二十一、綻び

 海へは行けない。行って仕舞えば、会いたくなる。

 左慈は村はずれの峠の方へとひたすらに走った。しかし、疲れ切った体はすぐに音を上げて、峠の麓に着く頃には今にも倒れてしまいそうなほど呼吸が苦しく、足が鉛の如く重かった。


「左慈、待て!」

 すぐに背後から呼び声がした。左介が、日の燃える色に染まったあぜ道に、長い影を落としながら走ってくるのが見える。

「さっきは悪かったな、おかあと変な言い合いになっちまって」

 謝らなければいけないのは左慈の方だと言うのに、左介は苦笑を浮かべてそんなことを宣った。

「お前があんなことになるなんて、おかあ吃驚して腰ぬかしちまったよ」

「そんな…大丈夫なのか」

「ちょうど花乃が帰ってきたからな。片付けも任せてきた」

「……すまなかったよ」

 ようやく謝ると、左介が「あとで、おかあにもそう言ってやってくれ」と笑った。そしてすぐに、その父親譲りの精悍な顔を真剣な面持ちに変えた。


「あの場じゃ、おかあにはああ言ったが、正直俺もお前に聞きたいよ。調子が良くなったり、かと思えば急に抜け殻みてえになっちまったり」

「言えない」

 斜陽が頑なな左慈を責めるようにじりじりと背を炙った。

「言ってくれなきゃ、力になれねえよ」

「言ったって————」

「おうい、どうしたんだよ!」

 言いかけたところで、左介の背後から慈郎が夕陽に眩しそうにしながら走ってきた。彼は少し息を切らしてこちらまでたどり着くと、左慈と左介の表情を伺って、それから不安そうに眉尻を下げた。

「慈郎、お前こんなとこまで何しに来た」

「左介兄、それ俺が聞きたいよ。二人してえらく必死に走ってくの見えて、何事かって思ったよ」

「まあ……ちとおかあと喧嘩しちまってな」

「二人揃って?」

「そんなとこだ。家に帰る前に少し男同士で話をしようって思ったんだが……」


 左介が片眉を上げて困ったように左慈を一瞥した。

「どうも俺には言えねえ事情があるらしい」

「言ったところで……信じちゃくれない」

「聞いてみなきゃ分かんねえよ」

「正気じゃないって、そう思うさ」

「…………左慈兄、それあの女のこと?」

 慈郎におずおずと問われて、左慈は首を横に降った。

「ミチじゃな——」


「違う、大時化の時一緒にいた女だ」

 その言葉を聞いて、左慈は一瞬時が止まってしまったかと思った。左介が「何の話だ」といぶかしむ声で我に返ると、弟はこちらの出方を伺うように見上げていた。


「どうして……」

「荒れた海見に行こうって、連れと岩場のもっと向こうの崖で遊んでたんだよ。そしたら、変な女と左慈兄が岩場の奥に消えてくの、見えて」

「どういうことだよ、変な女って誰だ」

「村の女じゃない……遠くからで顔は見えなかったけど、髪が長くて、赤っぽい布巻いてて、手足が月みたいに青白い女だった」

「左慈、頼むから話してくれ、いや、話せ」

「それは、」

「これはもう、お前だけの問題でもない気がしてきた」

 左慈はきょうだいの顔を交互に見た。慈郎は不安そうで、左介は厳しい面持ちだった。


「彼女は……夜中の海に姿を現したんだ」

 とうとう観念して、左慈は訥々と、ウシオのことと近海の異変について話した。しかし、起こった事と次第はできるかぎり言葉を尽くしたが、それでも彼女と交わした思いや左慈の心中については、口にすればなお辛くなってしまいそうで、ついぞ話すことはできなかった。

 左慈が話し終える頃には、辺りは暗くなり、日の暖かさはひとつのこらず夜の寒さに塗り替えられてしまっていた。慈郎は身震いをして俯き、左介は眉根を寄せて腕を組んで黙っていた。

「にわかにゃ疑わしいが……」

「そう言っただろう」

「いや、それでもお前の話を信じるしかねえだろう。慈郎もその女…お方を見たってんだし」「左慈兄、影海様のとこに行くの?」

「それができないから、こうしてるんだよ」

 俯いたまま尋ねる慈郎にそう返すと、左介が深く息を吐きながら唸った。


「会わなくなれば、このところの不漁は終わるってのか?」

「彼女が言うにはな」

「ほ、本当にそれが原因かよ。まさかお前が無体を働いた恨みじゃ——」

「止めろよ、慈郎もいるんだ」

 いたたまれなくなり、左慈は二人から顔をそらした。慈郎が「ガキ扱いすんなよ」と不満げに訴えたが、それも聞き流す。

「それに、無理を強いたことは……」

 言い切る自信のない左慈の言葉尻は、何処かから聞こえる鈴虫の音に消された。


「ううん。何にしても、お前はもう影海様にゃあ会わねえんだよな。それだけは大丈夫なんだな」

「……ああ」

 こちらの弱気な態度を察したのか、左介はまた低く唸り、それから左慈の肩をがしっと力強く掴んだ。

「……左慈、お前今日からしばらく慈郎と奥間で寝ろ。起きて家を出たくなっても、そうすりゃ俺が気づいて止められる。慈郎、いいよな」

「うん。俺は別にいいよ」

「左慈も、それでいいな。あと、このことはおかあや花乃にゃ言うんじゃねえぞ」

「分かってるさ」

 左慈が返事をすると、左介は肩から手を離して努めて明るい声色を作った。

「じゃ、帰るぞ。おかあは今頃、気が気でないに違いない」

「あ、俺も一緒にいるって言ってないや」

 軽快な会話を続ける兄と弟の半歩後ろを、左慈はついて歩いた。

 あぜ道を三人で帰り行く最中、左介がふと左慈の方を振り返った。

「左慈、お前も辛いだろうがここが踏ん張りどころだぞ」

「分かってるよ、ありがとう」

「お前はゆっくりでもいいんだよ。人なんてなあ、歳を食えば自然と変われるものさ」

「…………そうかもな」

 慰めが刺となり、左慈の心に小さな綻びを作る。

 今のままではいけないと、そう言われた気がした。

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