三、影蠢く

 夜中に目が覚めるようになったのは、妹の未緒が嫁いで間も無く、父がこの世を去った頃。いくら目を閉じてじっとしていても、落ち着かなくて眠れなくなったのは、年の瀬の近い頃——花乃が左介の嫁に来て間も無くであった。


 今日はあまりにも疲れているから、眠れると思っていた。しかし、夕飯でまづから投げかけられた一言や、左介のこちらを擁護しながらも諭すような言葉、慈郎の揶揄する視線、花乃の憐みにも似た優しい笑みが、左慈の頭の中を蝿のように鬱陶しくちらついて、意識が落ちる気配がなかった。

「……左慈、お前また」

「少し歩けば、眠くなるから」


 隣で寝ていたまづが心配そうに起きてきたが、左慈は何か言い返される前に裸足のまま外に出て戸を閉めた。はやるような面持ちで浜辺に降りると、波が左慈を出迎える。耳に慣れたそれは、左慈の足音、虫の声すらかき消して、昼間の喧騒や頭の中の蝿を追い払ってくれるのであった。

 左慈はまた、松の下に腰をおろす。そして大きく深呼吸をして、夜風に目を細め、それとなく黒い海原を眺めた。沿岸の影海岩は、夜空の切り込みのように浮かび上がる細い月の下で黒々と鎮座している。相変わらず、真ん中にぽっかりと空いた穴からは、星屑で淡く光る空と黒い海の境目が見えて、昼間に見るのとはまた違った様相を見せる。


「あれ……」

 始めは、寝ぼけてきたのかと思った。しかし、目を凝らしてみると、やはり間違いなく「それ」はいた。

 この村で生まれ育った左慈は、影海岩の穴の様相ははっきりと思い出せるほどよく知っている。その穴の輪郭が、見たこともない形に歪んでいたのだ。というよりは、穴の中に何かが佇んでいる影が見えるのだ。

 左慈は眉を顰めた。よくよく見ると、時折みじろぎをするように動く。正体を推し量ろうとじっとそれを見つめていたところ、影の形がわずかに変わった。まるで、振り向いたかのよなその動きに、左慈は息を飲んでぎょっとした。


 こちらを見られた、と、直感した。


 左慈は跳ねるように立ち上がると、脇目も降らずに小石だらけの海岸を裸足で駆けて、村に戻った。




「昨晩は、月もそんなに明るくなかったろう。岩陰を見間違えたんじゃないか? それか、鳥でも留まっていたとか」

 昨晩の出来事を、漁からの帰ってきてすぐ一路に打ち明けると、彼は左慈の話をそう言ってあしらった。その視線の先には、水平線を歪に切り取る影海岩がある。


「今更、あの岩の形を見間違えるはずない。あれはあの穴の淵に座った人影だ」

「おっかねえなあ。影海様の祟りだったらどうすんだよ」

「どうするって…祟られる覚えなんてないのに。そもそも、影海様の祟りなんて聞いたことないぞ。お前、何か知ってんのか」

「几帳面に考えすぎるなって。冗談だよ……そんなことより、夜中の徘徊をやめたらどうだ。そしたら変なもの見なくて済むし、お前は寝れるし、話が早いだろう」

「散歩と言ってくれよ」

 痛いところを疲れて、左慈は口籠もりながらあぐらの上で指を組んだり解いたりした。視界の外で、一路が呆れているのを感じる。


「でもよう、その人影だって、とうとう寝不足で幻が見え始めてるんじゃあないか?」

 揶揄う調子でそう言われ、左慈は無意識に唇をひき結んで一路を見た。しかし、彼は言葉に似合わず、眉尻を下げて労わるような眼差しをしていた。左慈はまた、一路から目を逸らした。

「なあ、左慈」

 一路の声は、左慈が気負いすぎないようにと言う軽さを含みながら、本当に心配しているような優しさも持ち合わせている。その誠実さが、左慈の肩を重くする。

「お前本当に、最近化けて出たのかってくらい、顔色が悪いぞ。昨日の話じゃあないが、そろそろ本当に落っこちて死ぬんじゃないかと、俺は冷や冷やしてるんだ」


「————いいんだよ。俺はお前みたいに、妻子がいるわけでもないし。落っこちて路頭に迷う家族もいないから、いいんだ」

「おいおい、やさぐれるなよ」

 悔しくて、今の左慈には笑みを返してみせるくらいしかできない。

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