十、明かす娘

 先ほどミチが言っていたことを無視するわけにもいかず、左慈は作業がひと段落すると、ミチの言っていた峠の、ちょうど木々が開けて海の見えるそこへ向かった。

「来てくれたのね!」

 来ないわけにはいかなかったんだ、という捻くれた気持ちと、素直に喜んでいるミチの憎めなさとの間で板挟みになり、左慈は道端で揺れるススキの影を見つめた。


「さっきはありがとう、急に手を握られて少し驚いたけれど」

「それはすまな——」

「ううん。驚いたけれど嬉しかったの。だから謝ったりしないで、ね?」

 一歩、ミチが左慈に近寄った。改めてみると、左慈を覗き込むミチは小柄で、鼻の頭のそばかすやつり目がちに跳ね上がった睫毛は、どことなく三毛猫を連想させた。ミチは左慈の顔を見上げたまま、目の奥を覗きこむようにしている。左慈はそれに困惑しつつも、娘ひとりの目力に押し負けるのは流石に男として踏みとどまった。

「左慈さんの目」

「な、何」

「前に会った時は、隈がもっと深かった気がする」

「実は俺は…」

「眠れないんでしょう。一路さんが心配してたわ」

「あいつは口が軽いな」


 彼のことなので、本当に他意なく心配してぼやいていたのだろうと分かった。左慈は彼が十近く年の離れた娘に、自分の不眠を相談している様子が易く想像できてしまい、思わず隈のできた目元に触れながら笑みを溢した。

 するとミチは、ふいと左慈から目をそらして、半歩だけ後ろに下がった。


「ねえ、アタシも左慈さんが心配よ」

「そりゃあどうも。けど今は、少しずつ眠れるようになってきたんだ」

「本当に? ひどい隈は残っているじゃない」

 ミチの目が、左慈の何もかもを明かすように左慈を捉えている。ウシオとの密かな逢瀬がまるで誤ちのように思えてくるのは、目の前の娘の真っ直ぐな瞳が左慈に向ける、これもまた真っ直ぐで純粋な気持ちを感じ取ってしまったからだ。左慈は裁かれているような心持ちになり、無意識に唾を飲んだ。


「浜辺を散歩していると、少しだけ眠れるようになったんだ」

「ふうん…。夜になると、安心できないの?」

「そんなことは」

 とはいうものの、左慈は図星をつかれた気になった。海から運ばれた風がススキの種を飛ばす様に目を細めながら、ミチは続けた。


「アタシもたまーに、そういうことがあるから分かるわ。いろいろ考えちゃって不安になると、眠たくたって眠れない日」

「………」

「あは、左慈さん今、意外だなって思ったでしょう?」

「や、あの…」

「いいのいいの。アタシはそういう時、おかあや村の仲良しに話すとね、不安な気持ちはどっかいっちゃうから。でも左慈さんは、そういうことしなさそう」

 ミチの鋭い勘に感心しつつも、たった2回会っただけの娘に見透かされている自分が情けなくなって、左慈は言葉が出てこなかった。


「だから左慈さんにはきっと…そばにいて、安らげるひとが必要なんじゃないかしら」

 その一言で左慈の脳裏に思い浮かぶのは、月光を反射する鮮烈な双眸。

「……それはそうかも、しれないな」

「でしょ。……だから、左慈さんはさあ、そういう好い人、いるのかしら」


「いい、って……」

 急な問いに狼狽してそのまま聞き返すと、ミチは目を伏せて口を尖らせた。

「やだわ、独り身なのってことよ」

「…………残念なことにね」

 するとミチは顔を上げ、あからさまに胸を撫で下ろして口元を緩めた。

「ふふふ、じゃアタシって、運がいいのね」

 いくら人と関わることが苦手とはいえ、その言葉や表情の意味が分からないほど、左慈は幼くなかった。


 目を逸らしつつどう返そうかと考えあぐねていると、弱く人差し指を掴まれた。

「アタシのこと、左慈さんに知ってもらいたいの。だめ?」

「だめ、なことは」

「左慈さん、今困っているでしょう」

「……」

「ごめんなさい。でも、少しずつでいいから。だからまた、アタシと会ってね」

 左慈が何かを言う前に、ミチは阿見村に戻るべく峠を小走りで降りていってしまった。

 取り残された左慈の耳に、遠いはずの波の音が微かに聞こえた気がして、左慈は今更、ミチの問いにはっきり答えられなかったことを自嘲した。

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