八、夜明けのきみ
「今夜は、ゆっくり眠っていたね」
「明日は漁がないんだ」
「そう」
「……あの、だから夜明けまで誰も来ない」
「みな、日が昇るまで眠っているのね。海に棲む者もそうよ」
「あ、うん……だからその」
少し前の時季より幾分肌寒く、寝起きの体は気怠さを引きずっていた。三日月が西の山間に沈み切った頃、目覚めた左慈を見下ろすウシオは、星空を背にして柔らかく微笑んでいた。思惑が伝わらなかったことを察し、左慈は言い淀んだ。
明日は和一や左介をはじめとする清潮祭の中心を担う者たちが、一月後に控えた祭の段取りやら準備やらに時間を割くこととなり、漁はしないこととなっていた。つまり、いつもであれば空が白み始める頃には一度家まで戻らなければならない左慈であったが、今日はその必要もなかった。
そこまでは、ウシオにも伝わっているようだが、左慈が本当に言いたいことはうまく伝わっていない。そうであっても、左慈の愚鈍な口からは、小粋な文句どころか真っ直ぐな誘いの言葉でさえ出てこない。
「夜明けでも、あんたは消えないのか」
「あなたがここにいるのなら、私もここにいよう。あなたは、朝の海が見たいの」
「俺はただ……宵闇以外のあんたを見てみたいと……」
ようやく出てきた本音に近い何か。間近で見下ろされていることが今更恥ずかしく、左慈はゆっくり起き上がった。
「何時であっても、私はウシオだよ」
「そうじゃなくて、俺はもっと……。その、もっと色々なあんたを知れればと」
左慈はウシオから背を向けて口を尖らせた。言葉にしなければ伝わらない煩わしさに、ほんの小さな不満が湧いた。しかしそんな葛藤も二人の間に無言が続き、すぐに気まずさと申し訳なさに押し流されていった。
「すまない、夜しか会えないのなら俺は別にそれでも——! ウシオ?」
困らせたかと思い慌てて振り返ったものの、彼女は日の出が近い暁闇の水平線を見つめていた。
「どうした——」
「こっちに来て」
ふいに手を引かれて、左慈はウシオに導かれるままに立ち上がって歩き出した。声をかけられた瞬間、彼女の視線や言葉への疑問が霧に紛れたように左慈の心から姿を晦ました。そして気がつけば、ウシオに手を引かれたまま左慈の体は胸まで海に浸かっている。
「なんだっ!?」
浜から見るより大きく見える影海岩。振り返って見える岸の遠さから、もう数歩も歩けば左慈の背でも顔を出せないほど深くなることを察した。
左慈の腕を掴んだまま少し前を歩むウシオの姿に、左慈は背筋が冷やりとする。
「待ってくれ、一度浜に——あっ」
急に深さが増して足を踏み外す。左慈は咄嗟に大きく息を吸って目を閉じた。一瞬胸が苦しくなったが、幸いなことに海とともに育った左慈は、水の中にいることにさほど抵抗はなく、むしろ反射的に体から緊張が抜けていった。しばらくは息も保つだろう。体が真っ直ぐに落ちていくのを感じながら、引き込んだ当のウシオの手首を強く掴み返すと、彼女の手先にも力がこもった。
「目を開けて」
ウシオの声は澄んで聞こえた。彼女の意図は分からなかったが、何故か抵抗する気は起きず、左慈はゆっくり目を開けた。
「………っ!」
左慈の視界は、水の中であることを忘れさせるかのようにはっきりとして、薄闇の中、辺りを浮遊する白い塵、海藻や岩場の黒い影、そして目の前の女の姿を捉えた。
左慈を見つめるウシオの姿が、さっと差し込んだ銀の光に照らされた。白魚の肌と浅瀬色の瞳が煌めく。日の出が始まったのだ。少しずつ温もりを帯びてゆく水の流れを纏い揺蕩う黒髪に、左慈は思わず手を伸ばした。ウシオの目が不思議そうにそれを追い、やがて真似をするように左慈の短い髪に触れた。
「ふ——、ぐっ」
つい笑みをもらしかけたところで、左慈は息をつまらせて急激に苦しさが増した。それを察したウシオが、もがき始めた左慈の手を引いて水面を目指して昇った。苦しさに目が眩む中でも、海の薄明かりの中揺れるウシオの赤い衣の動きは、左慈の目に美しく見えた。
「ぶはっ、は、はあっ、ウシ、オ」
ありったけの空気を吸い込み、喉に海水をつまらせた左慈は大きくむせかえった。
「大丈夫?」
「は…はあ、ちょっと」
返事をする余裕もなく、左慈はしばらく、息を整えることに必死になった。その間、ウシオはずっと左慈の両手を握っていた。呼吸が落ち着いたところで彼女の様子を確認すると、ウシオは顔にべったりはりついた髪の隙間から、水平線から広がる陽光と、淡く染まる東雲を見ていた。
「あんた、こんなことをして何を…」
「見せるために」
「へ?」
「あの光が、ここに棲まう者を照らして生かし、あなたたちの祈りを運ぶ。それが私の夜明け。これが夜明けの私の姿」
彼女の言葉は、やはり捉え所がない。それでも、日の光の下で見る彼女の姿は、夜の薄暗がりの中の姿よりずっと現実味を帯びていて、左慈は彼女の存在が近くなったように感じた。
「は、ははっ」
海に引きずり込まれてしまうのではと肝を冷やしていた、つい先ほどの自分を思い出して、左慈は思わず吹き出した。可笑しさが込み上げて、久方ぶりに声を出して笑った。
「左慈…」
「いや、そうだ。俺が見たいと言ったんだ」
目尻にシワを作りながら、左慈はウシオの顔にかかったままの濡れた髪を払ってやった。滑らかな額を見せたウシオが、きょとんとした顔で笑う左慈を見ている。
「笑ってすまない、自分が可笑しくて。……ありがとう、綺麗だな」
彼女の顔を真っ直ぐに見つめて礼を言う。日の出の瞬間の海をこんなに美しいと感じたことは初めてであった。ウシオは一瞬、目を丸くしたかと思えば、すぐにその鮮やかな目をうるませて微笑んだ。
そろそろ戻らねばと思い、ウシオを促して岸まで戻るさなか、ウシオがぼそりと呟いた。「あなたの気持ちが分かる」
「え?」
「私も、あなたのことが知りたいわ。どんなことでも」
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