2‐16これが本物の「心理」の薬

星辰シンチェン、どうしたのですか、星辰!」

「母様……くるし、」


 青ざめたフェイ妃は星辰シンチェンの肩に触れ、懸命に声をかける。星辰は倚子いすにもたれかかり、腕や脚をひきつらせて、押し殺した悲鳴を洩らした。


「毒か!」


 累神レイシェンが叫ぶ。

 信者を含めた患者たちは第三皇子の尋常ならざる様子に恐慌し、逃げだそうとするものもいた。累神レイシェンは混乱する人の群を掻き分け、祭壇にむかう。ミャオも累神に続いた。


星辰シンチェンに何を飲ませたのですか!」


 フェイ妃は声を荒げ、夢蝶モンディエ嬪を糾弾する。夢蝶嬪は訳もわからずにうろたえるばかりだ。


「違います……わ、私はただ、薬を……」


「薬と偽って毒をのませ、第三皇子を暗殺する魂胆だったのですね! ように……」


「お、お許しください! そのようなつもりは! だ、だって、これは……」


 夢蝶モンディエ嬪はわなわなと震えだす。


星辰シンチェン!」


 祭壇にたどりついた累神レイシェンはすぐさま星辰シンチェンに駆け寄った。強張った手を握り締め、累神は星辰に呼び掛ける。


星辰シンチェン! 星辰! 俺だ、わかるか」


あに、様……?」


 星辰は意識が混濁している様子だ。呼吸は荒く、時々噎せこむように喉をはねさせた。脈が飛んでいるせいだろう。ひきつれた腕は麻痺して動かず、累神の指を握りかえすこともなかった。


 ミャオは星辰のことは累神にまかせて、杯を覗きこむ。星辰が僅かに飲み残していた薬水があったので、妙はためらわずにそれを舐めた。


「ばか、なにしてるんだ!」


 累神レイシェンが妙を叱咤し、袖をつかんだ。


「毒かもしれないんだぞ!」


 毒、か。


 フェイ妃は、皇帝陛下の時と同様だといった。


 皇帝陛下は昨春に崩御した。急逝だったため、都では様々な噂が飛びかった。そのなかには、陛下が毒殺されたのではないか、という不穏な噂もあった。だが、後宮においては、それはただの噂ではないのだ。


 累神も、彗妃も、毒殺という危険を身近に感じている。


 夢蝶モンディエ嬪が毒を入れることはないだろうが、宮の女官などの第三者が第三皇子を暗殺せんとして毒を混入させることもできるかもしれない。


 だが、これはそうではない。

 ミャオは冷静に味を確かめ、言った。


「これ、甘草かんぞうです」


甘草かんぞうだって? 漢方薬に入っているあの甘草か?」


 甘草は砂糖の百五十倍もの甘味あまみていする。そのため、苦くて飲みにくい漢方薬の味を調えるために配合される。言うまでもなく無害だ――だが妙は続けた。


「だからやばいんですよ。星辰シンチェン様は心房しんぞうを病んでおられます。甘草かんぞうは胸に疾患を抱えた患者にたいしては毒になります」


 都で働いていた時、不整脈を患っていた金貸しの叔叔おっさんがいた。彼は四十路だったが、若い妻をめとって、ご満悦だった。彼の大好物は愛妻のこしらえた甘草杏あんずのあまにで、毎日食べ続けているうちにぽっくり死んだ。


(妻はその後は遺産だけもらって、すぐに再婚したんだっけ。また心房しんぞうの疾患を持った富豪と。んで、また死んだ。あれ、ほぼ毒殺だったよなぁ)


 ミャオ累神レイシェンにうながす。


「すぐに医官を」


「わかった」


 累神が医官を呼びにいく。妙はとにかく星辰をなでさすり、声を掛け続けた。


「だいじょうぶですから。落ちついて呼吸をしてください。すぐ楽になりますからね」


 星辰シンチェンは殆ど意識を失いかけていた。これはきわめて危険な状態だ。

 背後ではフェイ妃が喚き続けていた。


「万が一にでも、星辰が命を落とすようなことになれば、貴女を族誅ぞくちゅうします。第三皇子の命を危険に晒したのですよ。ええ、許せるものですか!」


 怒りはわかる。だが、今まさに息子の命が危険に晒されているというのに、なぜ、側にいてやらないのか。

 妙は苛だち、たまらずに割りこんだ。


フェイ様! 今、言い争って、どうなるんですか!」


 フェイ妃が息を荒げて振りかえる。


「女官如きが私に指図をするつもりですか! この女が第三皇子を暗殺しようとしたのですよ、なぜ、捕吏ほりがこないの! 捕えて、然るべき処罰を――」


 妙は辛抱たまらずにフェイ妃の頬を張った。怒鳴り散らしていた彗妃が息をのむ。


「なんで、わからないんですか! 第三皇子だとか、処罰だとか! そんなことは、どうだっていいんですよ! 星辰シンチェン様を抱き締めて、御声をかけてあげてくださいよ! あんた、母親でしょうが!」


 彗妃が戸惑い、瞳を揺らす。

 沈黙は、一瞬だった。彼女は弾かれたように星辰のもとに駆けだした。ばち指の幼い手を握り締める。


星辰シンチェン、星辰!」


「母、様……そこにおられる、のですか」


 星辰が微かに瞼をあげ、かすれた声を洩らす。意識が戻ってきた。


「ええ、ええ、母はここにおります」


 我が子に語りかける母親の瞳から、熱い雫がこぼれた。


「母を残して、逝かないで……」


 フェイ妃は懸命に星辰シンチェンを抱き締める。すると次第に星辰は落ちついてきた。脚や腕の強張りが解け、呼吸が緩やかになる。


 ミャオは安堵した。星辰シンチェンはきっと助かる。


(――――これが心理です)


 声にはせず、ミャオは微かに唇だけを動かした。


 高額な薬には確かに心理効果がある。

 だが、嘘は嘘だ。本物には敵わない。


 ならば、本物とはなにか。


 それは愛する者の声、家族の愛、誰かを思い遣る人の暖かさだ。


 累神があらかじめ連絡を取っていたのか、程なくして医官が駆けつけた。星辰が運ばれていく。彗妃は星辰に寄りそい、最後まで声をかけ続けていた。


 一部始終をみていた夢蝶モンディエ嬪がぎりっと指をかむ。

 絶望するように。


(ああ、そうか、夢蝶嬪がほんとうに望んでいたのは)


 妙は夢蝶モンディエウラを理解したが、いまとなっては掛けられる言葉もなく、官吏に連行されていく蝶の項垂れた背を、見送るほかになかった。

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