八章 『雌狐』と呼ばれる王妃

 ヴェガの王宮。

 その謁見えっけんの間。

 そこは広く、高く、空間をたっぷりと使った贅沢な場所だった。

 国王の威厳いげんを高めるためだろう。床には赤い絨毯じゅうたんが敷かれ、そのはるか向こうに玉座がしつらえられている。

 ――人間ってほんと、面倒くさい。

 〝知恵ある獣ライカンスロープ〟の少女はいかにも〝知恵ある獣〟らしい感想をもち、こっそり吐き捨てた。

 謁見が許されるまで控えの間でさんざん――メインクーンの主観では一〇〇回ぐらい、人生をやり直せそうなほど――またされたので、かなり不機嫌なのだ。

 「こんなにまたせたあげく、さらに歩かせるっていったい、何様のつもりなの?」

 「国王さまだ」

 不満たらたらでボヤくメインクーンに対し、新米兄は律儀りちぎに答えた。

 メインクーンを国王に紹介するべく、アドプレッサによって王宮に連れてこられた日のことだった。

 「ともかくだ。今日ははじめて国王陛下にお目見えするのだ。エリンジウム公爵家の一員として恥ずかしくないよう振る舞うことだ。いいな」

 「わたしは〝知恵ある獣〟のキャット血族クランよ」

 「それがどうした?」

 「猫をかぶるのは得意だってこと」

 メインクーンはそう言うと右手をあげた。軽く握った拳をチョコンと曲げ、猫パンチのポーズを作る。そして、

 「にゃおん」と、一声、鳴いたのだった。

 アドプレッサはまっすぐに前を見据え、サーベルを思わせる長身をピンと伸ばして歩きはじめた。メインクーンもあとにつづく。絨毯の両脇に並ぶ衛兵たちが掲げる旗のトンネルのなかを、ふたりはまっすぐに歩いて行く。

 ようやく、玉座の前までたどり着いた。

 アドプレッサはうやうやしく臣下の礼をとった。メインクーンもそれにならう。

 目の前には三人の人間がいた。

 玉座に座るのは国王エルウッディ。

 黒髪黒目に中肉中背という典型的な東北翼人の血統。造形それ自体は貴族らしく品があり、美丈夫と言えなくもない。しかし、なんとも無気力そうな様子で、張りもなければ、緊張感もない。まだ四〇代のはずだが全体にくすんだ印象で二〇歳も年かさに見える。いや、実際に並べてみれば六〇代の人間の方がよほど若々しく見えるだろう。それぐらい、生気というものを感じさせない人間だった。

 軟体動物のようにぐたっとした座り方で『椅子に座っている』と言うよりも『椅子に寄りかかっている』と言った方が正しい。とてもではないが北方大陸第二の強国の王には見えない。

 その脇に立っているのが王妃のドーナ。

 長身ちょうしん痩躯そうく金髪きんぱつ碧眼へきがん。エルウッディが玉座に寄りかかっているために正確なところはわからないが、おそらくエルウッディよりも背は高い。名前といい、雪のように白い肌といい、美しいけれど骨張った、キツい印象を与える顔立ちといい、典型的な北方人。

 ――この人が王妃ドーナ。ヴェガの女狐。ヴェガの事実上の最高権力者と言われる……。

 旅の間、ヴェガ王妃ドーナのうわさは何度も聞いた。そのなかに好意的なものはひとつもなかった。

 ――女狐。

 ――陰謀家。

 ――冷徹な策士。

 そんな噂ばかり。なかには、

 ――国王を薬物で操り、国を私物化している。

 と言う、もはや単なる誹謗ひぼう中傷ちゅうしょうとしか思えないような噂まであった。

 しかし、はじめてその姿を見てメインクーンも思った。

 ――そう言われるわけだわ。

 なんともくすんだ様子で、生気も、意思力も感じさせない国王エルウッディ。それに対し、王妃ドーナはその肩書きにふさわしい気高い美しさをもち、目には強靱な意思と理知的な光が宿っている。あまりにも対照的なその姿を見れば誰でも『王妃が国王に薬物をもって操っている』という噂を事実だと納得するだろう。

 そして、もうひとり。

 ドーナの隣にひとりの男が立っている。エルウッディと同年代か、少し、上ぐらいだろう。ドーナと同じく金髪碧眼、骨張った顔立ちの典型的な北方人。国王の前だと言うのに妙に態度が大きいというか、馴れ馴れしいと言うか、そんな印象。明らかに臣下の分を越えた態度でいる。

 「王妃ドーナの兄、この国の軍司令官を務めるシペルスだ」

 アドプレッサが小声で言った。

 ――ああ、なるほど。

 メインクーンは納得した。

 シペルスが軍司令官と言う肩書きにふさわしい人物ではないのは一目でわかった。

 体線はすっかり緩んでいるし、立ち姿もフラフラして重心が定まらない。アドプレッサの芸術的なピンと伸びた立ち姿と比べれば醜いほどにお粗末な姿。武芸の訓練ひとつせず、酒色しゅしょくにふけっているのは明らかだった。

 その瞳に宿る光は小狡こずるそうではあったが、ドーナのような苛烈な意思も、端倪たんげいすべからざる知性もない。まずまちがいなく凡庸ぼんよう、あるいは、それ以下の人物。妹であるドーナが王妃になったことで自動的にその地位に就いただけの人間。

 そのことが一目でわかる。

 であればこそ、臣下の分を越えた馴れ馴れしい態度も納得が行くというもの。妹が王妃になったことで、自分こそがこの国の実権を握っていると思い込んでいるのだ。旅の間、ドーナの噂はよく聞いたが、その兄のことなど一度も聞いたことはなかったのだが。

 ――なるほどね。これじゃ兄さんが窮地きゅうちに追い込まれるわけね。

 ふたりの姿を見てメインクーンはそう判断した。

 ドーナといい、シペルスといい、典型的な北方人。東北翼人の血統が主流であるヴェガの宮廷においてはむしろ、異分子。

 もともと、ヴェガは東北翼から侵入した一団が建国した国。その過程で地元民を支配しやすくするために地元の有力氏族との婚姻政策を重ねてきた。ドーナの家系もそうしてヴェガの支配者階級に取り込まれた現地の有力氏族なのだろう。

 特権意識の強いヴェガの貴族たちからすれば地元出身の女が王妃の座に着いたと言うだけで気に入らない。まして、国王を差し置いて実権を握っているとなれば。

 幾重にも腹正しい思いであるにちがいない。

 しかも、その兄までが軍司令官に就任したとなれば、

 ――やつらは、自分たちの一族でヴェガを支配しようとしている!

 そんな風に思っても不思議はない。

 そして、それはおそらく思い込みでもなければ、勘違いでもない、完全な事実なのだ。

 占領民族のなかで被占領民族が自分たちの立場を守ろうと思えば、逆にすべてを支配するほどの権力が必要になる。望むと望まざる徒にかかわらず、自分たちが生き延びるために権力を手に入れなければならない。それがドーナの実家の立場なのだろう。

 そして、このいかにも油断のならない王妃はその立場を完全にわきまえ、権力をその手に握るべく画策しているのだ。

 となれば当然、東北翼系のヴェガの貴族たちは危機感をもつ。

 北方系の血族がヴェガを支配したなら、東北翼系の自分たちはどうなることか。

 その不安がある。

 自分たちが北方系を支配してきたからこそ、立場が逆転したときのことが恐ろしい。

 その危機感の行き着くところ、ドーナとその一族を排除したいと思う。その貴族たちにとって重要になるのが国内最大貴族であるエリンジウム公爵。王家の血も混じっているエリンジウム公を祭りあげて玉座に着けることが出来ればドーナとその一族を排除出来る。

 そうなれば自分たちは安泰、と言うわけだ。

 逆に言うとドーナとその一族にとってはエリンジウム公こそは最大の政敵であり、敵対貴族たちを黙らせるためにも何としても追い落としてやりたい相手、と言うわけだ。

 その現エリンジウム公爵であるアドプレッサが実は、エリンジウム公爵家の血を引いていないとなれば……。

 ――嬉々として断頭台に送り込むわね。

 そして、エリンジウム公爵家はお取りつぶし。東北翼系の貴族たちは威勢いせいをそがれ、ドーナとその一族はヴェガを支配して我が世の春を謳歌おうかできる、と言うわけだ。

 ドーナの一族にしてみれば何としても今回の件でアドプレッサを処分してしまいたいにちがいない。それだけ、アドプレッサは危機的状況にいるわけだ。

 そして、それはそのままメインクーンの危機でもある。アドプレッサが処刑されるとなれば、その妹としてヴェガに乗り込んだメインクーンにも同じ運命がまっているのだから。

 ――でも。

 と、メインクーンは思う。

 ――だからこそ、わたしの存在が重要となる。うまく立ち回れば、ヴェガの貴族としての力を手に入れられる。

 必ずやる。

 やってみせる。

 メインクーンは心のなかでそう誓った。

 自分と母を苦しめた戦争を殺す。

 そのために。

 「おお、よく参られた、エリンジウム公アドプレッサ」

 国王と王妃を差し置いてそう声をかけたのは軍司令官シペルスだった。

 品性の卑しさを示すかのような横柄おうへいな態度。人を見下した視線。どちらもメインクーンにとって、と言うより、独立どくりつ不羈ふきの気性をもつ〝知恵ある獣〟にとっては嫌悪の対象でしかない。とっさに飛びかかって喉笛を噛み切らないようにするには、かなりの自制が必要だった。

 シペルスはニタニタした笑いを浮かべながら粘着質の声でつづけた。

 「実は先日、興味深い手紙が届いてのう。なんでも、そなたの父がよその女に子を産ませたとか。はてさて、先代公爵の子と言えば、そのほう、ひとり。そして、先代公爵は先々代の娘婿であり、公爵家の血を引いてはおらぬ。となれば……」

 シペルスは勝ち誇った表情を向けたまま、勝利の美酒を味わうかのように口を閉ざした。その横では王妃ドーナが冷徹だが理知的な視線をメインクーンに向けている。

 この状況下でメインクーンの存在を気に懸けていない、その時点でシペルスの無能振りははっきりとわかる。しかし、この王妃は――。

 ――鋭い。

 メインクーンはそう直感した。

 それはヒトの理性ではなく、獣の本能。

 獣の生存本能が『危険な相手』と警告しているのだ。

 ――敵に回して得する相手ではなさそうね。

 メインクーンはそう判断した。

 一方、国王エルウッディはと言えば――。

 眼前で行われるやり取りが目に入っているのかいないのか、相変わらずぐたっとした様子で椅子によりかかり、声ひとつあげようとしない。

 アドプレッサが答えた。

 「今回はその手紙の件でまかり越しました」

 「ほう? 何と申し開きをするつもりなのかな?」

 シペルスはすでにアドプレッサの死刑執行書にサインしたつもりなのだろう。完全に罪人を見る目で言った。いや、あざけった。

 アドプレッサは内心でははらわたが煮えくり返っていたにちがいない。

 シペルスなど、アドプレッサが少しでも本気をだせばまばたきひとつする間もなく斬り捨てることの出来る相手なのだ。そんな相手に嘲られて、平気でいられるはずがない。

 しかし、アドプレッサはその思いを白皙の美貌の下に隠して静かに告げた。感情のさざ波さえ感じさせないその自制心は見事と言えた。

 「その手紙の子供を紹介いたします。我が妹、メインクーンと申します」

 「妹だと⁉」

 シペルスはようやくメインクーンの存在に気が付いたように驚愕きょうがくの視線を向けた。

 ドーナは理知的だが冷徹な視線を向けたまま静かに問うた。

 「……メインクーン。その娘が手紙の御子みこと?」

 「国王陛下。王妃殿下。謁見をお許しくださり、光栄に存じます。メインクーンと申します」

 メインクーンはアドプレッサが思わず驚きの表情を浮かべるほどの完璧な礼儀で挨拶した。もとより、トリトン公国で未来の大公妃としての教育を受けた身。必要とあれば『猫をかぶる』ぐらい、わけはない。

 「しかし、そなたは〝知恵ある獣〟であろう?」

 「はい。幼少の頃より母とふたり、戦火に追われて旅をしておりました。このほど、兄に見出され、この地へとやって参りました」

 「ば、馬鹿な……! こんな都合良く妹が出現するなど、そんな都合のいい話を誰が信用するか!」

 シペルスは泡を食って叫んだ。

 ドーナはあくまでも静かに質問を重ねる。

 「人間の男が〝知恵ある獣〟の女に子を産ませる。それがどういうことを意味するか、知らないわけではなかろう、エリンジウム公?」

 「はい。我が父がそのような所業を成していたとは誠に恥ずべきこと。慚愧ざんきにたえません。その分、妹には良くしてやりたいと思っております」

 「ふむ」と、ドーナ。改めてメインクーンを見た。

 「メインクーンと言ったな。その方、母とふたり、旅をしていたと言ったが、お母上はどうされておる?」

 「亡くなりました」

 「亡くなった?」

 「はい。一年ほど前に。もともと病弱なたちでしたから。いましばらくながらえていれば、兄と出会うことができたのにと思うと残念でなりません」

 「そうか」

 ドーナは静かに言った。

 値踏みするようにメインクーンを見た。それから、アドプレッサに視線を移した。

 「話はわかった。お妹君は苦労なされた様子。その分、よくしてやるがよい、エリンジウム公」

 「ドーナ!」

 ドーナ、と、シペルスは妹のことを名前で呼んだ。

 妹とは言え王妃。形式上、シペルスはドーナの臣下に過ぎない。それなのに、公式の場で名前で呼んでのけたのだ。いくら驚いていたにせよ、それは、シペルスの自制心のなさと無能ぶりを証明する出来事だった。さらにもうひとつ、ヴェガ宮廷の綱紀こうきの緩み具合を示すものでもあった。

 「それでは失礼いたします」

 長居は無用、とばかりにアドプレッサは改めて臣下の礼を取ると身をひるがえした。メインクーンもあとにつづく。そのメインクーンの、人間とは次元のちがう鋭敏な耳にドーナとシペルスのヒソヒソ声が届いた。

 「お、おい、どういうことだ⁉ なぜ、あんな茶番を信じる? 目障めざわりな貴族を処分する好機ではないか」

 「アド坊やに恩を売ってやったまで。これで、我らに譲歩じょうほするしかなくなりましょう。それに……」

 「それに?」

 「あの娘をうまく手懐てなずけてこちらの手駒てごまとすることが出来れば、小芝居を証言させられる。そうなればエリンジウム公爵家の権威は失墜しっつい。あとは我らの思うがままというもの」

 「お、おお、なるほど! アドプレッサめ。われらを出し抜いたつもりで、とんだ弱点を抱えたと言うわけだな」

 ドーナの指摘にシペルスは無邪気に喜んでいる。

 その会話は国王エルウッディの耳にも届いているはずだった。しかし――。

 エルウッディは最後まで何ひとつ言葉を発しようとはしなかった。


 メインクーンとアドプレッサは屋敷に戻った。

 「ひとまず、面倒をいなすことはできた。報酬だ。受け取れ」

 メインクーンの前に平民ならば一生、見ることもないような大金が積みあげられた。しかし、メインクーンは小馬鹿にしたように鼻を鳴らしただけだった。

 「『妹』相手に報酬も何もないでしょう。それに……」

 「なんだ?」

 「わたしの目的は金じゃない。エリンジウム公爵家の一員になること。それはどうなってるの?」

 「いかに、妹とは言え、腹違い。そもそも祖父の娘である母の血を引いていないお前は血統上、エリンジウム公爵家の一員ではない。そのお前を一族として認めさせるためにはそれなりの手間がかかる」

 「早くしてよね。またされるのはきらいなの。またせるようだと……」

 「なんだ? 事実を暴露ばくろするとでも言うのか? そんなことをすれば、お前も縛り首だぞ」

 「町中で『お兄ちゃん、大好き!』って叫んで、抱きついてやる」

 「! ……善処する!」

 エリンジウム公爵家の屋敷のなかに――。

 この日、最大の危機感に満ちたアドプレッサの声が響いたのだった。

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