十三、累ねる

 浜は、うねり激しく満ち引きを繰り返す波から湧き立つ、生臭い潮の香りに満たされていた。遠く離れた沖合では、雲のような白波が高く荒ぶっているのが見える。影海岩もまた、そんな高潮に乱暴に覆われては、ぽっかりあいた穴からざぶざぶと白波が吹き出ていて、どこか痛々しい有様だ。


 浜辺には、人っ子ひとりいない。しかし家に戻る気になれないのはもちろんのこと、左慈はもしかすると、という気持ちを捨て切れないで掘立小屋で雨風をしのぐとした。小屋は、屋根の所々から滴が滲み出ていて、土と塩水、こけのにおいが鼻をついた。左慈は短く鼻をすすって、乱雑に放られた漁具を簡単に片付けた。

 ひと段落して、作りかけた縄はどこであったかと小屋の中をうろうろ探していると、こんこん、と気味よく戸が叩かれた。左慈は急いで表へ出る。誰の姿も見当たらない。


 しかし周りを見渡して、左慈はすぐに気がついた。浜辺の端の、潮に当てられて草木の剥げた山裾、そこから崩れ削り落とされた岩の群れに紛れて、彼女はこっちを見ていた。一面灰色の荒れた世界に、赤茶けた布だけが鮮やかに目に止まり、左慈は筵を持ってそこまで走った。

 彼女は、荒れ狂う波の手の届かない岩肌の上に立っていた。唇を引き結び、嵐の海岸沿いを一心に見つめている。

「ウシオ」

 呼ぶと、ウシオはこちらを見遣り、口の端を上げた。そして、裸足であることを感じさせぬほどの軽やかさで左慈の元までたどり着き、

「ここは波が騒がしい」

 と呟き左慈の手をひいた。


 ウシオに連れられたのは、阿見村でも知れた岩窟であった。長い年月をかけて波と潮風が山を穿ち出来上がったそのうろは、晴れた日であれば童たちが度胸試しに遊びに来る場所である。入り口の上には、どこかの雑木から逸れてしまった、痩せた柊木犀が健気に白い花を咲かせていた。

 こんなに海が荒れる日は、波が押し寄せてもおかしくはないものの、不思議なことに岩窟の周りの潮は引いていた。そういえば、ウシオは左慈ほど雨風に濡れている様子はない。これら全てはウシオの力によるのだろうか。左慈は袖から腕を抜き取り半端に脱ぐと、雨を吸った袂を絞りながら思い巡らした。


 左慈は幾分水の捌けた服を着直すと、岩窟の奥で、左慈が持ってきた筵に座るウシオの傍らに寄り、胡坐をかいた。そこから先、どう口火を切ろうか考えているうちに、沈黙が破りづらくなってゆく。

 それを知ってか知らずか、ウシオが口を開いた。

「まだ夜ではないけれど、眠りたいの」

「そういうわけでは…」

 眠れない時を除いては会いに来てはいけないのかと、いじけた返しが思い浮かび、左慈は言葉を唾と一緒に飲み込んだ。

「そう」

 何も言わない左慈に、ウシオが低く相槌を打った。時折そうするように「教えて」、「こっちを向いて」とも唱えず、それっきりだった。


 ——あなたのことが知りたいわ。どんなことでも。


 夜明けの海で、彼女が吐露していたことを思い出した。

「家にいると、どうにも息が苦しくて」

 嵐の音に紛れるように、左慈は訥々と打ち明けた。

「あんたといると、ここに居てもいいんだと気が楽になるから。居ても立ってもいられなくて……それだけだよ」

「そう」


 胸を撫で下ろすように穏やかな相槌が、左慈の耳の奥をくすぐった。ちらりと彼女の方に視線を下げたが、左慈の目には彼女の頭のてっぺんのつむじと、髪の奥で睫毛がわずかに揺れる様子しか見えなかった。そっと覗き込もうとしたところで、左慈は鼻の奥がつんとしてくしゃみが飛び出る。ついでに髪の毛から滴り落ちた滴が背を伝い、小さく身震いする。ウシオはというと、初めてくしゃみを見るように、たじろぎ肩を竦ませたまま固まってしまった。実際、初めて見るのかもしれない。左慈は、宝玉と見紛う丸い目を瞬かせるウシオの姿に苦笑した。

「濡れたからかな、少し寒いよ」

「寒い?」

「冷たい雨に打たれたから、俺の体も冷えたんだ」

「左慈はいつも、温かいよ」


 ウシオは、血の気のない彼女自身の掌を見つめながら続けた。

「眠るあなたの額や頬は、いつも私に温もりを与うの」

 自分が眠りに落ちている最中の彼女のことなんて、想像もしていなかった左慈は、その有様を思い浮かべてしまい少し居た堪れなくなる。

「……ウシオの手は、いつも冷たいな」

 気恥ずかしくて頬を掻く左慈。するとウシオはゆっくりと左慈を見上げた。ウシオの鮮やかな目が、三日月を象って微笑んだ。


「海に棲む者はみな、触れると冷たいよ。……今は、あなたも」

 冷たい指先が、左慈の冷え切った耳の淵をなぞり、温度を確かめるように頬や鼻先に触れた。あまりに唐突なことに、左慈は彼女の奇行を止めるのを忘れて、無邪気に左慈の顔をなぞるウシオを見つめた。ウシオの指が唇に降りた時、つい漏らしてしまった吐息に、彼女はぴたりと手を止めた。

「ここは温かいまま」

「ぐっ」

 瞳に好奇を孕んだまま、ウシオは人差し指と中指を左慈の口の中に差し入れた。くちゃり、と粘った音が、岩窟の外の暴風よりもよっぽど大きく鼓膜に響く。左慈は狼狽えながらも、緊張に身を固まらせて腹の底から湧いてくる衝動と攻防する。一方のウシオは、いつの間にか左慈の胡座に乗り上げんばかりに近づき、夢中になって自分の指の差し込まれる様を見ていた。


「熱いのね」

 浮かれたように吐かれた一言。

 爪がぬめった口の中を掻く。左慈の舌の熱が、冷たい指先に伝播して混ざる。


 胸を掻き毟るような渇求が溢れ、左慈はウシオの指に歯を立てた。ぴくと跳ねたウシオの丸い肩を片手で掴み、もう片手で彼女の指を口から抜き取ると、互いの鼻先を触れ合わせた。

「ん」

 何かを言おうとしたウシオの声は、左慈の口に飲み込まれて呻き声だけが漏れ出た。唾液で滑る細い指に左慈のそれを絡め握り込むと、ウシオが握り返した。その仕草にほっとして、たまらなく嬉しくて、左慈は一層深く口を重ねた。もっと、もっとと前のめりに迫るうちに、息荒く唇を離す頃には、左慈はウシオに覆いかぶさって彼女と目を合わせていた。

「左慈」

 吐息まじりに名を呼ぶ彼女の頬は、血の気を帯びていた。

「あんたにも、血が通っているんだな」

「……あなたが私に与えた。あなたの熱は、陽の光よりも温かく烈しい。……心地良い」

 身体中の血潮が熱く疾く巡り、えづきそうなほど胸が苦しくて、左慈はウシオの首元にこうべを垂れて深く息を吸った。白いうなじからは、柊木犀の花と同じほの甘い香りがした。頭がくらくらして、この温もりと香りに早く溺れてしまいたかった。


「いいか」

 組み敷き応えを強請るように、或いは平伏し赦しを乞うようにして、左慈は声を震わせた。

「聞かなくていいよ」

 熱を帯びた指先が左慈の背をなぞり、二人の影が重なり揺れた。

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