四、邂逅

 昨日、あんなに得体の知れない恐ろしさに背筋を凍らせたというのに、今宵もまた、左慈は浜へと向かった。眠れないから、というよりは——むしろ、今日に限ってはあまりに疲れが溜まって少し眠れそうな気さえしていた——、昨日見た光景が忘れられず、半ば好奇心をくすぐられるままに、ふらふらと海へと足を運んでしまっていたのだ。少しだけ、影海岩の様子を見てみて、それからすぐに帰ろう。そうすれば寝る時間も取れる。明日は人並みの働きができるようになる。左慈は誰にともなく心の中でそう言い訳した。

 月はなく、星々が周囲の山影を浮かび上がらせる不気味なしじまを通り過ぎると、波すら見えない黒い海原の、ひそひそとさざめく音が聞こえてくる。


 月のない夜の海は、いつもにまして闇深い。影海岩の輪郭はさらに漆黒に紛れて曖昧で、左慈が見たあの奇妙な人影がそこに在るかどうかも判らなかった。あの孤独な影は、やはり左慈の見間違いだったのだろうか。

 左慈は落胆と安堵の入り混じったため息をついて、目を伏せる。今日はもう、引き返して眠ろうと、そうすべきであることは分かりきっているのに、左慈の足は駄々をこねる子供のようにその場から動かなかった。帰っても、また眠れなかったらどうするのか。家族の穏やかな寝息を耳に、自分だけが取り残されたような感覚を思い出し、胸の奥がぎゅっと詰まった。その途端、船の上にいるかのように足元がふにゃりと歪む。左慈は咄嗟に迫る地面に手を伸ばしながら目を瞑った。


「————は、」

 目を開けると、伸ばした手は虚空に触れ、左慈は仰向けになって星を見ていた。体に重くのしかかる気怠さに顔をしかめる。


 いつの間に眠っていたのか、どこから夢であったのか。月が出ていないため、自分がどれくらいそうしていたのかはっきりとしないが、夜の闇がいまだ濃いことから、さほど時間は経っていないと思われた。左慈は大きく呼吸をしたのち、鈍く痛む眉間を抑えて目を閉じた。眠気のあまり気を失ってしまっていたのだろう。そう思うことにして、左慈は家に戻ろうと身を起こした。

「うおっ…」

 驚きのあまり、小さく奇妙な驚嘆を吐いた。


 二、三歩離れたところ、汀の方から何かがこちらに近寄ってきていた。左慈は、昨日見たあの人影だと直感した。頼りない星明かりに、うっすらとその様相が浮かんでいる様は、人どころかこの世のものとすら思えないほど、儚げに見えた。左慈はその場に座り込んだまま、影がこちらに近づく様子に釘付けになって動くことができなかった。黒い影は、やがて左慈の目の前にまでやってきた。

 それは、海藻みたいにごわごわした長い髪を持っていた。それは、岩肌のようにしわくちゃでざらついた布を体に巻いているようであった。それは、細い脚を折り曲げて、左慈の目の前に蹲み込んだ。


「………お、お前は…誰だ」

 鼓動が跳ねて苦しい中、それだけ問うた。


 何もかもが新月の夜の闇に溶けて曖昧な中、それは、異様なまでに鮮烈で青い瞳を覗かせた。

 晴れた日の浅瀬のようなその煌めきが、真っ黒な影の中から左慈を捉えて言った。

「あなたが教えて。月の明るい頃に」


「—————は、」

 瞬きをする間に、左慈はまたいつのまにか仰向けになっていた。目の前に映るのは、見慣れた天井の梁。左慈は自分の寝床の中で眠っていたようだ。半身を起こして、寝起きで鈍く痛む額を抑えた。あれは、夢だったのだろうか。


「おう左慈、今起きたのか」

「……左介」

 隣の部屋から、支度を整えた左介が出てきた。

「急がねえと、みんな海に出ちまうぞ」

「そう、だな。…悪い、急ぐから先に出ててくれ」

「また一段とひでえ隈ができてんな。気分が悪いなら今日は休んだらどうだ」

 左介が、薄暗い中左慈の顔を心配そうに覗き込んできたので、左慈は顔を逸らして床から出た。

「いや、そんな大袈裟なものじゃあない。船出には間に合うようにするよ」

「そうか、無理はするなよ」


 左介が一言告げて出ていくと、左慈は眠気の引かない目を少しの間だけ閉じた。

 ——月の明るい頃に。

 透き通った声音が、耳の奥でこだました。

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