十八、熱に縋る

 左慈はたとえ一晩中起きることになろうとも、その晩ウシオに会いに行くのは憚られた。あんなことがあってすぐ、どんな顔をして、あの心の何もかもを引きずり出してしまう浅瀬色の瞳を見ればいいのか分からなかった。

 そうとはいえ、何度も寝返りを打ったり深く息を吸ったりしてみても、意識は手放せない。


 ——そんなんじゃ左慈さん独りぼっちになっちゃうわ。今よりも。

 ——言えない相手ならなおのこと、おミッちゃんを考えてあげらんねえかな。

 ——お前だって親父のせがれで、俺のきょうだいなんだから。


 頭の中にまた、嫌な記憶の蝿がたかる。眼窩の奥が鈍く痛み眠りを欲している。眠れ、眠れと心内で唱え、指先が冷たく硬い布団を引っ掻く。そこに温みは存在しない。

 左慈は耐えられなくて身を起こした。頭痛に苛まれながらふらふらと土間に降りる。

「左慈兄、うるさいよ」

「……すまない」

 起こしてしまったことを詫びて、左慈は家を出た。

 眠れないことだけが、辛いのではない。一刻も早く頭の中で喚く余計な声を、あの泡沫のように儚い声で取り払って欲しかった。そう気づいてしまえば、日中の後ろめたさなどどうでもよくなった。


 いつものように、ウシオは夜の浜辺に独りぽつんと佇んで、波打つ黒い海原を真っ直ぐに眺めていた。こちらに気づくと、夜の闇にも鮮やかな双眸が三日月を象り微笑する。

「——左慈」

 潮騒に混じって名前を呼ばれると、左慈は体中の力が緩むのを感じた。返事をするよりも先に、気がつけば彼女を腕に閉じ込めてうねる黒髪ごと掻き抱いていた。

「左…」

「ごめん、少しだけ」

 そう囁くと、ウシオは何も言わずに左慈の腹と自分の胸に挟まれた腕を出して、左慈の背中をぎこちなく撫でた。眉間がつんと痛んで熱いが、もう眼窩の奥の鈍痛は気にならなかった。

 どれだけそうしていたか分からない。離れた岩場で波が強く打ち付けられる音がした時、ウシオの肩がびくりと揺れて、左慈はやっと気持ちが落ち着きウシオから身を離した。

「すまない……途端に、何も言わずに」

「私は、左慈が良いなら良いよ」


 ウシオは、肩に置かれた左慈の右手を取って自身の頬に触れさせた。ひやりと冷たい肌は、触れているうちに温かさを帯びていく。

「また、あの岩窟に行きたいの」

「岩窟……あっ!? いや」

 ウシオの言わんとすることを察して、左慈は明後日の方向を向いて慌てた。

「そういうことじゃない!」

「そうなの」

「いや、そういうことじゃないわけじゃないが…やましい気持ちは」

 無いはずであったが、今言えばそれは嘘になる。

 空いた手で頭を掻きながら尻すぼみに言い訳をしていると、ウシオが握った左慈の手に口づけを落とし、深く息を吸ったのを感じた。するとその呼吸がぴたりと止まる。そして、


「あの若い娘と、会っていたのね」

 長い睫毛の影から、鮮烈な瞳が左慈を射抜いた。この世のものとは思えないぞっとする光彩に魅了されて、左慈は焦りを忘れた。その眼は伏せられたかと思うと、彼女は左慈の掌を口吻に当てたまま続けた。

「左慈は、あの娘とつがいになるの」

「つが…違う」

「あの娘も、こうして触れることがあるの」

「お、おいあんた——」

「あの娘は、左慈の掌の大きさを知っているの。左慈の口の中の熱さを、私の名を呼ぶ凪いだ声を————」


「ウシオ!」

 やや強引に彼女の顎をあげさせて視線を合わせる。目を見開いたウシオは、ようやくその口を止めた。

「確かに、ミチとは今日会ったよ。それで、一緒になれないと……その、あんたの言う「つがい」にはならないと伝えた」

「どうして」

「どうしてって……」

 ミチが左慈にそう言ったように、分かっているくせにと続けたくなったが、ウシオの表情を見る限り、本当に疑問に思っている様子であった。

「人は、もう一人の人とつがいになるのでしょう」

「だったら……俺にとってのそれは、あの子じゃあないよ」

 俯いていた時に乱れたウシオの髪を耳にかけてやると、彼女はくすぐったそうに目を瞑った。その仕草が、今し方の神秘的なまでの眼光の持ち主とは思えず、左慈の口を軽くした。

「俺が触れたいと思えたのは……あんただけだよ。もっと知りたいと思った人も、後にも先にも、きっとあんただけだ。だから……えっと」

 そこまで話して、左慈は次の言葉を待っているウシオから顔を背けた。調子づいて話しすぎたという気まずさが、みるみるうちに左慈の口を元どおり重くしてゆく。

「口にするのは苦手なんだ。そろそろ分かってくれると、助かる……」


「分かるよ」

 ウシオが左慈の右手に彼女の左手を絡め合わせた。その重なりを見つめながら、彼女は表情を柔らかくした。

「私も、あなたに触れたい。あなただけに————」

 穏やかなしじまが漂わんとしたその時、再び荒波が、今度は遠くの影海岩のほうから聞こえた。ウシオが驚いて身を竦ませ、星と月の灯りにぼんやりと浮かぶ岩影に視線を移した。波はやがて、そのさざめきを穏やかなものへと変えてゆく。

「勝手で悪いけれど、少し寝てもいいか」

 不漁続きで波も不安定だが、明日も海に出るかもしれない。心につっかえていたものが和らぎ落ち着いた左慈は、明日に備えて体を休めようとそう頼んだ。

 ウシオは一瞬頷くそぶりをしたが、はたと何かを思い出したように動きを止めて、きゅっと唇をひき結んだ。


「左慈」

「うん?」

「ひとつだけ」

 ウシオの手が、左慈の緩く纏った服の襟を掴んだ。少し動けば離れてしまいそうなほど、弱々しい力であった。

「あなたの熱が欲しい」

「熱、って」

 寛げた襟から入り込んだ冷たい指が、肋をなぞり左慈の肌を粟立てた。

「お願い」

 懇願する声に宿っていたのは、色や情では言い表せない痛切な何か。

「……小屋に入ろう」


 漁の道具と、カビと、藁の筵の入り混じったすえた匂いの中でも、ウシオの香りは甘く左慈を惑わせた。

 青白く浮かび上がる肌も、暗がりでなお艶めきうねる黒髪も、そしてこの浅瀬色の瞳も何もかも、こんな小屋に相応しく無いほどに美しく高尚で、それでいて濫りがましい。一方で、彼女はその身熟みごなしに不似合いな様で、親を探す子のごとく左慈の名を繰り返し、また彼女の名を呼ぶようにせがんだ。

 抱いている間、彼女は誘いの言葉通り、まるで熱を求めるように左慈に縋った。何故と疑問を抱くには、左慈は夢中になりすぎていた。それでも、彼女と繋がり肌をすり合わせている時、白く柔らかい足が左慈の腰に必死に絡みつき離れない様子に、興奮よりも心配が募った。

「——ウシオ」

 事が終わり隙間風が汗を冷やし始め、左慈はウシオの隣に寝そべった。ウシオが汗ばんでしっとりとした額を撫でると、左慈はあっと言う間に抗えないほどの眠気に侵されていく。重いまぶたを持ち上げて見えた彼女の睫毛が、切なそうに震えている気がした。


「ありがとう、左慈」

「礼は、俺の方が……」

「あなたが呼ぶなら、私はいつでも——」

 囁かれたウシオの言葉を聞く前に、左慈はふつりと眠りの底に落ちた。

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