピアノの音色が聴こえてきて、音の出所に視線を向ける。そこには所謂ストリートピアノというものが置いてあって、時々演奏をしている人がいるのだが。

 この日の俺はやけにその空間が気になって、行き交う人波の中、気付けば足を止めていた。

 黒いワンピースを着た金髪の女性が座っている。白く華奢な指が鍵盤の上を滑っていく。

 この曲、なんだっけ。聴いたことある。目は彼女に釘付けのまま、頭は曲名を思い出そうとフル回転。

 そして、曲が終わる頃、彼女の髪色を見て浮かんできたのは。

「…月の光だ」

 思わず己の口から出た言葉にハッとして固まっていると、ピアノの前に座る彼女がこちらを向く。

 こんな雑踏で聞こえていないだろうと思われた俺の呟きは、しっかり彼女の耳に届いていたようで、「ご清聴ありがとうございました」と微笑まれる。

 彼女が立ち上がって荷物をまとめ終えるまで、その一挙手一投足から目が離せなくて、頭の中では自分のことをやばいやつだとか、怪しすぎるとか、あれこれ考えているのだけれど、なぜか動き出せない。

 このまま立ち去るのが惜しい。この子を見失うのが惜しい。そんな覚えのない焦りに襲われる。

 ナンパなんてしたことがないし、声の掛け方もわからない。そもそもナンパなんて軽薄なこと、この子にしたくはないのに。

 ずっとその場で頭を働かせていると、彼女が口を開いた。

「どうぞ?」

 ピアノと俺を見比べながら言う。どうやら順番待ちをしていると思われたらしい。

「あ、違うんです」

 それから次の言葉が紡ぎだせない俺を不思議そうに見ていた彼女は、鎖骨の辺りまで伸びた月色の髪を揺らして、静かに笑う。

「ピアノ、お好きなんですか」

 せっかく会話を続けようとしてくれているのに、なかなか言葉が出てこなくて、「まぁ…」とか言いながら小さく頷く。

 すると、彼女は手帳型のスマホケースを開いて内側のポケットから何かを取り出した。

「私、たまにここで弾いてるので、良かったら来てください」

 手渡されたそれは、小さなショップカード。駅から程近いジャズバーのものだった。

 19時オープン、明け方まで営業しているというその店は、俺にとって魅力的でもあり、厄介でもあった。

 出来るだけ夜更かしをしたくない。朝、起きるために。でも、眠れない夜を過ごすくらいなら、そこへ行って彼女のピアノを聴きたい。

「…絶対行きます」

 俺のその言葉に、彼女はまた笑う。


 それが彼女との出会いだった。

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月光浴 椎崎麗 @urarashiizaki

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