十五、兄弟それぞれ
「お前、調子が良くなってきたな」
夕飯時にも、左介から一路とほとんど同じことを言われた。そんなに分かりやすく変わったのだろうかと、左慈は気恥ずかしさを通り越してばつが悪くなってくる。
「いっときと比べて、マシになっただけだよ」
左慈は碗に盛られた粟飯を飲み込むと、低く呟くようにそう返した。するとまづが、無遠慮に左慈の顔を観察し始めた。
「確かに。眠そうなのは相変わらずだけどねえ」
「だろ? なんかこう、顔色が良くなったよな」
「何か良いことでもあったんじゃないのかい」
まづの嬉しそうな問いかけにぱっと言葉が出てこず、口に含んだ味噌汁が喉につっかえて咽せた。
「あらら、大丈夫かしら」
「だ、大丈夫」
背を摩ろうとする花乃の手を断りながら、左慈は水を一口飲んだ。まづの怪訝な視線が痛い。
「特に何も…。少しずつ眠れるようになったから、そう見えるだけさ」
「そうかねえ」
「ま、なんにしても良いことだ。時化が明けたら死に物狂いで稼がにゃあならんし」
「でも、もしこのまま漁が奮わなければ、今年の「こもり」は厳しくなりそうね」
花乃が心配そうに呟く。すると今まで黙っていた慈郎が、「あれ俺嫌い」とこぼした。
「一人でも釣りしちゃだめなの」
「当たり前さね。「こもり」の間は殺生は御法度だよ」
まづに一蹴されて、慈郎は拗ねたように味噌汁を音を立てて啜る。左慈はすっかり、この「こもり」のことを忘れていた。祭事にさほど関心を持ってこなかった左慈であるが、「こもり」は晴れていても漁に出なくて良いため、この風習のことは嫌いではなかった。
こもり、とは、清潮祭の前儀式のような風習だ。祭に参加する四つの村「波間村」、「
「祭といやあ、左慈、お前大船の舟漕ぎやんねえか」
「急になんだ」
飯をたいらげた左介が、一息ついたように立て膝をついてくつろぎながら、そんなことを曰った。
「急なんかじゃないさ。ちょっと前なら、どんよりしてて危なっかしいし、頼むのはよそうって和さんと話してたけどよ。ここ最近のお前なら大丈夫なんじゃねえかって」
「そんなの、一言だって聞いてないぞ……」
左介はさも前々から考えていたように話すが、左慈は寝耳に水であった。しかも、大船——祭事の大役である大縄担ぎを乗せた舟の舟漕ぎだ。左慈は無意識に身を引いて肩を縮こまらせた。
祭りの当日は、四つの村々から一艘ずつの囃し舟と、大縄担ぎを乗せた大船が中心となって祭を執り行うこととなっている。確か一路は、阿見村の囃し舟に乗ると言っていたはずであった。それすらも、よく請負ったなと感心こそすれ羨ましい気持ちなど微塵もなかったのに、ましてや飾り立てられた大船の舟漕ぎなんて目立つこと、左慈の性に合わないにもほどがあった。
「きょうだいで祭りを盛り上げようぜ」
少し浮き足だった物言いに、左介が今年の大縄担ぎに選ばれたことを少なからず誇らしく思っているように見えた。そして、その嬉しさを左慈と分かち合いたいと思ってくれているのだろうということも、左慈はなんとなく感づいた。
「俺はいいよ」
しかし、左介の意を汲むよりも、衆目を集めることへのためらいの方が勝る。左慈はみそっかすの溜まったぬるい汁を飲み干すと、手持ち無沙汰になって指を組んだ。
「俺が出たって、村のみんなは拍子抜けしちまうさ」
まづと花のが片付けをしようと土間に行ったところで、左慈はぼそりとぼやいた。
「んなこたねえよ。和さんや網元だって、お前を見る目が変わるに違いない。お前だって親父のせがれで、俺のきょうだいなんだから」
「それでも、俺は左介や親父とは違うよ…」
左介や父親と同じになれない不甲斐なさの中に、同じじゃなくて悪かったな、という卑屈な気持ちが一滴混ざるが、左慈は自覚なくただ悶々とした。左介はというと、左慈のこうした内気な態度には慣れ切っており、さほど気にする様子はない。
「それにだ」
「もういいって……」
少しうんざりしてきた左慈を差し置いて、左介はにやりと意味深に口の端を上げた。
「ほら、さ。良い格好を見せてやれよ」
「誰にだよ……」
左慈が呆れて、茶化すような口調の左介を適当にあしらおうとすると、
「左慈兄はそういうの嫌いだろ」
今までずっと黙っていた慈郎が口を挟んできた。また生意気な茶々を入れようとしているのかと、左慈は慈郎にしらけた視線を向けた。しかし、弟の表情はいつものように左慈に揶揄を入れる時のものではなく、それどころか、浮かない表情で空になった茶碗を見下ろし、口を尖らせていた。左慈はその理由が分からず呆気にとられた。
「どうした慈郎、お前が代わりにやりたいってか」
「違うよ。左慈兄が嫌いなら、やんなくてもいいんじゃないって話」
左介もまた、どうやら慈郎の虫の居所が悪いということに気付いたようで、左慈と同じようにきょとんと目を丸くした。
「何だ何だ、やけに突っかかるじゃねえか」
「別に…突っかかってないや。嫌嫌舟漕いでるの見てたって、俺は楽しくないもん」
「いや、その、嫌っていうか苦手なんだよ……」
弟の機嫌の悪さにたじろいで、左慈は思わず口籠もりながら付け加えた。慈郎は何故だか疑わしげな目で「ふうん」とだけ相槌を打った。そしてすっくと立ち上がったかと思うと、まづや花乃の間をすりぬけて表に出た。
「慈郎、どこ行くんだい」
「ちょっと遊んでくるだけ」
慈郎はまづに返事をして、日没の暗がりの中を駆けていってしまった。
「左慈、俺あいつに何かまずいこと言ってないよな」
「まあ……慈郎には、何も」
末弟の去った戸口の外を茫然と眺めて、左慈と左介は首を捻った。
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