朧月

十四、男って

 嵐が過ぎ去って三夜明けてなお、阿見村の近海は濁り波の機嫌は悪かった。魚たちは、どこかへ押し流されてしまったのかと思うほど姿が見えない。村長などの村の年配者の言うところによれば、また天が荒れることが重ならなければ、日毎に海の調子も元に戻るだろうとのことであった。しかし、こうまで時化を引きずることはそうない土地であるためか、左慈のような若い漁夫は稼ぎの少なさに焦る者も少なくない。一路もまたその一人で、今は左慈の隣で大口開けて情けない唸り声混じりのため息をついた。


「なあ、左慈よう。親父が言うには、俺たちがガキん頃にも、半月近く不漁が続いたことがあったらしいんだが」

「へえ、それで」

「そん時ゃ、俺たちをどうやって食わしていたんだろうな」

「俺に言わないでくれないか」

 小舟を浜に上げながら、ぼんやりと浜の端の岩場を眺めて気の無い返事を返すと、強引に肩を組まれた。危うく船首に蹴躓きそうになりながら、恨めしく幼なじみを見遣ってみるが、彼の方が左慈よりも不満そうな表情をしていた。


「つれねえ返事だ。お前が幽霊みてえに生気がなかった時は、俺ぁ気にかけてやったじゃねえか」

「幽霊って」

「俺のことも気にかけてやってくれよ」

 そう言いながら一路が視線を移した先は、松の間で追いかけっこをしている幼子たちの姿であった。確か、一路の娘はまだ2つにもなっていない。一路が心配なのはきっと彼自身の飢えではないと、左慈はすぐに悟った。

「助けになれることがあれば、なんでもしてやりたいよ。……思いつかなくて悪いが」

 すると、一路は左慈を見上げてからっと笑った。彼の顔に笑顔が戻り、左慈は胸を撫で下ろした。

「おいおい、いつからそんなに気の利くことが言えるようになったんだ、色男」

「なんだ、その言い方」


「とぼけんじゃないやい」

 一路の筋張った太い肘が、左慈の肋を少し乱暴にどついた。

「いて、何すんだ」

「今じゃすっかり調子が戻って、それどころか男を上げたんじゃねえか、ん?」

「……何の話だよ」

 目を合わせると表情でぼろが出てしまう気がして、左慈は舟が波に攫われぬよう杭に結びつけながら、敢えて適当に返した。しかし、長年の付き合いであるこの男には、そんなごまかしは効かなかった。

「こう、なんつうの。猫背と隈さえどうにかすりゃあ、左介や親父さんにも負けねえんじゃねえのって」

「猫背も隈も、どうしようもないんだよ」

「いやいや、そうはいってもこう…ちょいと前よりも精気があるってえか…」

 つつましく婉曲することなど滅多にない真っ直ぐな男は、珍しく言い淀んだ。かと思えば、諦めたように手を叩いた。


「ええい! つまりだな」

「言わなくていい」

 どうにも気まずくて、左慈はぴしゃりと一路の次の言葉を遮った。するとこれが良くなかったか、一路が声を弾ませた。

「いいじゃねえか、初心な生息子だったわけじゃあるまい」

「こういう話は苦手なんだ。知っているだろう」

 たちまち首から上がかっと熱くなり、左慈は一路からひたすら顔を逸らした。一路はというと、「おっと悪いことをした」と言いながらも揚々とした調子は変わらない。左慈は大仰に嘆息して見せて、歩幅を広くしてその場を離れた。軽い足取りで一路が後から追いついてくる。


「しっかしまあ、これでお前も所帯を持つのかあ」

「それは…」

 思いつきすらしなかった末々の彼女との日々が、刹那のうちに左慈の脳裏に思い描かれる。願えば叶うだろうかと、ぼんやり思案してしまう。

「お、おいおいおい」

 何を思ったか、急に焦り始めた一路の呼びかけで左慈は我に返った。

「ちょいと遊んでやっただけ、とか言わねえよな。お前に限って」

「まさか、俺はそんな器用なやつじゃあない」

「ならいいけどよう…。ほんと、勘弁してくれよな。おミッちゃんは俺のかみさんの妹みたいなもんなんだから」

「なっちょ、ちょっと待ってくれ!」

 あらぬ誤解を生んでいることに気付いて、左慈はつい声を張った。慌ててあたりを見回すが、数人の村人が少し離れたところをさほどこちらを気にせず往来しているだけであった。ついでに影海岩と浜の端の岩場をうかがうが、人影は見当たらない。


 左慈は一路を手近な松の影に隠して少し声を潜めた。

「あの娘には何もしてない」

「だってお前、大時化の前の日に逢引きしてたんじゃ」

「呼ばれて少し話しただけだよ」

「本当かあ? おミッちゃん、あの日やけに機嫌よかったから、俺ぁてっきり……」

「俺はそんなに——」

 手は早くないと言いかけたところで、左慈はその翌日の記憶が頭の中にちらついて言葉に詰まった。


「……とにかく一路、それは勘違いなんだ」

 言い聞かせるように諭すと、一路は納得いかなさそうに口をへの字に曲げつつも、何度か頷いた。

「ま、お前がそう言うんならそうだろうよ。でも、そしたら相手は誰なんだい」

「…………」

「言えない相手ならなおのこと、おミッちゃんを考えてあげらんねえかな。余計な世話だと思うけどよ」

 一路の言葉は真っ当だ。先のことを願ったとて、叶う相手なのかもわからない。

 それでも、左慈はまるで頑是ない子どものように、一路の言葉に聞く耳を持つことができそうになかった。そもそも、一路や左介のようにできない左慈には、誰と一緒になったとしても、相手の思いにも周りの期待にも応えられる自信がない。左慈は後ろ手にこっそりと拳を握った。


「——俺はこれでいいんだ。それにあの子は、俺には勿体ない」

「なあ左慈、何かあったら言ってくれよ。助けになるぜ」

 一路の言葉に応じるでもなく、かといってミチを突き放そうとするわけでもない曖昧な態度の左慈を、一路は咎めもせずにただそう声をかけた。

「ああ」

 松にもたれかかる一路のおおらかさに尊敬と安堵を抱きつつ、彼では、何ひとつ左慈の助けになれないと感じた。今の左慈には、真夜九つの息のしやすいひと時があればいい。それが永く続けばいい。そう思って、左慈は一路に微笑を向けた。

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