二、ある漁夫の日常

 日が暮れる前に、漁夫たちは帰路につき、明日の仕事に備えて体を休める。左慈は一路と分かれて家に戻ると、母のまづと兄嫁の花乃が夕飯の支度をしていた。決して広いとは言えない台所で、彼女たちは入れ替わり立ち替わり、時折言葉を交わしながらせっせと作業をしており、開けっ放しの玄関から左慈が帰宅したことに少しの間気がつかなかった。


「あ、左慈兄のが早く帰ってきてる」

 夕飯の支度が整うまで、その辺を出歩いていようかと踵を返しかけたところで、背後から弟の慈郎がそう言いながら現れた。そこでまづと花乃も左慈の帰宅に気づいた。

「あら、二人ともおかえり。疲れてんだろ、夕飯まで休んでな」

「うん。左慈兄、早く入ってよ。俺家に入れないじゃん」

「あ、ああ、いや、俺は外に…。悪いな、どくよ」

 左慈がもたつきながら体をよけると、慈郎は去り際に礼を口にしながらさっさと居間にあがっていった。


「左介さんは、まだ帰っていないのよ。何か聞いていないかしら」

 背後から花乃に声をかけられ、左慈は、はたと思い巡らす。確か兄は——

「さす——」

「左介兄、今日は漁の後に和さんたちと網元に呼ばれてったよ」

 和さん、というのは一路の父親である。左慈たちの父と同世代で、和さんと父親は現在の網元とも親しい間柄であるらしい。と、左慈は父や和さんの会話の断片からそう認識している。


「そうだったのね」

「ありゃ、あの子は何かしでかしたのかい」

「ほら、前も言ったじゃない。左介兄、すごく父ちゃんに似てきたし、最近は父ちゃんの代わりみたいに気に入られてんだ」

和一かずひとにかい?」

「網元にも、らしいよ」

「夕飯できてしまうけど、遅くなるのかしらん」

「あの子のことだ、あんまり遅くなるなら、行く前に声をかけていくはずだよ。だからすぐ戻るさね」


 外に出る機会を逸してしまった左慈は、会話を耳に敷居を跨いだままどこを見るでもなく立ち止まっていたが、やがて誰にも気づかれないように嘆息して囲炉裏の前に腰を下ろし、吊るされた鍋の綴じ蓋の隙間から、蒸気が漏れ出ているのをぼんやりと見た。

 しばらく家族の会話にひたすら耳を傾けたり、時折左慈に投げられる問いに、ああとか、そうだったよとか、何も答えていないのとさほど変わらない相槌を打って時間を埋めていると、外からわいわいと男たちが談笑する声が聞こえてきた。この大雑把で底抜けに明るい海の男たちの声を聞くと、左慈は何故だか肩に力が入ってしまう。

 家の前で別れの挨拶がいくらか交わされ、それから開けっ放しの戸口から左介が入ってきた。

「ただいま」

「おかえり左介」

「ご飯、もうすぐできますよ」

「おう、そりゃ丁度いい」

 まづと花乃が手を止め話しかけると、左介は二人に少し笑いかけ、それからさっさと部屋に上がってしまった。左慈は左介が座りやすいよう、座っていた場所から何も言わずに腰をずらす。


 女二人が、いそいそと飯の支度を終え、いつものように囲炉裏を囲いながらあら汁をすすっていると、慈郎が口に飯を詰めたまま「左介兄」と呼んだ。

「土産もらってないの?」

「あほか、遊んで来たわけじゃねえんだぞ。次の清潮祭の大縄担ぎは、阿見村の持ち回りだろう。俺がをすることになったんで、その引き継ぎやら準備やらについて話を聞いてきたんだ」


「じゃあ、前の持ち回りからもう3年経ったのか」

 左慈がぽつりと問いかけると、左介は穏やかにうなずいた。

 影海岩、もといこの近海の神とされる影海様にまつわる祭り「清潮祭」は、阿見村を含む、近接する4つの集落がひとつになって執り行われる催事である。毎年使われる大縄は集落が持ち回りで引き継がれており、今年は阿見村にその順番が回ってきているというのだ。まあ、左慈にはあまり関係がないことであった。


「一丁前なことを言うようになったねえ。和一かずひとに迷惑かけてんじゃないかい」

「おかあ、いつまでもガキみたいに扱うなよ。これでも和さんにも網元にも頼られてるんだって」

「未緒姉、今年は清潮祭来るかな」

「そうねえ、帰ってきて欲しいけれど、向こうの家の都合もあるしねえ」

「左介さん、左慈さん、おかわりは?」

「ああ、頼む」

「あ、俺も…」

「左慈、あんたもそろそろ考えなきゃね」


「………」

 まづの一言に左慈は無言を返して、碗に口をつけた。

「この村の娘じゃなくてもさ、一路からでも紹介してもらえないかねえ」

「やめてくれよ、余計なことは」

「左慈兄、若い女嫌いだもんな」

「苦手なだけだ」

 咄嗟に慈郎に返して、左慈ははっとして花乃の方をうかがい「ごめん」と小さく謝った。花乃はくすりと笑って「大丈夫よ」となんでもないことのように言うので、左慈はほっとする反面、もう少し気にしてくれてもいいのにと複雑な気持ちになる。


「左慈だって分かってるんだから、いちいち言ってやるな。なあ、左慈」

 左介が呆れたようにまづをたしなめつつ、その目を左慈に向けてきた。左慈は一言、「ああ」とため息とも相槌ともつかない声を溢した。左介はそれを首肯と受け取った様子で話し続けた。

「独り立ちもそうだが、俺は最近のお前がちょっと心配だぞ。もう随分長い間、碌にぐっすり眠れていないんじゃないのか」

「ずっと起きてるわけじゃあないんだ。あんまり疲れた日は眠れることもある」

 正しくは、あまりにも眠れなさすぎて、体が限界に達し、ぶつっと意識が切れるように眠る日がある、という程度であった。大ごとにされたくなくて、左慈はそのことは黙っておくこととした。隣の左介がじっと左慈を見つめていたが、やがて諦めたようにまた食事に戻った。

「仕事ができなくなりゃあ、嫁だ家だと悩むこともできなくなるからな。気をつけとけよ」

「ああ、分かってるよ」


 悩まなくて済むならと、そう思ったことも、左慈は黙っておくこととした。

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