十九、罰だと知りながら

 どうやらミチは左慈とのやり取りを、ウシオのことも含めて誰にも言わないでいてくれるらしい。左慈は翌日の漁の帰り、一路の話を聞いてそう悟った。

「にしたって、振っちまうなんて勿体ねえよお前」

「俺が振られたんだ」

「だってお前、他に……」

「まずいこと言って引っ叩かれたんだよ。……俺が傷つけて、袖にされたようなもんさ」

 そう言うことでしか、ミチを庇えない。


「ふうん……泣いてはいたが、そんな風には見えなかったがなあ」

 とはいうものの、一路はそれ以上左慈を問い詰めることはしなかった。きっとミチのことも、そんなふうに何も聞かずおおらかに慰めてくれたのだろう。

「まあ、おミっちゃんは今年の祭にゃ来ないみたいだし、今朝方芋だけ置いて波間村に帰っちまったから、しばらくは互いにきまり悪い思いはしなくて済むだろ」

「いっそ、俺のことなんかひどく言って回ってくれてもいいのに」

「馬鹿なこと言うな。あの子はそんなことしねえよ」

「分かってるさ」

 だからこそ、誰に対しても板一枚隔てたような関わりしか持つことのできない自分を、そしてそれを赦してくれる者に依って立つしかない自分を罰する何かが、足りないと思った。項垂れて漁具の片付けをしていると、一路が大仰なため息をついた。


「やめてくれよ。辛気臭いのはここンとこの海だけで十分だ。ほれ、見ろよあれ」

 強引に話題を変えようとしているのか、一路が左慈の腕を強く揺さぶりながら一点を指差した。彼の指の先は、浜辺の端の岩場を示していた。

「おかしな波だよな。潮が後を引いてら」

 一路の言う通り、白く泡立つ潮水が岩場を滑り疾さを伴って流れ込んでは、ずるずると引きずられるように戻っていくのを繰り返していた。さほど高さはないが、妙に乱暴なその動きは、確かにこれまで見たことがない類の浦波であった。

「あの辺、ガキがたまに度胸試しする洞穴があったんじゃねえか」

「ああ、柊木犀のある」

「そうだっけ。お前、近頃あそこに行ったのか」

「…………慈郎から聞いたんだ」

「ま、とにかく、しばらくはあの岩場にガキども近づけないよう皆に伝えた方がいいな」

 ふむふむとひとり納得して先をゆく一路の一歩後ろで、左慈はほっと胸を撫で下ろした。そして彼の後に続こうと踏み出した時、なんの気なしに再び目を遣った岩場の光景に、ぎょっと目を見開いた。


 長い髪の、赤茶けた布を巻いた人影が黒い岩の群れに紛れて立ち尽くしていた。彼女は足元まで迫っては紙一重で身を引く波と対峙して、動く気配がない。

「おい、左慈? ぼさっとしてどうした——」

「な、なんでも……!」

 左慈の視線を追おうとする一路を止めようと慌てたが、彼は既にそちらに顔を向けていた。

「なんだよ、誰か波に掻っ攫われてたか?」

「…………」

「いや悪い。こりゃ冗談でも言っちゃいけねえな」

 そこに彼女の姿はなく、荒涼とした岩場と打ち寄せる荒波だけが見えた。




 その夜は曇天で、星月の光が微かに透けて浮かび上がる灰色の雲が垂れ込めていた。風もあり、その暗澹たる天気は秋の夜の侘しさや寒さを引き立てた。ほとんど何も見えないほどの暗がりの中、左慈は目を凝らしながら彼女を探した。

 昼中に見たあの姿に、左慈は胸騒ぎを覚えていた。聞けずにいたこの頃の近海の不吉な変わりようについて、ウシオは何か関わっている。

 いつもであれば、どんな暗闇の中でも浮かび上がるようにそこに存在する彼女の姿が見当たらなかった。左慈は少しの間浜辺を行ったり来たりして、それから岩場の方まで足を伸ばした。


 岩岩が影を作り立ち並ぶそこは一段と暗く、その有様は判然としない。浜辺の潮騒よりもずっと力強い波の音だけが方々から聞こえ、左慈は彼女が昼に立っていたところまでたどり着くことができなかった。

 どうすれば、彼女が現れてくれるのかと焦り始めた時、左慈は昨晩まどろみの中でぼんやりと耳に届いた彼女の言葉を思い出した。


「ウシオ」


 その刹那、白い腕が背後から左慈の腹のあたりにするりと巻きついた。驚きのあまり、左慈は声も出せずに呼吸が止まる。

「ごめんなさい」

 彼女はそう呟いて、左慈の背中に額を押し付けていた。

「ごめんなさい……ごめんなさい」

「一体、何が」

「ごめんなさい」

 細い指先が左慈の服を強く握りしめて震えていた。ただ事ではない様子に、左慈は無理やりウシオの手を引き剥がし、身をよじって彼女と向き合った。それでも彼女は、左慈の胸に額を押し当ててしがみつくばかりで、こちらを見上げてはくれない。


「わけを教えてくれ」

 髪の間をすり抜けて頬に触れると、ウシオはゆっくりと顔を上げた。泣いているのかと思ったが、その瞳に涙はなく、しかし泣いていないのが不思議なほど悲痛に見開かれていた。

「近海の異変は、私の罪……。海が私を罰している」

 遠く影海岩の方から荒波がぶつかり合う音が聞こえ、ウシオは肩を揺らした。

「私が私の理から外れたから…だから、海が荒れているの」

「ことわり……」


 ウシオは左慈から一歩身を引く。潮風が長い黒髪を遠くの沖まで誘うように吹き荒んで、彼女は鬱陶しそうに目を閉じて吐露した。

「私は……あなた「たち」の祈り。あなたたちが求める豊かさを、私が願いもたらす——そのために私がいる」

 掴み所のない、しかし彼女の核心に触れるような語りに、左慈は茫然として聴き入るしかなかった。

「けれど、私はあなたを求めてしまった。皆の繁栄ではなく、あなただけを、あなた唯一人のことだけを————」


「それが、理から外れたことだって、そう言うのか」

 左慈が深く息を吐くとともにそう尋ねると、ウシオはぐったり項垂れるように頷いた。左慈は知らず、奥歯を噛み締めて拳を握った。

「あんたと俺は、何もかも間違ってたって言うのか」

「あなたが……あなたがそう言うのなら、」

「俺のことはいい!」

 動揺を抑える余裕はなく、左慈は声を荒げた。

「私は、分からな」

「はぐらかすなよ。……頼むから」

 これまでを否定してくれるな。


 そう祈る思いで、左慈は一歩詰め寄った。するとウシオは何か言おうと口を開いたが、彼女の歯の隙間からは声すら出てこず、ひゅうっと呼吸が通り抜けるだけであり、体から力が抜け落ちてその場に崩れた。左慈は慌ててその身を支えてやったが、彼女は自分で立つことができなかった。

「私はただ…あなたの眠る目蓋が、掌のぬくもりがうつくしくて……このままでいたいと」

 言葉が聞き取りづらくなるほど声を震わせているウシオであったが、それでも彼女の両のまなこから滴がこぼれ落ちることはなかった。同じ形をしていても、二人の存在そのものに大きな隔たりがあることを左慈はまざまざと思い知らされた。肌に触れているのに、彼女を遠く感じる。


 ウシオをその場にそっと座らせて肩を抱くと、彼女は憔悴した顔を上げて続けた。

「でも、海はそれを赦さない。だから私に戻るようにと、戻らなければ私を隠すと、そう告げている」

「隠すって」

「海が荒れると村が廃れる。村が廃れると、私を願う者がいなくなる。願われなければ、私はここには居られない」

 ウシオの明るい瞳は、左慈の背後、真っ黒な水平線の影を映していた。

「私は……海に回帰する」


 会うことができるのかと、問いただす勇気は左慈にはない。

「どう、すればいいんだ」

 風はこんなに潮で湿っているのに、左慈の喉は渇ききって声が掠れた。

「私が、理の中に戻ればきっと」

 それは、このひと時を失うということだ。見つめ合う二人の間にあるものを失うということだ。しかし左慈は、彼女の全てを失うよりはと、そう思った。

「——しばらく、俺はここへは来ないよ」

 それでも、もう会うことはないとは、口が裂けても言えなかった。

「あんたは俺だけを想わなくても…いや、俺だけを想うな。あんたのすべきことをしてくれ。それでも俺は——」

「言わないで」

 最後の言葉は、ウシオに遮られて言うことが叶わなかった。いつのまにか風は止み、潮騒は穏やかさを取り戻していた。

「あなたはあなたの理の中で生きて。……左慈が良いと思うことが、私の良いこと」

 彼女はぎこちなく笑みを作ろうとしていたが、すぐに唇をぎゅっと噛み締めた。あまりにも強く歯を立てているようで、左慈はそっと彼女の口に触れてそれを止めた。

 これ以上共にいては名残惜しさに狂ってしまう気がして、左慈はもうその場を離れようとウシオを促した。


「どうして私は…私でしかいられないの……」

 誰にともなく呟かれた問いが、左慈の心の奥底に燻っていた負い目と重なる。ひとり浜辺に残るウシオの姿を何度も振り返りながら家に戻る間も、左慈は彼女の最後の言葉を頭の中で反芻した。

 本当に、どうして自分は人並みの豊かさすら手に入れることができないのだろうか。ウシオが海の理から外れてしまっていると言うのなら、それは左慈にも言えることだ。

 ウシオに罰があるならきっと自分にもと、鬱々とした思いが左慈の体を重くした。

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