第81話 500年を生きた安寧上人の最期
その翌日から寧安は目に見えて老いた。
「今日からわしは銀狼さまへの祈りは休止する。代わりのものを行かせることにする。どうやら西華国の治世は半氏から趙氏に移ったようだ。わしの後継者など、もうどうでもよいことだ。銀狼さまに祈る意味もない」
そう言って、五百年の間かかすことのなかった朝夕の祈りをいとも簡単に彼はやめた。
そのまえより足もとがおぼつかなくなっていたので、寧安のために早慶は喜んだ。しかし食事中にうとうとしては箸を落とすとなれば、その体の変調についに来るべきものが来たのだ。
三か月ほどして寝込むようになり、ついに寧安は寝台から起き上がれなくなった。皇帝も銀狼教最高地位の彼の容態を心配して、侍医をよこした。だが、侍医は首を振って静かに言うだけだ。
「寧安お上人さまは体も心も老いられたのです。こう言ってはさしつかえがあるかも知れませんが、そのお齢に不足はないはず。静かに見守ってさしあげるしかありません」
ついに早慶の呼びかけにも答えなくなって眠り続けること三日目。
誰の目にもこのまま逝くと思われた。
しかし三日目にして、突然、寧安がその目を開けた。
昼夜の区別なくつきそっていた早慶が、枯れ枝のような寧安の体にすがりつきその染みだらけの手をさすって言う。
「お上人さま、お目覚めになられましたか?」
「ああ、早慶か。わしはよく眠っていたようだな」
「ええ、三日間も……。よくぞ、この世に戻って来てくださいました」
そう答えながらも、これが最後の会話になるかもしれないと思う早慶はぽろぽろと涙をこぼす。
「早慶、なぜに泣く?
眠っていた間、わしはよい夢を見ていたというのに」
「これは嬉し涙にございます」
僧衣の袂で涙をぬぐった早慶が言葉を続けた。
「よい夢とはどのような夢でございましたか?
お上人さま、ぜひに、このわたくしめにお聞かせください」
話すことを止めてしまうと、寧安の命がするりとその体から抜けていきそうな気がした。それはあのときに祠で経験した真の闇と同じくらいに早慶にとっては恐ろしいことだ。
「ああ、よい夢ではあったが、とても長い夢だった」
寧安はそう言い、そしてしばらく天井を眺めて考え込んだ。
「これはなんとまあ、おまえに話してきかせたいのだが、目が覚めると同時にすべて忘れてしまっている。よい夢であったのに残念だ。しかし、最後に見た夢は覚えているぞ」
「その最後に見たよい夢をお聞かせください」
「そうか、聞きたいと言うのであれば、話してやろう。その前に、冷たい水を口に含ませてくれぬか。乾いた舌が上顎にくっついて、喋るのが難儀だ」
寧安の最期の願いを聞き届けた早慶はその口に水を含ませた。
「ああ、美味い水だ。これが本当の末期の水というものだな。自分で飲めば世話がない」
「お上人さま、そのような冗談はおやめください」
「どうやら、またまたおまえを怒らせてしまったか。そうだ、これが最後であろうから言っておく。おまえには世話になった。ありがたく思うぞ」
「いえ、そのような気弱なことを。わたくしめはこれからもお上人さまのそばにいて、いつまでもお世話をするつもりでございます」
「そうか、そうまで言うのであれば、おまえの好きなようにすればよい。では、夢の話を聞かせてやろう。
わしはな、夢の中で、喜蝶さまに玉板の欠片をお渡ししたのだ。喜蝶さまはとても喜ばれて、あのお美しい顔でにっこりと微笑まれた」
玉板の欠片とは?と、早慶は思ったが口を挟まなかった。
……長く眠り続けられて、お上人さまの意識は混濁されているに違いない。だが、お上人さまの命を少しでも長くこの世に引きとどめなければ……
彼の願いはそれだけだ。
それで五年前の記憶をたどって彼は合いの手を入れた。
「喜蝶さまはほんとうにお可愛らしいお人であられました」
「お人? 喜蝶さまがお人とは? まあ、おまえがそう思うならそれでよい」
一瞬、納得のいかぬ表情を寧安はその顔に浮かべたが、かすかに頭を横に振って話を続けた。
「玉板の欠片を手にした喜蝶さまは庭に出られて、両手を高く掲げられた。玉板の欠片を天へと差し出されたのだ。すると信じられないことが起こった。天より金色に輝く陽の光がまっすぐに下りてきて、その玉板の欠片を包んだのだ。
そしてなんと玉板の欠片は喜蝶さまの手を離れて、するすると、金色の光に包まれたまま天へと昇り始めたのだよ。
喜蝶さまは顔を上げられてその様子を見つめておられたが、やがて金色の光も玉板の欠片も見えなくなると、わしのほうを見て再び微笑まれた。そしてあの話すことのできない喜蝶さまがわしに向かって、何ごとかを一言おっしゃられたのだ。
それは今まで聞いたことのない、まるで妙なる楽器のような声音だった。何を言われたのかはわからなかったが、その言葉は感謝の言葉だとわしにはわかった」
「なんとも不思議で、それでいて美しい夢にございます」
「そうか、やはりあれは夢だったのか。そうだな、長生きしすぎたと思っていたが、過ぎ去ってみればすべては夢のように思える……。早慶、どうやらわしは話し過ぎて疲れたようだ」
そう言うと、もう二度と開くことのない目を寧安は閉じた。
≪完≫
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