六、顕現

 それからまた、数日が過ぎた。

 左慈はその日を指折り数えるように待っていた。新月の日から寝ずの晩はほとんどなかったが、それでも今夜は、緊張と高揚、少しの恐ろしさで、左慈は夜通し起きていられる気がしていた。

 村中が寝静まっている。左慈は急ぎたい気持ちを抑えて、音を殺して浜へと向かった。空は晴れ、月は満ちて真珠のごとく白く艶やかに光っていた。黒い海と淡く明るい夜空は、水平線でくっきりと分たれていて、水面は月光を反射し星が落ちてきたかのようにまばらに煌めいている。半月ぶりの夜の海に、左慈はほうっとため息をついた。


 月の明るい夜。それが満月のことをいうのであれば。

 左慈は乾いた唇を舐めてごくりと息を飲むと、波打ち際に近づいた。海の上を、一歩一歩ゆっくりとおかまで近づいてくる影がある。月灯りが水面に敷いた光の道を、まるで水たまりの中を進むように歩む姿は、最初に見かけた頃の不気味さを感じさせない。

 左慈は、知らず引き寄せられて打ち寄せる波に裸足を踏み入れた。薄闇に慣れた左慈の目には、その人影が女の姿に見えた。


 腰まであるおどろ髪は、以前見たよりいくぶんしっとりしていて、凪いだ波のようにうねっている。そして、その奥からちらちらと月光を反射する目は、やっぱり浅瀬と同じ青い光を宿していた。

 女は、爪先が触れ合いそうなほど左慈に近づき、こちらを見上げた。その目に射られ、左慈は指先を震わせながら、女の顔にかかった髪を払った。月に照らされた顔を見てようやく気がついたが、女の顔も、腕も、透けるように白かった。


「あ、あんた……」

「この姿に名はない。あなたは私を何と呼ぶ」

「俺……は、って。どういう」

 咄嗟のことに狼狽して、真っ直ぐな女の視線から顔を逸らした。すると、小波が一際大きくざわめくと、左慈の足に絡みつき打ち寄せた。まるで、答えるまで逃さないと言われている気がして、左慈は焦って波から離れると、体勢を崩した拍子に尻餅をついた。

「うおっ」

「うお?」

 すると、女は左慈のとなりにしゃがみこんで、視線を合わせるようにこちらの顔を覗き込んだ。


「この姿の名は、うお——」

「いや、今のはそんなんじゃ…」

 表情を変えずに首を傾げるその姿は、人の形をしたそれ以外の何かであるということを示しているようであった。このままでは、この不可思議で美しい存在の名前が左慈が咄嗟に発したしょうもない驚嘆と同じになってしまう。幾分落ち着いてきた頭の片隅でそんなことを考え、左慈はぱっと思いついた名を呼ぶ。

「う、ウシオ」

「うしお」

「そう呼ぶのは…どうだ」

 彼女はウシオ、ウシオ、と何度か音を口に馴染ませるように繰り返して、それから目尻を少し下げた。


「では、私はウシオになろう」

 その笑みに、左慈は胸の奥がぎゅうっと握り締められたように苦しくなった。呆けていると、左慈の頬に女のひんやりとした掌が這う。


「私は、あなたを何と呼ぶ」

「……俺は、左慈」

「左慈。私を見つけてくれた人」

「俺はただ……眠れなくて」

「月のないあの夜は、眠っていた」

「…いや、あの日も」


 言いかけたところで、左慈の頬に触れていた手が目の前を覆った。その瞬間、左慈はめまいに襲われて視界がぐらりと揺れた。掌に押されるまま、抵抗すらできずに上半身を横たえた。しかし左慈の頭に触れたのは、浜辺の小石ではない、柔らかい温もりだった。

「なん……」

 女の膝から頭を上げようにも、どっと疲れが押し寄せてきたかのうように、左慈は身体中の力が入らなかった。そのまま、抵抗することもできずにまぶたが重くなってくる。


「————ほら、こんな風に」

「………う、ん?」

「眠っていたよ」

 ぼうっと重たいまぶたを開けて、こちらを見下ろす女を見つめる左慈。しっとりとした冷たい手が左慈の額を撫でたところで、ようやく頭が冴えて目を見開く。

「わっ! あ、いやすまない。こ、こ、こんなつもりは」

 跳ねるようにして起き上がると、左慈は背を丸めて片手で口を覆った。顔だけでなく、身体中が火が出そうなほど熱い。


「本当に、いや、おかしいな」

「私は、おかしいことをしたの」

「あっ!? ちがう、むしろよく眠れて楽になった気が——じゃない、何言ってんだか、俺は……えっと」

 弁解に焦って、自分でも分からなかった本音がこぼれ出て、左慈はまた口を手で覆った。女の顔を直視できずに俯くと、視界の端で黒髪が揺れた。首を傾げているのだろう。左慈はいたたまれなくて勢いをつけて立ち上がり、彼女に背を向けた。おかしな男だと思われた。急に饒舌になったことを笑われる。胸の奥がじたばたと不愉快に跳ね、左慈はゆっくりとため息をついた。

「情けないとこを……。あ、あの俺、そろそろ戻——」

「眠れないと」

「へ?」

 肩越しに背後を確認すると、女は表情一つ変えずに左慈を見ていた。その目には、怪しむ様子も揶揄する様子も映っていない。


「眠れないと、辛いのか」

「まあ……」

「あなたは、眠れないのか」

「ああ、まあ……ほとんど毎晩」

「眠れるようになったら、あなたは楽になる」

「そりゃあ、そうだな……」

「私の膝の上は、よく眠れたのね」

「………………まあ」

 ずいぶんと拙い会話だと、左慈は戸惑いと恥ずかしさの中、自分のことを棚に上げてそう思った。


「眠れないなら、また会いにきて」

 また目尻を下げて微笑する女。

 会いにきたつもりはなかった。膝は貸してもらわなくてもいい。

「会えるのは、満月の夜だけか」

 その浅瀬色をした瞳に囚われて、左慈はただそれだけ尋ねた。


 女は——ウシオは、少し低くなった月を仰ぎ、それから海原に佇む影海岩を見遣った。

「あなたが見つけてくれるのなら、私はここにいるよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る