満月

七、海から来た女

「左慈、このところ一時よりも調子が戻ってきたんじゃあないか」

 高潮で漁に出られなかった日の午後、一路の妻に頼まれてあじの天日干しを手伝っていた時であった。塩水につけられしなびた鯵を真水で洗いながら、一路がぼそりと尋ねてきた。


「夜中に出歩くのは、もう止めたのか?」

「いや、止めてない。浜でぼんやりしている方が眠れることもあるんだ」

「そうか? もうすぐ夏も終わるし寒いだろう」

「………実は、勝手に掘立小屋を借りてるんだ」

 左慈は中身の取り払われた鯵の開きを干し網の上に並べながら、一路にばれないようにゆっくりと唾を飲み込んだ。嘘をついたことにちくりと胸が痛むが、本当のことは言えない。


「和さんには言わないでもらえると——」

「言わねえ言わねえ」

「悪いな」

「まあ、わけを話しても親父は気にしないだろうがな。お前なら、勝手に使ったところで小屋や道具が荒らされる心配はないし」

 安堵と申し訳なさがない混ぜになり、左慈は疲れたため息をこぼした。

 



 左慈は満月のあの日から、天気の悪い日を除けば、ほとんど毎夜のようにウシオの元へ通っていた。

「あんたは」

「私はウシオ」

「いや、そうだが……そうじゃなくて」

 瞬きや呼吸の一つ一つさえ心を惹きつける幽艶な佇まいとは裏腹に、彼女の応えはどこか拙いものであった。

「あんた、つまり、影海様の化身ってことでいいのか」

「影海様…あなたたちがそう呼ぶ、あの岩のことね」

「あれは神聖なものだけど、影海様そのものでは……いや、似たようなものなのか」

「私は岩ではないよ」

「あの岩でなく、あんたこそが影海様ってことか」

「あなたたちがそう呼ぶのなら、私は影海様なのだろう」

「…………」


 少しでも彼女のことを知りたいと思い、ここ数日は踏み込んだ話を持ちかけてみるものの、なかなか話はうまくまとまらなかった。

 とはいえ、これ以上問答を続けるには、左慈はあまりにも寡黙でしゃべり慣れていなかった。少し喉が乾いてしまい、黙って胡座の上で組んだ指を見ていると、そこに真っ白で冷たい手が添えられた。

「私はあなたたちの祈り。この海に生きるものたちの安寧を保つもの」

海の神わだつみ、とか、そういうものか」

 するとウシオは首を振った。初めて、左慈にも理解できる簡潔な否定の仕草だ。


「海は私がここにいる意味。私の全て」

 が、すぐに理解の枠を越えた答えが加えられる。

「……つまり?」

「海があって私がいる、ということ」

 言葉は通じている様子なのに、帰ってくる返事はまるで朝靄のようにつかみどころがない。

「俺にはよくわからないな。聞いといて、すまないけれど……」

 徐々にまぶたが下がってゆくのに耐えていると、ウシオが左慈の髪をそっと撫でた。

「私の話はいずれまた。今は、あなたに安らぎを」


 風がそよぐほどのささやかな力であるのに、そんなウシオの手に逆らうことはできず、左慈はぐらりと頭を傾けた。正直なところ、童でもないのに頭を撫でられただけでほっとして、眠気のままに横たわってしまうことは、気恥ずかしさを通り越し、いっそ毎夜毎夜の記憶をなくしてしまいたいくらいであった。一方で、近頃は左慈の問題ではなく、触れる掌や見つめる浅瀬色の瞳に、抵抗する意思を奪うような不思議な魔性が宿っているのだろうと、そうであればその場で眠りに落ち彼女の膝の世話になることも仕方なかろうと、そう開き直り始めていた。

「ウシオが……」

「私が?」

「ウシオが、俺の前に現れたのは…なぜ……」


「あなたが探してくれたから」

 やはり掴み所のない返事をするウシオであったが、左慈はすでに意識を手放しその言葉を聞き逃していた。

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