第6話
◇◆ ◇◆ 一七年前・十一月二十五日(金曜日) ◇◆ ◇◆
翌朝、お兄さんの頬が腫れていた。
昨日殴られた事が原因である事は間違いないと思う。
しみるかなと思って今朝のご飯は薄めの味付けのたまご粥。それしか思いつかなかった。
昨日の事は二人とも口にしない。お兄さんの腫れた頬と鍵を投げつけられた時についた壁の傷。それだけが昨日の事が実際にあった事だと物語っていた。
あの人の荷物は引っ張り出されていたものもあったけど晩のうちに片付けた。
「今日は昼過ぎには帰ってくるから。それと、今日中には荷物送り返せるように手配してるからな。あと、これからの事も話し合おうか。考えておいてくれ」
「えっ…… はい……」
「じゃあ、俺、仕事に行くから。いってきます」
「はい、いって、らっしゃい」
◇◆ ◇◆ リエラ(お留守番) ◇◆ ◇◆
これからの事、考えないようにしてきた。
逃げていた。
ここで過ごしたこの数日は本当に幸せだった。お兄さんから与えられた無償の善意。今まで私にそう言った感情を向けてくれた人はいなかった。
最初に私を捨てたのは母。私を産んですぐに父と別れていなくなったと聞いている。その頃私を育ててくれたのは父方の祖母。母に捨てられた私は疎まれていた。それでも最低限の育児は受けた。大きくなるにつれて父は「一六までは育ててやる。そのあとは俺のために生きろと」訳のわからない事をずっと言っていた。それで先日、親戚という人のもとへ「融資を受けるために嫁げ」と言われた。それが嫌で家から逃げ出した。そういえば私、あの人の仕事も知らないな。
それに、うちの家は父が家事をしないから調理道具すら無かった。食事といえばコンビニのパンかおにぎり。たまにお弁当。そんな生活が続いていた。
だからかな、お兄さんに料理を褒められて、美味しいと言ってもらえることが段々と嬉しくなってきた。
「帰りたくない、ずっと、お兄さんと一緒にいたい……」
私はお兄さんに依存しているのかな……
お兄さんに改めて言われた事でこれからの事を考えているのだけど「お兄さんと一緒にいたい」どうしても考えはそこに行き着いてしまった。
◇◆ ◇◆ ◇◆ ◇◆
「ただいま」
「お帰りなさい」
考えが纏まらないうちにお兄さんが帰ってきた。
私はどう答えればいいんだろうか。わからない、どうすればいい、そんな思いがずっと頭の中をぐるぐると巡っている。
「お兄さん、ごめん…… 私、これからの事、なにも思いつかない……」
考える時間はあったのに考えてこなかった。期限を突きつけられて考えたけどやっぱり答えなんて出ない。
「ごめん、俺も急かしすぎたかな」
「ううん、そうじゃない。そうじゃないの、いくら考えても一つの事にしか、いきつかなかったの……」
「それがなにか、聞いてもいい?」
「……ごめんなさい。どれだけ考えても、私、お兄さんと、一緒に、いたい、です。お兄さんと、一緒にいると嬉しいんです」
「嬉しい、か……」
「はい、お兄さんが、初めてなんです。見返りを求めず、私を認めてくれたの」
「見返りか…… 俺もリエラに貰ってる気がするんだが。ほら、ご飯作ってもらったりとか……」
「それは…… お兄さんが、美味しいって、言ってくれることが、嬉しくて…… 私が、したい事なんです……」
「そうか……」
「はい」
「もう少し、考えてみて。(俺も考えるから……)」
お兄さんはそう言い残して奥の部屋へ入って行った。後ろの方の言葉は聞き取れなかったけど。
◇◆ ◇◆ 自問 ◇◆ ◇◆
リエラは答えを出したんだろう。多分、あれ以上の答えは出てこないんだろう。俺が施設に入れとか親戚を頼れと言って突き放す事は簡単で正しい事なのだろう。たとえそれでリエラが不幸に不幸になったとしても世間的には正しいのはそっちだ。
この数日で分かった事、リエラがあんな風に俺に身体を差し出してきたのはここにいるための代償として差し出せるものがそれしかないと考えていたからだ。
料理に打ち込むようになってからは揶揄ってくる事はあっても迫ってくる事は無くなった。それはリエラの中で俺に料理を作る事が代償と思えるようになったのか、それとも、自分がやりたいと思える事を見つけたからか……
今朝、リエラにああ言ったのは俺自身が彼女に対して抱く気持ちの変化に戸惑いを覚えたからだ。
リエラとのこの生活が心地よく感じられるようになっている。
元カノとの生活でこんな風に穏やかに過ごせた事はない。アイツとの生活は最初はドキドキと戸惑い。一年経たないうちにその感覚は慣れに変わっていって、それが当たり前に変わった。浮気に気がついたら煩わしさに変わっていた。
だからこそ軽々にリエラを受け入れる事はできない。そう思っていたのに。今は……
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