九、手繰る想い

 清潮祭を、あと半月後に控えた秋晴れの日のことであった。

 その日は、一艘の船が仕掛けた網が大きく裂けてしまい、あまり漁が振るわなかった。修繕してももう長くは使えないほど痛んでおり、漁を終えると、和一を含めた古参の漁夫たちが、新しい漁網を用意できないか網元に頼みに行くと言っていた。

 そうは言っても、明日も稼ぎは必要であるため、左慈は数人の若い衆とやっつけの修理に取り掛かっていた。左慈はひとまず、掘立小屋に放り込んであった作りかけの縄を黙々と編んでいた。他の男たちは、一路と同じように網を編んだり裂けた部分を確認したりしている。細かく億劫な仕事であったが、周りの男たちはそう感じさせないほど明るい。


 理由は、左慈から少し離れたところ、一路とともに裂けた漁網を広げながら大袈裟に声を上げた少女にある。

「——まあ、そんなに大きな岩、気づかないものなのかしら」

「いやあ、引っ掛けるなんてこと、滅多にないんだけどなあ。この網も古くなっていたし、破れ易かったのかもしれねえ」

「それにしても、すごい裂け方」

 昨日から、一路の嫁の美代に会いに、同郷のミチが阿見村を訪れているそうであった。それなのに、彼女は美代ではなく地味な作業にいそしむ男たちに混じって、無邪気に戯れていた。何故ここにいるのか気にならないことはないが、わざわざ尋ねる気もなかった左慈は手元の縄を編むことに没頭した。


「ねっ、それって結構難しいかしら?」

「わあっ」

 何時の間にやら傍に寄って来ていたのか、ミチがひょこっとこちらの顔を覗き込みつつ声ををかけてきて、思わず左慈は驚いて肩を跳ねさせた。

「ごめんなさい! びっくりさせるつもりはなかったの」

「あ、ああ、いや大丈夫。俺も大きな声だして……」

 眉尻を下げて慌てて謝ったミチは、それでも左慈の隣から離れず、しゃがみ込んだままじっとその手元を見つめた。

「左慈さん、手先が器用なのかしら」

「ど、どうだろうな。あまり言われたことはないけど」

「でも、その縄とっても綺麗じゃない」

「これは…そんなに難しいものじゃないよ。俺は修理で慣れているし」

「へえ、じゃあ一路さんにもできるのね」

「おいおい、どういう意味だよ」


 悪戯ぽく笑って一路に視線を向けるミチに、名を呼ばれた男はすかさず野次を飛ばした。その場がわっと華やいで、左慈も思わず口元を緩めた。ミチは左慈の様子に気づくと、そばかすの散る薄い頬をほんのり染めて微笑んだ。

「これ、アタシにもできる?」

「え、あの」

「教えてちょうだいな」

 ミチはその場に座り直すと、左慈の手から作りかけの縄を引き取った。間合いの近さに戸惑い、声をはずませる娘をうまくあしらうことができずに、左慈は行き場を失った手を空に浮かせたままおろおろした。

「ちょっと、それは……」


 助けを求めて一路を見るが、彼は微笑ましげに見守るばかりか、ミチの相手は任せたと言わんばかりに作業に戻ってしまった。他の仲間もまた、こちらを見遣って穏やかな笑顔を浮かべるばかりで、彼女の相手を引き受けようとする者はいない。彼らの気遣いやその裏の思惑はなんとなく透けて見えるが、左慈からすれば決して喜ばしいものではなく、むしろ居心地の悪さが増してゆく。

「ほら、こんな感じかしら。……ね、左慈さん?」

「あ、うん。まあ……」

「………ふふ。あたしって結構筋がいいのかも」

 娘の目が少しだけ寂しそうに伏せられ、左慈は自分が大人気ないことをしていると気づく。左慈はさっと血の気が引き、胸の奥に虫が這い回るような申し訳なさを感じた。


「そこは、右の縄を左の縄に重ねるように……」

「……っ! ねえ、こうかしら」

「う、うん。うまいよ」

「うふ。結構楽しいわね」

 ミチが眩しいほどに破顔したことに、左慈はひとまず胸を撫で下ろした。仕事を教えるくらいなら、話題を探す必要がない分、息苦しさを感じなくて済むと思うことにした。


「もう少し力を入れて撚ってもいいよ」

「ん、こう——いった」

 ミチは、ぐっと力をこめて引っ張った途端、顔をしかめて縄から手を離した。ぱっと開かれた小さな掌は、荒縄で擦れて赤くなっている。


「大丈夫か」

「なんか、右手がチクって」

「草の芯か、木屑か何かが混じってたんだろう」 

 珍しいことではないが、慣れて手の皮の暑くなった左慈とは違い、ミチの掌は薄く柔らかいのだろう。

「すまない、最初に言っておけば」

「気にしないで、左慈さん。特に何も刺さってないし……」

「小さくて見つけにくいんだ。押すと痛むところがあるんじゃないか」

 左慈が言うと、ミチは試すように右の掌をもう片方の手で押して、やがて「ほんと、この辺が痛いわ」と中指の付け根あたりを指した。


「でも、やっぱり何もないし。洗ったら落ちるわ」

「直ぐ取らないと、深く刺さっちまうよ。見せてごらん」

「えっ、左慈さん……」

 左慈は、徐にミチの右手を手にとって、彼女が痛いといった場所をよく見た。手が赤くなっていてわかりづらいが、やはり刺のようなものが丸くて瑞々しい掌に痛々しく刺さっていた。片手でぐっと押し出すようにしながら、もう片方の手の爪の先で取り払おうと試みる。弟の慈郎がよく何かを触ってきては、痛いどうにかしろと左慈にせがむことが多かったため、こうしたことには慣れていた。


「……っ」

 ミチの指先が、きゅっと縮こまるように丸まって、小さく震えた。

「ごめん、痛いだろうけど我慢してくれ」

 左慈は自分の膝の上で、ミチの掌に刺さったものを押し出してはつまんでみることを何度か続けた。するとやがて、枯れ草の芯とも木屑とも言えない刺がぽろりと出てきた。無意識に、弟にしてやったように、安心させるつもりで指の腹でけがをした部分を撫でた。


「取れた。一応真水で洗って……あの、どうした」

 左慈が顔を上げると、目の前のミチは目を赤く潤ませて彼女自身の掌を見て俯いていた。日に焼けた薄茶色の髪の隙間から見える耳の淵が、熱を持って赤くなっている。左慈はそんな細かな変化に気づけるはずもなく、ミチから手を離すともう一度声をかけた。

「えっと、大丈夫か?」

「あ……うん! ありがとう、左慈さん」

「具合が悪そうだが…もう帰った方が」

 実際、怪我はさせたくないし、とはいえ何もせずにここにいるのは手持ち無沙汰だろう。そう思ってうかがうと、ミチは一瞬名残惜しそうにしたが、直ぐににこっと笑った。


「そうね! これ以上お仕事のお邪魔しちゃ悪いし。——一路さん! あたし、阿見村を見て回ってるわね」

「あいよー」

「左慈さん」

 ミチはその場を去ると思いきや、小声で左慈に囁いた。

「あとで、少しお話がしたいの」

「え……どうして」

「波間村に行く途中の峠道、ちょうど影海岩の見下ろせるところ。アタシ待ってるわ」

「ちょ……」

 左慈の問いには答えないまま、ミチは微笑みを投げかけるとその場を去ってしまった。

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