月蝕

二十二、清潮祭

 今朝は、日の出の頃から秋晴れを予感させる空だった。もうじき午の刻にもなれば、波間村、巳浦村、沖江村から祭りに参加する者や冷やかしに来た者たちが阿見村に集まってくる。左介は早くから一路や和一たちと身支度や舟の準備に出ていて、それ以外の家の者たちも皆、心なしか浮ついた様子で出払っていた。

 今日は清潮祭だが、左慈にはどうだってよかった。童が物珍しさに祭太鼓を鳴らして遊ぶ音や、年に一度の村々の交流の機会を楽しむ声が聞こえても、そこに混じる気にはなれない。

 いや、混じることができないのは元からか。

 そう思い直して、どこか静かなところに身を潜めていようと土間に降りたところで、戸が勢いよく開いた。


「おう、どこに行くんだ」

 左介が白い祭装束を着て表に立っていた。

「海には行かないから、どこかで暇を潰してるよ」

「そのことなんだけどな、お前は松の雑木から見てろ」

 思わぬ勧めに、左慈は眉を潜めた。

「……俺は別に、祭りは見なくても」

「俺が大縄担ぎやってんのに家のもんが来なきゃ、みんな……特に和さんや一路なんかはすぐに気付いて怪しむぞ。浜に降りなくていいから、見物くらいしろ」

「俺は」

「いいな」

 目つき険しくそう諭されて、左慈はそれ以上何を言うことも許されなかった。こちらがあちらの意を汲んだことを感じ取ったのか、左介は「よろしくな」と言い残して踵を返した。


 仕方なく、左慈も祭りで賑わう方に向かう。海岸と村を仕切る松の雑木には、見物しようと集まる人々の姿がまばらにあった。左慈の知らない他の村の者たちも多く入り混じっていて、左慈は一番人の少ない、雑木の端っこの方の松にもたれかかり、腕を組んで浜辺の様子を見つめるでもなく曇った目に景色を映していた。

 祭りに加わる者たちは、皆一様に白い装束に身を包んでいる。浜辺には太鼓を持った女たちと、母親を太鼓にとられた子供が彼女たちの周りをうろうろしている様子が見える。


 とん。太鼓隊の中心に立つ村長の妻が祭り太鼓を打ち鳴らし、始まりの音を紡ぐ。

 とん、とんとん。とん、とんとん。祭太鼓は一定の間隔で延々繰り返され、ゆったりとした波の満ち引きに調和していく。

 とん、とんとん。とん、とんとん。とん、とんとん。

 浜に降りて見物する者たちは皆、示し合わせたように動きを止めて口を閉ざしていた。動いているのは、太鼓を叩いて左右に揺れる女たちと、各村の囃子舟を海に押し出す男たちだけである。その中には一路の姿もあった。

 四艘の舟は、船頭一人の手の合図に従う二人の舟漕ぎによって岸を離れていく。ゆっくり、ゆっくり太鼓の音に合わせながら影海岩まで海面を滑っている。


「ほんとは、あそこに混ざりたかったりするの」

 控えめに声をかけられて、左慈は首だけを捻り振り返った。慈郎が仁王立ちで腕を組み、一方で怒られるのを待つような不安げな顔をして立っていた。そのちぐはぐな立ち居振る舞いに戸惑って、左慈は弟の言わんとするところへの理解が遅れた。

「なんだって」

「あの日、左介兄に祭りに出ろって誘われて断ってたけど、ほんとは出たかったのかなって」

 左慈は慈郎のふてぶてしさの中に、一抹の罪悪感を汲み取った。ひょっとすると、慈郎はあの日、兄二人のやり取りの中に不機嫌に割って入ったことを気にしているのかもしれない。そんなことを気にする奴だったかと意外に思いつつ、左慈は疲れた口角を上げて苦笑して見せた。

「いや、断る以外になかったよ。……いずれにしても、今の状態じゃあ俺は出ないほうがいいだろうし。お前が不貞腐れて話を切り上げたおかげでこの話自体曖昧に流れて、よかったよ」

「ふん。じゃあいいや」

 慈郎の肩の力が抜けていくのが見て取れた。彼は左慈の隣に並ぶと、一緒になって浜辺の方を見物し始めた。


 浜辺では、左介が大の男三人分くらいの長さの大縄を体に巻きつけて担ぎ、大舟に乗り込むところであった。とん、とんとん。太鼓の音に合わせて、船頭の和一をはじめとした手練れの漁夫五人を引き連れ、兄が海に出ていく。女たちが間延びした声を重ねて歌い見送り始めた。粛々とした儀式は左慈と慈郎の目には遠く、祭りというよりは太古の記憶を他人事として覗き見ているような心持ちになる。

「慈郎お前、一人で見に来たのか」

「連れを待ってから近くに行くよ」

「そうか」

「ねえ、左慈兄」

「うん?」

 すると慈郎は、あたりをきょろきょろ見回して、少しだけ声を潜めた。


「なんで海の神様なんか好きになったの」

 隣を見下ろすと、慈郎は左慈の肩に頭を預けるようにもたれて、左介を乗せた大舟——ではなく、その先の影海岩を見ていた。

「……彼女は、海の神様ではないと言っていたけれど」

「俺たちにとっちゃ、影海様は神様と同じじゃんか。それに、人じゃないことに変わりはないだろ」

「まあ、そうなんだが……」

「じゃあなんで」

 慈郎はこっちを見ない。斜め上から伺うその表情は定かでは無いが、とんがらせた口が頬の輪郭からはみ出して見えた。虫の居所が悪い時、何か気になることがあって心中揺れ動いている時の、弟の仕草だった。


「ううん……穏やかで優しいから、とか」

「それ、あれだろ。左慈兄を気に入って連れ去るために優しくしてんだよ、きっと」

「そんなことは……」

 左慈の否定を聞かずに、慈郎は捲し立てた。

「だって、神様じゃないか。魅入られた奴はそうやって神隠しに遭うんだろ」

「どこでそんな話を」

「仲いい奴のばっちゃんに、聞きに行ったんだ。神隠しに遭ったら二度と戻ってこれないって」

 何故、わざわざそんなことを尋ね歩くのかと聞き返す前に、太鼓隊の女たちの独特な発声により紡がれる送り唄が響く中、慈郎はぼそりと呟いた。

「左慈兄、おかあに小言言われたり、花姉が苦手だったり…………あと、俺がからかうから、家が嫌になったの」

「慈郎……」

 ざり、と松の根っこを蹴っ飛ばして俯く弟の心情を、左慈は漸く察した。


「別に、お前のせいじゃあないよ」

 全く関係がないとも言えないが、いらぬ罪悪感は抱いて欲しくなかった。

 始まりは誰のせいでもない。不眠と、疎外感と、引け目で身動きが取れずに目蓋を閉じることすらままならなかった左慈に、唯一気づいたのが彼女だっただけだ。

「気づいた時には、どうしようもなかった。俺には……彼女ひとりだけだったんだよ」

 辛くなるのに、記憶は溢れて止めどなく、言葉となって祭りの音に紛れていった。

 影海岩は男たちに囲まれ、女たちの崇め奉る唄を一身に受けている。浜辺にいる者全ての心を掴んで離さない出で立ちは、左慈と対極の存在であるといえた。


「どうしようもなくたって、神様じゃんか。左慈兄は人だろっ」

 慈郎は怒ったようにそう言い放つと、「俺もう浜に降りる」とだけ残して、荒波に削られた小石を踏んづけ蹴り飛ばしながら浜を降りていってしまった。

 言われなくとも分かっていると、今まさにそれを痛感していると言えないまま、左慈は弟の背を見送った。


 沖の方では、大舟が影海岩の前までたどり着いていた。ととん、と村長の妻が区切りの太鼓を鳴らすと、あたりはしんと静まり返る。左介が大縄を抱えて影海岩に乗り上げると、大舟は岩から少し離れ、囃子舟が穴の手前と奥に二艘ずつ並んだ。とんとん、太鼓たちが合図をする。左介が影海岩の穴に大縄を通し、二手に別れた囃子舟の船頭がそれを受け取る。

 とんとんとん、とんとんとん。先ほどよりも強く打ち鳴らされる太鼓の音。それを追いかけるように折り重なってゆく女たちの祝い唄。


 船に乗った男たちは、左介の声かけに合わせて綱を引き合う。水平線の向こう側、神の国から恵みがもたらされますように。子々孫々、この海とともに栄えていきますように。そんな願いを込めて脈々と受け継がれてきた儀式が執り行われる。

 一方的な祈りと願いが大仰な祭りとなり、彼女を大縄で締め上げいたぶっているように見えた。そして左慈は、そこに自分自身を見た気がした。左慈だって、彼女に惹かれ求めたひとりだ。彼女に寄ってたかって追い縋る者のひとりだ。女の唄が、男の掛け声が、迫りくる波の音が、身の内から這い寄る己への嫌悪が、左慈の胃の腑を揺さぶる。

「う…ぉえ」

 左慈はその場に蹲み込んで口元を押さえると、喉を迫り上がる異物を堪えた。身体中から汗が噴き出て、びゅうと音を鳴らした一迅の突風が体を冷やした。潮騒が一際激しく轟き、左慈の鼓膜を叩いた。


「助けろ! 舟を出せ!」

 祭太鼓の調子が乱れ崩れるとともに、誰かの叫びが晴れやかな秋空の下に響いた。瞬く間に辺りいっぺんに動揺が染まり渡るのを、左慈は肌で感じた。そして吐き気に滲んだ目を海に向け、慄いた。

 大縄は海面に投げ出されてしまい、そのぷかぷかと揺れる様は不格好な短い大蛇のようであった。囃子舟はみな等しく、覆いかぶさる波によって転覆して船乗りたちの姿が見えない。大舟は荒波を耐え凌ぐことに必死で、左介は影海岩に取り残されてだらんと体を投げ出していた。

「急げ、左介が気を失ってる!」

「きっと頭を……」

「早くっ、うちのが舟から落ちたよ!」

「奥の二つはどうなってる!」


 左慈は混乱を目の前に、這い蹲ったまま動くことができなかった。とん、とんとん。とん、とんとん。祭太鼓の淡々とした調べが、左慈の耳にこびりついて離れない。とん、とんとん。もう一度やってきた突風が、無情とも思える響きを松の枯れ葉や土埃を巻き込んで攫っていった。

 その行く末を目で追った先、彼女はいた。

 岩窟に近い無骨な岩盤の上、黒髪と青白い両の手でその顔を覆い隠しながら、彼女は膝をついて項垂れていた。

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