海罪の木
ニル
新月
一、寝ずの夜
夏の夜は過ごしやすい。
真夜九つを過ぎる頃、
夜露に湿った浜に降りると、左慈は長い年月をかけて角を奪われた小石たちの上を歩いた。凪いだ黒い海原は月光をわずかに反射し、打ち寄せる波はこちらの歩みでカラコロと鳴る小石の音をかき消した。沿岸に、真中にぽっかりと穴の空いた黒い岩、阿見村をはじめとした、この近辺の小さな漁村から御神体として祀られている「
左慈は、左慈含む阿見村の漁夫たちを乗せる小船の立ち並ぶ様子を横目で見やり、無意識にその場を離れるように散歩を続ける。そして、掘立小屋——ずいぶん昔に、幼なじみの
ほんの少しだけ瞼が重たくなってきたが、まだまだ眠ることはできなさそうだ。明日もまた、疲労感と半端な眠気を引きずりながら海に出ることになると予感して、左慈は長く重たいため息をついた。せめて形だけでもと、目を閉じ体の力を抜く。どうせ、そのうち転た寝くらいはできるだろう。そうして、いつも月が低くなる頃に家に戻るのだ。それが近頃の左慈には珍しくないことであった。
こんな日々がいつまで続くのだろうと、先の暗い疑問がよぎるのもまた、珍しくない。
日も登らない頃に、左慈は半刻ほど前まで居た浜辺に再び足を運んだ。ぐっすり休んだ村の漁夫たちとともに船を出し、波の音に引けを取らず声を張る船頭の指示を耳に動く。そして一仕事終えてまた浜に戻っても、左慈の頭は霞がかったように冴えない。
寝不足のまなこには眩しすぎる真昼の日差しにくらくらしながら、左慈は漁網の手入れをするまえに軽く昼食を取っていた。
「よう、今日はまた、一段とくもった顔をしているな」
日差しを背にして、握り飯を片手に声をかけてきたのは一路であった。三つ上の幼なじみは、松の木のように浅黒い肌の隙間から白い歯をきらりと見せて笑うと、左慈の隣に座った。
「昨日もまた、眠れなかったんだ。海に出ていた時の記憶が曖昧だ」
「まだ寝不足が続いているのか。この前、あんまり眠そうに覇気がないんで、お前んとこの船頭にどやされていたが、今日は大丈夫なのか」
一路が笑顔を引っ込めて言った。根っから朗らかであけすけだが、口下手な左慈を揶揄することなく接してくれるこの男は、阿見村の中でさえ人付き合いが苦手な左慈にとって、肩の力を抜いて話せるほとんど唯一と言って良い相手だ。
「たぶん、大丈夫だ。……影海岩のそばを横切る時、危うく居眠りしてしまうところだったけど」
「……親友がぼけっとして海に落ちるなんて間抜け、俺は見たくないぞ」
「俺だって、そんな間抜けはしたくないよ」
「次の
「豊漁祈願の祭りだろう。俺の寝不足なんて、影海様にゃどうだっていいに決まっている」
「こういうのは、心の持ちようなんだよ、左慈」
「そうか?」
「例えば、お前が寝不足で海に落ちておっ死んで、近海が穢れるとする。それはきっと、影海様も望んじゃいない」
ほら、祈願の甲斐も出てきただろう。と、一路の眼差しが左慈に訴えている。左慈は手に持った握り飯をちびちび咀嚼しながら、「そうかもな」と気の無い返事をした。すると一路は嘆息してから握り飯を頬張ると、左慈の背をぱしっと叩いて「先に行くぞ」と言葉を残し、道具の修繕をしている衆に混じっていった。
左慈は、沿岸の影海岩をぼんやり眺めながら、まだ半分も残っている握り飯を口に運ぶ。眠れなかった翌日は、腹が減っていても食事が喉を通らないことが苦しい。一路の言っていたことを間に受けているわけではないが、今度の祭りでは、寝不足をなんとかしてもらうよりは、いっそ海に落ちたら魚にでも生まれ変わりたいと願ってしまおうか。
そんな詮無いことが脳裏をよぎったことに気づき、左慈は口元に自分自身への呆れと虚しさを刻んだ。
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