十六、静かな異変

 翌日もまた、左慈たち村の漁夫は海に出たものの、ほとんど漁獲がふるわなかった。日が高く昇る頃には、突き抜けるような秋晴れであるにもかかわらず、沖の波はやけに高く、浅瀬は海泥に濁っている様が見て取れた。男たちは一月前までの覇気はどこへやら、朝のうちに皆消沈した面持ちで浜に上がることとなった。

 せめて腹の足しになるものを集めようと、手の空いている男たちは、潮の引いている間に時折邪魔をする荒波の中で貝を漁ったり打ち上げられた海藻を摘んだりしていた。


「昨日、親父から聞いたんだけどよ。どうやら、不漁はうちの村だけじゃあないらしい」

 左慈が砂塗れの海藻をざるに入れて海水で濯いでいると、一路が隣に並んできた。釣竿を担ぐ彼の肩は、がっくりと落ちているのが一目瞭然であった。

「何か釣れたか」

 返事は予想できたが、左慈はひとまずそう尋ねた。一路は海藻を揉む左慈の手元を見つめながらかぶりを振った。

「いや、潮の流れが妙に大きくてよ、いくら投げてもすぐ岩に引っかかっちまうんだ。しまいにゃこのざまだ」

 ぴょんと動いた釣竿の先に目を向けると、垂れた釣り糸が中程でこんがらがっていた。


「どうも近海の様子が変だ。波間村も巳浦村も沖江村も、どこもこんな調子だと。そろそろ冬支度のことも考えにゃならんし、今日は村長むらおさたちが会合を開いてどう凌ぐか話をするそうだ」

「ひとまず獲れた魚は全部干しちゃいるけど、それでも足りなさそうなのか」

「このまま不漁が続けばな。畑もあるっちゃあるが、それもお上に巻き上げられちゃあ、子供に食わせる分なんて米粒ひとつほどしか残んねえよ」

 事は、左慈が思っていたよりも深刻さを増しているようだ。海藻の臭いが、二人の間に漂う重苦しい雰囲気を一層不快なものにさせた。

 左慈は洗い終えた海藻を海水を貯めた桶に入れると、洗い終えていない分をまたざるに移して手を動かした。ちらりと一路の様子をうかがうと、彼はぼんやりと沖の方をじっと見ていた。

「俺はさ、正直影海様なんて本気で頼りにゃしたことないし、清潮祭だって正月や盆と同じようなもんだと思ってたんだけどよ」

 左慈は海藻を濯ぐ手を止める。秋晴れの光を映さない一路の瞳は今日の海と同じ濁りを宿し、左慈は不安になって彼の横顔を見つめた。

「本当に影海様がいるんなら、願えば救ってくれるのかねえ」

「それは…」


 ——私はあなたたちの祈り。


 ウシオは、彼女自身のことをそう話していた。左慈はウシオと過ごす中で垣間見た、彼女の不可思議な力のことを思い出す。近海の異変は、ひょっとするとウシオと何か関係があるのだろうかと、そうであれば、ウシオならこの事態をどうにか切り開くことができるのではないかと、そんな考えが過ぎる。

「……もしそうなら、今年の祭は一大事だな」

 ただ、そのことを一路に話すのはさすがに憚られた。彼の安心を作ってやりたいが、ウシオのことを話しては、毎夜の左慈の安寧が失われかねない気がした。そもそも、彼女のことを信じてもらえるかも分からない。当たり障りのない返事を呟くと、一路は一寸の沈黙の後、勢いをつけて立ち上がった。

「んだなあ。——よっし、俺もそれ洗うの手伝おうかな。ざる持ってくるわ」

「ああ。掘立小屋に余ってたはずだよ」

「おう」


 一路が遠ざかっていくのを背後に感じながら、左慈は彼が先ほどまで眺めていた先を見る。決して荒れているわけではないが、影海岩より手前の海は、時折白い手がこまねくように波立っている。沖の方もまた、水面が高く膨れて不気味に揺れているように見えた。鼻から深く息を吸い込むと、潮風に乗って海藻とはまた別の、嵐の次の日のような生き物と海泥の臭いが入り混じった生臭さが鼻をついた。胸がぞわっと嫌な跳ね方をしたが、一路が戻ってきたところで、左慈は愛想を浮かべてその胸騒ぎを誤魔化した。


 しばらくの間、左慈は一路と他愛ないやりとりをしつつ海藻を洗った。日が傾き、そろそろ空が薄青と橙に彩られるであろうという時には、摘んだ海藻は桶の半分ほどになった。あとは、まづか花乃に食えるよう下ごしらえを頼む必要がある。

「ありがとう。あとでそっちにも分けに行くよ」

 桶を抱えながらそう伝えると、一路は頬を掻いて笑った。

「分前が欲しくて手伝った訳じゃねえよ…と言いたいが、少し期待してた。悪いな」

「お互い様さ」

「ざる、俺が小屋に戻しとくよ」

「ああ、よろしく」


 一路と分かれて村に戻ろうとした時、浜と村を分ける松の木々の合間で手を上げている人影があった。

「左慈兄!」

 慈郎が左慈を呼びに来るなんて、ここ一、二年はほとんどなかった。何事だろうかと、左慈は桶を抱えてそちらに急いだ。

 左慈は慈郎を見下ろした。左慈や左介がこの年の頃は、もっと背丈が竹のように伸び続けたものだが、慈郎のつむじは今も左慈の首の下にある。こちらを見上げる目は父親とよく似ているが、不機嫌そうにむっとひき結んだ口元は、母親のまづが父親の文句を言っていた時のものと同じである。

「どうした」

 機嫌を取る意味でも、左慈はなるべく声を柔らかくして尋ねた。しかし慈郎は、何故だかいじけたような目つきで左慈を見上げている。


「ミチって娘が左慈兄探してたよ」

「えっ」

 左慈は思わず背後の海を見遣る。「どうしたの」と疑わしげな慈郎の問いに我に返り、再び彼と向き合った。

「なんでもないよ。それで、その、来てるのか」

「海は荒れてるから女は近づいちゃいけないって、だから俺に聞いたんだって。この前の場所で待ってるからってさ」

「そ、そうか。分かったよ」

「今から会いに行くの」

「まあ……。待ってるというなら、行かなきゃまずいだろう」

 気が進まないあまり胃がじくじくと痛み始めたが、慈郎と同じ年の頃の娘を秋の肌寒い夕暮れの中放っておく訳にもいかない。左慈は弟の手前、深くため息をつきたいのを堪えた。


「左慈兄、そのミチって娘気に入ってるの」

「な、んだ、急に……」

 まさか弟からそんなことを尋ねられるとは思っていなかった左慈は、狼狽して声が裏返ってしまった。一方の慈郎は、あくまでも淡々として気怠げにに松に背を預けた。

「急じゃないよ。むしろ左慈兄の方が急に変だ」

「変って、どういう」

「左慈兄、若い女嫌いだったじゃんか」

「いやだから…嫌いじゃなくて苦手なんだよ」

 現に、ミチのことは気のいい娘だとわかりつつも苦手であった。すると慈郎は、ふいとそっぽを向いて目を伏せた。腕組みをしている姿は精一杯大人ぶっているようで、かえって慈郎に残っている幼さを際立たせていた。

「おんなじさ。ていうか、苦手なのに逢引してるのも左慈兄らしくないよ」

「俺は別に、誘ってないけど」

「おかあに急かされて無理してんじゃないの」


「ど、どうしたんだお前……」

 普段から左慈の内気さや不器用さを面白おかしくからかおうとする慈郎であったが、今日はその戯れあいとは一線を画した物言いである。左慈は腹が立つよりも弟の異変に心配が募った。

「べっつに」

「別に、ってこたあないだろう。——あっ」

 どうしたものかと頭の後ろを掻いたところで、左慈ははたと思いついた。


「慈郎お前、もしかして……」

「なんだよ」

「ミチが気になるのか」

 全てが繋がった気がしてずばり尋ねると、慈郎は一瞬、呆気にとられて、それから大袈裟にため息をついた。

「やっぱ俺の気のせいかな。左慈兄いつもどおりかも」

 その表情は、微かな憂いを残しつつも少し和らぎを取り戻している。

「さっき見かけただけなのに、そんな訳ないじゃんか。的外れもいいとこだ」

「違うなら、なんで」

「だからさあ、別になんでもないよ。気になっただけだって」

 そんなはずはないと感じつつも、左慈は慈郎がいつもの調子に戻りつつあることに安堵して、それ以上聞き出せなかった。


 慈郎は少しだけ勢いをつけて松から背を離すと、数歩歩いた先で左慈を振り返った。冷たく湿気た潮風が左慈の背後から慈郎に向けて吹き抜けていき、松の木々がざわざわと鳴った。慈郎はその風と舞い上がった枯れ葉に目を細めて笑った。

「じゃ、俺ちゃんと言伝したし、あと知らないっと」

 その笑顔は、やはりいつもの自然な笑みとは違う気がした。

「慈郎、やっぱりもう少し話を——」

「生娘弄んでると、影海様に祟られるぜ」

「なっ……いや、俺は別に——あ、待てっ」

 突拍子もないことを言われて戸惑ううちに、身軽な弟は桶を抱えた左慈を置いて走り去ってしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る