十一、想いの芽生え

 その夜のこと、左慈はいつものとおり浜を訪れたが、ウシオはいなかった。波打ち際まで降りてあたりを見回してみたり、目を凝らして影海岩の様子を確認してみたりしたものの、それらしき姿は見当たらない。ざらついた波の音が左慈の焦燥を掻き立てる中、強く手繰り寄せるような引き潮が膝にまとわりついて、左慈はふらりとよろけた。


「——私の知らない」

「うわっ!」

 背後の声に左慈は飛び上がる。足音はおろか、気配すらなくウシオが立っていた。驚きつつも、彼女が姿を現したことに安堵する左慈とは反対に、ウシオはどことなく冴えない表情を浮かべていた。

「何か、あったのか」

「昼の浜辺。見かけない娘がいたね」


 波の音が、やけに間近に聞こえた。

「ミチ、のことか」

「若い娘は海に出ないわ。どうしてミチは、ここにいたの」

 後ろめたいことなんてないはずなのに、左慈は目を泳がせた。

「隣の……波間村の娘で、知り合いの妻に会いに来ていたんだ」

「でも、左慈に会いに来ていたよ」

 そう言って、ウシオは左慈の手を取った。そして昼間に左慈がミチにしたように、左慈の中指の付根あたりを何度か押した。


「私は海辺のあなたしか知らないのに、ミチは他のあなたも知っているのね」

 ウシオの冷たい指の腹が、指の間をするりと撫でた途端、左慈は首の後ろがぞわりと粟立った。血の巡りが逸るのを感じる。やがて細長い指が、左慈の掌の皺をなぞるように手首へと下りてゆく。

「ウシオ!」

 これ以上は、と、咄嗟にウシオの指の動きを封じるように彼女の手を握り込む。ぎょっとして目を見開いた彼女は、少しだけ息を荒くする左慈を見上げた。


「………つまりあんたは、妬い…いや、その」

 急に自分の見立てが思い上がったもののような気がしてきて、一瞬、言葉が喉で突っかかった。

「俺が、あの娘といるのは嫌か」

「私はあなたたちの営みの安寧を保つもの。あなたが良いと思うことが、私の良いこと。だからそれは、私が決めることではないよ」

 とは言いつつもウシオの表情は浮かばず、少しむっとしているようにさえ見えた。初めて彼女が姿を現した時には、想像すらできなかった表情であった。漂う雰囲気にそぐわず口の端が上がりそうになるのを堪えて、左慈は続けた。

「ミチといることが良いことかは、分からないが。あんたが嫌なことは、俺にとっての良いことじゃあないよ。あんたの気持ちを教えてくれ。……教えて、くれるならでいいんだが」


 左慈の掌の中で、ウシオの指がぎゅっと握りしめられた。彼女の視線が左慈から逸れて、艶やかな睫毛が震えた。

「分からない。あの娘もまた私を願う者。私が慈しむべき、この海に生かされる者。それでも、けれど……分からない。私の心は、私に、心は————」

 ウシオの言葉が尻すぼみになり、彼女の膝ががくりと折れた。左慈は慌てて細い腕を引き上げた。

「どうした!?」

「分からない。私が分からなくて……」

「……ひとまず、渚から離れよう」

 左慈はウシオに肩を貸しながら、掘立小屋の前に場所を移した。漸く、いつものように座って話ができることにほっとしつつ、左慈は隣で俯いているウシオの様子をうかがった。

「動揺させてすまない」

「動揺……私はなぜ、動揺したのかしら」

 ウシオが再び深く思案し始める気配がして、左慈は慌てて話題を変えた。


「それよりも、俺にしてほしいことはあるか」

「私が、左慈に」

「あ、ああ。いつも付き合ってもらってばかりだから」

 正直、ウシオと出会ってからの左慈は調子が幾分よくなっていた。少しでも眠れるようになったこともそうだが、何よりも、彼女に会うことが心の支えになりつつある。それなのに、左慈はウシオに何も返せないでいた。

 ウシオは力なく左慈を見遣って、それから星月夜の影海岩を見つめ、ぼそりと呟いた。

「あなたが、ここにいる理由が知りたい」

「眠れないからと…」

「私を探して会いにきてくれるのは、どうして」

 先ほど、ウシオを探して彷徨っていたことは知られていたのだ。ウシオが影海様と祀られる「何か」であれば、ここで起きる出来事の全てを知っていて当然である。そんなことが、すっかり左慈の頭からすっぽ抜けていた。見透かされてばつが悪くなり黙り込んでいると、


「こっちを向いて」


 そう言われて、彼女の言葉に応じた。その目に見つめられると、左慈はどうにも抗えない。

「あなたが私を探すのは、どうして」

 泡沫のように儚い声が左慈を揺さぶり、白状せざるをえない気持ちにさせる。


 ——左慈さんにはきっと、そばにいて、安らげるひとが必要なんじゃないかしら。


 昼間のやりとりが脳裏を掠める。

「あんたは……その」

「私は?」

「……すまない。うまく言えないよ。ただ、今日あんたを探している間、すごく焦った。だから、あんたが現れてくれて俺はほっとしたよ」


 潮の音がやけに騒々しく、左慈の言葉を覆い隠した。

「これからもいてくれると、いいんだが」

「あなたが探さないよう、ちゃんといるわ」

 しかしウシオは、ぽつりと落とされた掻き消されそうな願いを掬い取った。

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