十七、迫り誘う
左慈は一度家に戻って、まづに採ってきた海藻を預けた。慈郎は帰っておらず、左慈は彼の様子を気にしつつも、まずはミチが待っているであろう阿見村と波間村の間にあるあの峠に向かった。
——生娘弄んでると、影海様に祟られるぜ。
去り際の慈郎の軽口を思い出して、左慈は嘆息する。いつまでも幼気なままだと思っていた弟から生娘だのなんだの軽々しく口に出てくると、やましいことが何もなくてもぎくりとしてしまう。あと、影海様はそういった類の神仏ではないはずだ。
と、そこまで考えて、左慈は思い直す。ウシオがあの「影海様」とするなら、左慈が移り気になればたちまち祟りが降りかかることも否定はできない気がした。坂道を歩幅狭く登りながら、そんなことを考えてしまった自分自身が可笑しくて口元が緩んだ。
坂道が緩くなると、ススキの影にしゃがみ込む人影が見えた。左慈は思わず立ち止まって深く呼吸をした。
ミチは、海側に背を向けて赤く色づき始めた西日に目を細めていた。左慈が再び歩き出して近づくと、数歩も行かぬうちにこちらに気づき、立ち上がって満面の笑みを浮かべた。
「左慈さん!」
袂が肩までずり下がるのも構わず、元気に大きく手を振るミチに思わず小さく手を振り返してしまい、ちくりと胸が痛む。
祟りだなんだはさておき、ミチの心に気づいていながら彼女の意気に気圧されてばかりで、はっきりした態度を示すことができないでいるのはよろしくない。ミチにも、そしてウシオにも不誠実な気がした。
「どうしたの、思い詰めたみたいな顔して」
「あ、ちょっと…ここ最近漁が振るわなくて」
相変わらず妙に鋭いことを言うミチに、左慈は咄嗟に誤魔化しを返してしまった。そしてふと、ミチの左慈へのこの態度の理由が、思い違いであったらどうしようという気持ちが湧いてくる。思い違いでなかったとしても、けじめをつけるための言い訳はどうする。
まさか、ウシオのことを話すわけにもいくまい。左慈は色々な懸念が次々と頭の中に思い浮かび、ミチに対する次の言葉が出てこなかった。
「そうみたいよねえ。波間村もここ何日かはからっきしよ。さっき、美代姉にうちの畑でとれたお芋を分けに行ってたの。美代姉の子はアタシの妹みたいなものだから」
だから今日、わざわざ阿見村に来ていたのかと合点がいった。左慈はさきほどの冴えない顔をした一路を思い出し、少しだけほっとした。
「そうか。それはご苦労様」
「んふふ。お芋持ってきちゃったこと、おとうにはまだ言ってないの、内緒よ」
悪巧みが成功したように笑うが、どれもこれも全て一路——というより彼の子を想っての行いなのだから、左慈は素直に感心してしまった。無意識に微笑すると、ミチもまた同じように笑みを浮かべ、それから目を伏せた。
「ね、少し座って話せない?」
「……俺は」
「ほらほら、ここ。じつはこんな小岩があるの」
ミチがススキをかき分けた先には、かつて土砂が崩れた名残なのか、いくつかの岩が地面から顔を出していた。ミチは二、三人ほど座ることができそうな大きめのものにちょこんと腰を下ろすと、自分の隣をぺちんと叩いて見せた。よせばいいのに、左慈は足取りを重くしつつも彼女の後に続いて岩の上に座った。
「左慈さんは、なんだか平気そうね」
「そんなこたない」
「そうかしら」
「俺だけならまだいいんだけどな。村中が不安そうだし、見ていて辛いよ。弟はなぜか気が立っているし」
「あの、左慈さんに似てた男の子。ひと目で兄弟って分かったわよ」
ミチが得意げに手を打ち、左慈は曖昧に笑った。慈郎はミチと一つ二つしか変わらないのだが、彼女からしてみればまだまだ「男の子」と思うと、少し面白かった。
「あんたみたいに、もう少し大人びてくれてもいい年なんだけどな」
「左慈さん……アタシのこと、大人びてると思ってくれるのね」
ミチの声が急に色めいた気がして、左慈はしまったと思い彼女をうかがった。夕焼けではない朱色がその頬を染めている。
他愛ない世間話のままでいられたらと思うが、もう遅い。空気は冷え込みつつあると言うのに、左慈の背中には嫌な汗が滲んだ。
「深い、意味はないんだ」
「それでもいいの。……ねえ、左慈さん」
ぐっと身を乗り出して左慈を見上げるミチ。それに対して左慈は思わず身を引きながらも、熱く潤んだつり目から逃げられなかった。
「アタシね、今日美代姉に差し入れしに来たのもあるんだけどね。……その、左慈さんに、会いたくてしょうがなかったの」
胸の鼓動が不穏に跳ねて左慈が何も言えないでいると、ミチはぎゅっと唇を噛んで、それからまた続けた。
「ほんとは、こんな理由つけなくったって、阿見村に…左慈さんに会いに来たいわ」
「…………どう、して」
反射的にはぐらかすように尋ねてしまい、左慈は言うんじゃなかったと後悔する。ミチは夕陽に向かって顔を逸らし、拗ねた表情で頬を膨らませた。
「んもう、分かってるでしょ」
「ごめ」
「アタシ、左慈さんと一緒になりたいの」
咄嗟に、言われてしまったと、そう思った。二人の間に海から運ばれた冷たい疾風が吹いて、ススキの綿を舞上げた。茫然としていた左慈は、それで漸く、早く断らなければと口を開いた。
「悪いけど、俺は——」
「待って!」
左慈の頼りない声は、ミチの懇願に遮られた。
「待ってちょうだい、そんなにすぐに断らないで」
「や、けど、そうは言っても」
「アタシだって、こんな格好つかない野暮な言い方したくなかったわ。でもだって、うかうかしてたら、左慈さん誰かに取られちゃいそうなんだもん」
若い娘の涙というのは、狡くて手強い。意地が滲んだ目で訴えられると、左慈は言いたかったことが喉につっかえる上に、頭は真っ白になってしまう。
「だ、だ、だけど、俺はあんたのこと」
「お願いよ、左慈さん……」
するとミチは俯いたかと思うと、自身の襟元を掴み、ぐいっと乱暴に両側に広げた。
「おいっ」
止めようとすると、涙に濡れた目がきっと左慈を睨んだ。その一瞬の眼光に左慈がたじろぐうちに、ミチは袖から手を抜いた。骨張って華奢な上半身の、控えめだがふっくらとした乳房が斜陽に晒されて影を作っている。
「アタシ本気なの。分かってよ……」
「な、なにやって」
「本当に、本当に真剣なのよ」
そう言って徐に左慈の手を掴んだミチは、乾燥した大きな手を、自身の小ぶりな膨らみに押し付けた。少しでも動いてこれ以上柔らかさを感じてはいけないと、左慈は知らぬ間に息まで潜めて硬直した。
「今だけでもいいの、アタシを見てよ」
「ミチ……」
この場を切り抜ける返しが全く思いつかず名前だけ呼ぶと、娘の心臓が飛び上がったのを感じた。
「こういう…ことからでもいいからっ」
左慈の手をつかむ指先はかわいそうなほど震えているが、離すまいと力が入りわずかに爪が食い込んでいた。左慈の手が娘の薄い肌を滑るように誘導され、結ばれたままの帯を越えた。二人の手は、そのまま衽をめくった先に入ってゆく。
「やめろ!」
熱を持った腿に指先が触れるか触れないかのところで、左慈は我に返って手を引き抜いた。立ち上がって一歩引くと、ミチは左慈の突然の大声に驚いて、肩を揺らして首を竦めていた。罪悪感がよぎるがそれで躊躇してはいけないと、左慈は口を開いた。
「……俺は、あんたと一緒にはなれない」
「どうしてよ。今じゃなくてもアタシ——」
「慕ってる女がいるんだ」
掠れた声で告げると、ミチはほんの一瞬絶望したように目を見開いたが、すぐに目元を拭って真っ直ぐに左慈を見据えた。
「そんな人、いないの知ってる」
「いる。誰にも言っていないけど」
「誰にも、言えない人なの」
「…………」
左慈は返事の代わりに拳の中に爪を立てた。ミチは服を着直しながら立ち上がると、左慈に一歩近づいた。
「村の人にも、家族にだって言えないんじゃ、一緒になんかなれないじゃない」
「……知っているさ」
左慈はミチを見ないで、自身の黒々とした長い影をじっと見つめながら言った。
「そんなんじゃ左慈さん独りぼっちになっちゃうわ。今よりも」
ミチの言葉は、細い針のように皮膚の間を突き抜けて左慈の胸に刺さる。
「アタシじゃ、だめ? アタシ左慈さんに好きになってもらえるように頑張るわ。左慈さんが人付き合い好きじゃないなら、アタシがみんなにいい顔する。左慈さんを独りぼっちにさせない、アタシが左慈さんの安心できる人になる」
ミチはきっと、その言葉通りにするだろう。情に染まって浮き足立った熱を滲ませつつ、それでも芯の通った娘の声は、彼女の真っ直ぐな意思を如実に表していた。
それでも、左慈の答えはすでに決まりきっていた。
「あんたの居場所は、俺じゃないよ」
断ることを詫びるのも烏滸がましく、左慈はいっそ恨んでくれと思った。
「俺の居場所も、あんたじゃ——」
ぱしっと、頬に衝撃が走るとともに視界がぶれた。
引っ叩かれたのだと気づくとともに、今度は娘の体が左慈の腰に巻きついた。ありったけの力を込めるように抱きつかれて、左慈はミチの先ほどの誘惑を思い出して焦る。
「おい——」
「思い出くらい、くれたっていいじゃないっ」
左慈が引き剥がすまでもなく、ミチは自ら身を離してそう言い放った。そして呆気にとられる左慈を置いて、峠を降りていってしまった。
残された左慈は、少しの間娘の去った道を眺めた。そしてやがて、身体中から緊張が抜け落ちたように小岩の一つに腰を下ろし、深く深く息を吐いた。
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