五、波間村へ
新月の夜の妙な体験から、数日過ぎた。
その日は、波が荒れて海に出られなかったこともあり、左慈たち村の漁夫は、清潮祭に向けた準備を進めることとした。左慈は一路含めた4人の男たちと、隣村であり、昨年祭事の中心をになっていた
あの夜から、左慈はふいに目が覚めることはあっても、一晩中眠れなくなることはなくなった。それだけのことで、凡庸な毎日の何かが大きく変わるわけではなかったが、それでもいつか漁の最中に気を失ってしまうのではないかとか、眠りこけて恥をかくのではないかとか、そう案じることが少なくなり、幾分気が楽になりつつあった。
「——左慈、お前聞いてないな?」
「えっ、あ…悪い。なんだったか」
阿見村の村長から借りた、祭具を運ぶための荷車を押してひとりぼんやりと考え込んでいると、一路から背を軽く叩かれて、左慈は我に返った。隣の一路だけでなく、前を行く3人——一路の父親の和一と、左介や左慈と同世代の二人の若者——もまた、きょとんとした顔で左慈を見ていた。いたたまれなくなって、左慈はせかせかと歩を進める自分の足元を見た。
「祭の道具を取りにいく前に、波間村の村長んとこに挨拶しにいくんだ」
「そうか」
「そうだよ。んでな、俺がかみさんに会ったのはな、前に清潮祭の引継ぎに出向いた時だったんだよ」
「そうだったのか」
「そうだったのさ」
「………初めて聞いたな」
一路がどんな返しを求めているのか分からず、左慈は困惑した。前を歩く3人のうちのだれかが、ふ、と笑うように息を漏らした気がして、居心地が悪い。何か言わねばと思うほど、喉が詰まって言葉が出ないでいると、さっきよりもいっそう強く背を叩いてきた。衝撃と驚きで顔を上げると、一路はからっとした笑みを浮かべていた。左慈は無意識にこわばっていた肩の力を抜いた。
「まあ、行けばお前もひょっとするんじゃねえか」
「なにが…」
「お前だって、左介と同じで背格好は親父さん譲りなんだから。もっとしゃきっと背を伸ばして、堂々としてたらいいんだよ」
取り留めのないやりとりをしているうちに、和一がそろそろ波間村に着く頃だと言った。
波間村は、海岸沿いの小さな峠を一つ越えた先にある村で、昔から影海岩信仰が根付いていることや、同じ網元が漁を仕切っていることもあり、阿見村とも縁が深い。一路の家族のように、家同士が結びつくことも珍しくない。しかし、付き合いの悪い左慈は、波間村にはたまたま言葉を交わしたことのある者がわずかにいるだけで、敢えて訪れる場所でもなく、村の様相もおぼろげであった。
和一に連れられるまま、左慈たちは村長の家を訪れた。ウコギの生垣で囲われた邸宅の奥に見える蔵から、波間村の若い衆がちょうど大縄や装飾の施された大船を縁側の前の庭に運び出しているところであった。
「和一あにぃ、久しぶり」
「よう、元気してたか」
「一路、美代は最近どうだい」
彼らはこちらに気づくと、わらわらと寄ってきてあっという間にその場が賑やかになった。和彦や一路だけでなく、一緒に来た他二人もまた、波間村の者たちと面識があるようで、左慈はそっと一路の後ろとも隣とも言えない位置に立って、挨拶の様子を見守り、時折投げかけられる言葉に頬を引きつらせながら相槌を打つなどした。
しばらくすると、蔵の方から左慈も顔くらいは知っている波間村の村長が出てきた。左慈たちが軽く会釈をすると、村長は四角い顔にくしゃっと皺を刻んで破顔した。
「和一! 今ちょうど荷物を蔵から出したとこなんだ」
「待ってくれりゃあ、俺たちも手伝ったんですがね」
「いやあ、これくらいさせてくれ。実を言うと、大船の紋様が剥げちまっててね。こっちで直してる最中だから、船はまた別の日に取りに来てくれねえかい」
「へえ、わかりやした」
「いや、悪いな」
「気にしねえでください」
「昼飯まだだろう。少しでよければ、食ってくか」
「いいんですかい」
「縁側に座っときな。用意させる。お前たちは、戻ってもいいぞ。あとは俺が説明しとくから」
波間村の村長は、若い衆に帰るよう指図すると、せかせかと家の中に戻っていった。左慈たちはそれを見届けると、静かになった縁側に並んで腰を下ろした。
「こんにちは、阿見村のみなさん」
廊下の奥から、花が風にそよぐような、控えめな娘の声と共に足音がした。振り返ると、片手に握り飯の入ったたらい、もう片手に急須と人数分の湯飲みを載せた盆を持った娘が、危なっかしくやってきた。
「お茶とおむすび、ありますから…おっとと」
手元がおぼつかずに湯飲みが盆の上を滑りかけたところで、いちばん手前に座っていた左慈は、見ていられずに立ち上がって盆を受け取った。
「俺たち、自分でやるから。ありがとう、あー」
「ごめんなさい、お任せしちゃうわ。あたし、実千っていうの。——旦那さん、ずいぶん大きいのね」
「あ、うん。父も兄も…」
家の中に上がっていて幾分目線が高くなっている娘——ミチは、それでも、縁側から降りている左慈を少し見上げていた。左慈にとっては、気にするまでもない日常の光景であったが、ミチからしてみれば、ずいぶん珍しかった様子で、きらきらしたつり目を丸くして、左慈をじっと見上げていた。
「おミッちゃん! 久しぶりだなあ」
ミチの遠慮のない視線に困惑しながら盆を受け取ると、座っていた一路が声をはずませた。
「あっ、一路兄さんじゃない。美代姉は元気にしてるかしら」
「相変わらずさ」
ミチは、先ほどまで左慈が座っていたところ、一路の隣に腰掛けると、たらいに入った人数分の握り飯を配って、それから立ち尽くしている左慈にも「お座りくださいな」とミチの隣をぽんと叩いた。左慈はほんの一瞬ためらったのち、どうするわけにもいかず、少し距離を開けて座って一路とミチの会話を耳に茶の用意をした。すると、遅れてやってきた村長が冗談めかして「客人に茶ぁを用意させるたあ、とんだ娘だ」と声をかけた。
「左慈、だったか。ミチは俺の姪なんだ。このとおりちゃっかりしたとこのある娘だが、気を悪くせず仲良くしてやってくれ」
「あの、俺は別に」
左慈が何かを答える前に、村長は一番奥に座っている和一の隣へ行ってしまった。
「ミチはさ、おれのかみさんと仲がいいのさ」
麦茶を啜りながら、一路はミチとの縁をそう説明した。
「美代姉には、妹みたいに可愛がってもらってたの。あたし美代姉が村を出るとき、小さい子でもないのにわんわん泣いちゃって」
「半日かからず、来れる距離じゃねえか」
「今思えばね。その時は、今生の別れって気持ちだったんだもの」
ぽんぽんと弾む会話を耳に、左慈は庭にまとめられた祭具の一つ一つを観察して、この交流の機会が過ぎ去るのを待っていた。話題の転がる速さについていけない左慈は、こういった時間が苦手であった。
「今度、うちのに会いに来なよ、な」
「本当に!?」
「もちろんだよ。なあ、左慈」
「えっ!? ああ、うん。いいんじゃないか」
なぜこちらに相槌を求めてきたのか分からず、左慈は狼狽えながら適当にうなずいた。すると、ミチが勢いよくこっちをむいて、嬉しそうに目を輝かせた。しかし、すぐに左慈から顔を逸らすと、口を尖らせて目を伏せた。
「でも…アタシ阿見村には、美代姉と一路さん以外に頼りがなくて心細いわ」
ちらりと上目遣いの、こちらの出方を伺うような視線に、左慈は急に緊張で掌に嫌な汗がにじむ。若い娘が納得するような、気の利く返事なんて知らない。
「大丈夫だって、な、左慈」
左慈が困っているのを知ってか知らずか、一路が軽い調子でそう言った。左慈は彼の言葉に何度も頷き、それからようやくミチに声をかける。
「俺に弟がいるから、仲良くしてやってくれ」
「ふうん…」
「慈郎は俺なんかよりずっと気安い奴だし、歳も近そうだし、だから君と気が合いそうだと……」
言葉数の減ったミチの返しに、左慈は失敗したと直感した。途端、言い訳のように、ぱっとしない言葉が口をついて出てきてしまった。
「……ううん、そうね! 近いうちに、遊びに行くわね、一路さん」
「おう。いつでも待ってるよ」
「その時はみなさん、仲良くしてください。左慈さんも、ね」
ミチは皆の顔を見回して、最後に左慈に向かって微笑みを向けると、片付けをして土間に引き揚げて行った。左慈は、先ほどのやりとりに気を悪くしていないだろうかと悶々としつつ、彼女が去ったことで強張っていた肩の力が抜けた。
その後は、左慈たち阿見村の男たちは、波間村の村長から祭で使う大縄や他の祭具の修繕の状態なんかの説明を受け、これらを荷車に積んで波間村を後にすることとなった。
帰り際、ちらりと村長の家を振り返ると、戸口から村長とミチが見送っているのが見えた。ミチがこちらに会釈をし、左慈が思わず頭を下げ返すと、一路がにやりと口元を釣り上げながら、揶揄するように荷車の押し手で左慈の腕を軽く小突いてきた。
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