第9話 見知らぬ人
「お風呂、お風呂…」
着替えを持って地下へ行くと、いくつかある扉のうち使用人・女性用の温泉の扉を開ける。
カーテンで目隠しされた少し広い脱衣所には、ロッカーがたくさんある。
この景色は日本を思わせるし温泉も硫黄の香りがして、タムが好きな場所だった。
自分の名札が貼ってあるロッカーに脱いだものをいれてタオル片手にお風呂への扉を開けると、人の匂いがした。
(あれ、珍しい。先客)
湯気の向こうに一人いるようだ。
手近な場所で椅子と桶を確保し、風呂桶とは別に湯を張ってある場所からお湯を汲んで身を清める。
シャワーがない分、流れる湯から自分で汲んで掛ける方式になっているのだ。
(熱めがいいよね〜)
先客がいるので鼻歌は歌えない。黙々とと頭と体を洗い、流す。
(…けっこう長湯だな)
タムが早いだけだが、先客はまだ洗い場にいるようだ。
髪を拭いて湯船に向かおうとしたところ、声を掛けられる。
「あなた、ちょっと手伝ってくださる?」
「え?あ、はい」
聞き慣れないハスキーな声に誘われて近寄る。
そこには少しだけポッチャリとした白い肌の、元の自分と同年代か少し年上くらいの女性がいた。
「髪が長くって…洗うのを手伝ってほしいのだけど」
どうやら彼女は自分が洗い終わるのを律儀に待っていたらしい。
タムの髪は短い。別に中断させても大丈夫なのに、と思いつつ返事をした。
「はーい!目、つぶって、下さいね!」
できるだけ優しく、はきはきと、大きめの声で言う。
女性の髪は燻し銀。見たことあるな、と思いつつ腰まである長い髪をお湯で流してシャンプーをつけるが、中々泡立たない。
(しばらく洗ってなかったのかな…?)
施設にやってきて久々に入浴した、というご老人も多かった。
家では転倒の危険もあるし介護する側が大抵の場合女性のため、人一人抱えて入浴するのは困難だ。
さっぱりと洗い上げると、とても気持ちが良かったと感激されてお礼を言われたこと、その笑顔を見て家族もホッとしていたことを思い出す。
「丁寧、洗います。髪長い、もう一度、洗う」
やむを得ず放置していた事を本人は知っているだろう。汚れてるからなんて言葉は絶対に言えない。
髪についた酸化してるような油分を丁寧にお湯で流し、上から順番にゆっくりと洗う。
「はーい、お湯、最後です。しみます、からね、目、つぶって〜!」
女性は素直に従い、目をつぶってくれる。
まつ毛長い、と思いつつお湯を数回かけて、泡を流し終えた。
「終わったかしら?ありがとう」
『あ、まって』
つい日本語が出てしまった。レイと話したせいだ。タムは慌てて言い直す。
「トリートメント、つける。乾かす、大変」
この屋敷はさすが貴族だけあって、使用人のお風呂にもシャンプーとトリートメントがある。
成分は分からないけども、コレを付けておけば髪が後でギシギシいうことはない。
「それ、匂いが好きじゃないのよね」
「あらら、そうですか」
確かにちょっと薬品臭い。
ひょっとしてそれが原因で、良い香りのする髪油を塗りたくったのだろうか。
タムはモノウ爺に貰ったものを思い出す。
「今日は、我慢して…下さい。今度、バラの油、持ってきます」
バラの精油と言いたいが単語が分からない。
しかし女性は分かったようだ。
「分かったわ…また洗ってくれるの?」
人の髪を洗うのは慣れている。それに綺麗になるしお礼も言われるし、ここなら制服じゃなくていい。
「いいですよー!誘って、下さい」
女性がされるがまま状態なので、背中も洗っていると彼女は嬉しそうに頷いた。
「次もお願いね。名前は?」
「タムです!」
「え?女の子よね?」
「はい」
名字の略称じゃなくて名前の方を言えばよかったか。
今更かなと思いつつタムは女性の体を流してあげた。
「このあと、お湯、浸かりましょう」
「手を取ってくれるの?」
「あ、ごめんなさい」
つい癖で女性の手を取って誘導してしまった。
「いえ、いいのよ。久々に歩いたから…助かるわ」
「そうですか。あ、足元、階段。注意して下さい〜」
確かに女性の足元はおぼつかない。
ちょっとポッチャリしているが足が細い。そのため自分の体をうまく支えられていないようだ。
タムは先に湯船に入り、女性を迎え入れるようにゆっくりと湯船にいざなった。
「…何を見てたのかしらね、私。男でもないのに」
「はい?」
湯船の階段に隣どうし、腰掛けながら彼女は言う。
その目線は胸。
「…はは…親から、です…」
母は自分ほどなかったが、施設では親譲りとごまかしていた。
同性だと、どうやったらそこまで育つの!?と言われて面倒だったので。
「いいわねぇ。今は少しあるけど、元に戻ったらなくなるわね」
タムはため息をつく女性の方をチラリと見る。
今はふくよかだがBカップほどか。痩せればなくなりそうだ。
(胸って真っ先に痩せると言うし…)
自分も痩せたが、確かに前よりは小さくなったと思う。
ユリは変わってません、と言っていたが。
「胸を…保つ、体操、します?」
「そんなのあるの?」
「はい。私は年を取る、垂れる、ので…筋肉、鍛えるです」
施設には過去に豊満だった女性も多くいた。
今からやっときなさい、と言う顔は至極真面目だった。
教えてくれる体操は今も毎朝、毎晩に行っている。
「じゃあ教えて!」
「はい!…あ、でも。ここでやる、のぼせる、あがってから」
「そうね。ここで倒れたら面倒だわ」
ふぅ、とため息を付く女性。
そう言えば名前を聞いていなかった。
「お名前は?」
少し間を置いてから、女性が口を開く。
「私が籠もっている間に来た子なのね。私はジョセフィーヌ、よ。ジョセとか、ジョーとか呼んで構わないわ」
(…ん?)
上の立場がさも当然のような口調。加えて燻し銀の髪。
「…あの、レイのお母さん…?」
「正解よ。あら、呼び捨てってことはあの子といい関係なの?」
ふふっとイタズラそうに微笑む女性。
そういえば、顔の作りがレイスヴァールにそっくりだ。いや、レイスヴァールが彼女にそっくりなのだ。
「い、いえ、違います。失礼しました…」
屋敷の主人用の温泉の扉は別だ。なぜ彼女がここにいるのか。
「いいのよ。この中だと皆かしこまっちゃってつまらないの。…最近、何か空気が動いているから、気になって出てきたのだけど」
久々に動いたら髪が臭う事に気がついて、しばらく部屋から出なかったから自分用の温泉は張っていないと思い、使用人用の温泉に来たと話してくれた。
「あなたが原因ね?」
「へ?」
「ハニーベアがいるなんて。話してくれればいいのに…まぁ、話も聞かなかった私が悪いのだけど!」
「ハニーベア…ではないです」
「そう?見た目がっつりそうみたいだけど。こんなに豊満だとは思わなかった」
「いっ!?」
ジョセフィーヌが胸に顔をうずめてきたのだ。
「ああ…私のルベリアーナにそっくり…」
しかしその声は湿り気を帯びていた。なんとなく引き剥がせなくなり、質問する。
「ルベリアーナ?」
「私の、二代目の竜。地竜でとっても大きくて…」
レイスヴァールの母親らしく、竜に乗れるのだろうか。
そこまで考えた所で彼女が嗚咽を堪えている事に気が付く。
もしかしたら、ルベリアーナとやらは亡くなったのかもしれない。
「泣くと、いいです。スッキリする」
さっき自分もそうだった。
溜めておくとあんなに溢れ出すものだと、後で申し訳なく思った。
「そう、ね…うぐっ」
よっぽど我慢していたのだろう、女性はタムにしがみついて大泣きした。
のぼせないようにと腕のだけ力でそっとジョセフィーヌを支え湯船の階段を上がり、しばらくそうしているとジョセフィーヌは泣き止み、顔をあげた。
涙や鼻水でべしょべしょになった顔を子供にするようにタオルで拭いて、体をお湯で流し、抱っこしたまま少し冷えてしまった体を湯船につける。
身長も手足もタムより長いが、横抱きにしていると彼女は照れたように微笑んだ。
「…なんだか子供になった気分」
「大人、いくつからか、分からない」
タムも笑う。
施設のご老人たちは、子供返りしてワガママを言う人も多かった。
かと思うと、すまんねぇ、と謝る。どうして?と聞いたら、この年でも大人じゃないんだ、我慢できんもんは我慢できん!と笑って言っていた。
(あの時は目からウロコだったなぁ)
それ以来タムはよくご老人を観察して、今日はどっちで扱ってほしいかな?と接し方を変えるようにしていた。
大人でも甘えたい時はある。しかし、この屋敷の女主人となれば、甘えられなくなるのかもしれない。
(ずっとは無理だ)
元社長とかいう人が施設に来た時、威張り散らして職員を配下のように使うので嫌われていたのだが、他のご老人の、”あの人疲れないのかね”という一言を聞いて、自分に担当が回ってきた時は母親のように厳しく接するようにしてみた。
そうしたら驚いてごめんなさいと言い、厳格な顔に笑顔が増えるようになって…最終的にタムの事をかーちゃんとまで呼ぶようになった。
彼は役割に徹し過ぎていて、元に戻るタイミングを失っていたらしい。お葬式の時に施設で父が楽しそうだったと、娘さんにいたく感謝されたことを思い出した。
「ジョー、感情、ある」
「?…そりゃあ人間ですもの」
(うーんと…なんて言えばいいのかな)
「感情、隠す、疲れる」
「まぁそうね」
あと一歩。
ゆるゆるとジョセフィーヌをお湯の中で左右に揺らしながら考える。
(息抜きってなんて言うんだろうなぁ)
「無理する、心痛い、潰す。たまに、笑う。心、軽い」
医者も笑顔が一番いい薬になると言っていた。本人も、周囲も。
「…なんとなく、分かったわ。我慢するな、発散して笑えってことかしら?」
タムの真剣な様子にジョセフィーヌも頷いてくれた。
ウンウンと頷きながらにっこりと笑う。
「そう。我慢、過ぎない」
クスクスと彼女は笑う。
「…面白いわねぇ。言葉を知ってるのに、片言なのね」
「!」
さすが領主の妻である。タムのもどかしさを見抜いたようだ。
「それに…なんだか…アレの気配がする」
「アレ???」
眉をしかめたジョセフィーヌにタムが首を傾げるが、彼女はなんでもないと首を振った。
「そろそろ出ましょうか。この入り方、いいわね。なんだか心の…泥みたいなものが、溶けていったみたい」
「良かった」
お湯の中で体を支えてゆっくりと左右に振る湯浴み方法は、テレビで見たものだ。
効果あるんだなと思いつつ、ジョセフィーヌを立たせて体を支えながら温泉を出る。
体を拭いて2人で着替え、ジョセフィーヌの髪をドライヤーもどきで乾かすと雑談をしながら地下からあがる。
「…ジョセフィーヌ様?」
そこに居たのはユリだった。彼女にしては珍しく驚いた顔をしている。
一歩引いて少しよろけたジョセフィーヌをタムが支えると、彼女はタムを見て決心したように前を向いた。
「ユリ。ごめんなさいね。今日から部屋を出るわ」
「…!承知致しました。夕食は…」
「食堂でいただくわ。彼女と」
「え?」
腕を引き寄せられてジョセフィーヌを見ると、お願い、と目が言っていた。
今は甘えたい時なのだと気付く。タムは頷いた。
「はい。一緒に、食べたいです」
「承知しました。では食堂にご用意致します。…お部屋は掃除致しますので、サロンへ。そしてタム。服を貸して下さい」
「あー…ハイ」
やっぱりボタンが飛んだ服の事は覚えていたようだ。しぶしぶユリに渡した。
「この子は?」
「客人でございます」
「そうなのね。ではサロンでタムとお茶をいただくわ」
ユリは丁寧にお辞儀をすると、足音も立てずにいそいそと遠ざかる。
しばらく彼女と一緒にいたためか、ものすごく嬉しそう、とタムは感じた。
しかしハッと気がついて申し訳無さそうにジョセフィーヌへ言う。
「サロン、場所、分からない」
「大丈夫よ。連れて行ってあげる」
ジョセフィーヌはタムの手を取り歩き出す。背の高い彼女がタムの手を引く様は少し微笑ましい。
すれ違うメイドや侍従たちも目は驚いているが、嬉しそうに微笑んで見送っている。
(なんだろう、ジョーは閉じこもっていたのかな)
さっきもユリに対して”部屋を出る”と宣言していた。
この屋敷の女主人なのに自分も来てから一度も会った事はないし、会わそうという気配もなかった。
(まぁ、いっか。出れるようになったみたいだし)
施設でも来たばかりで塞ぎ込む人もいる。
そういう時は、適度に構いつつ距離を置いて、本人の心の整理がつくまで待つしか無い。
閉じこもっていた理由は本人が言いたければ言えばいい。
サロンにつくと、暖かい紅茶が入ったポットとお菓子がズラッと並んでいた。
給仕はいないので、タムが紅茶を入れてジョセフィーヌに出す。
(やっぱり美人だわぁ)
さすがイケメンのお母さんである。
しかし凛々しい雰囲気が感じられ、女性歌劇団の男役のような格好良さがあった。
「紅茶、美味しいわ」
「はい」
タムはミルクと砂糖をたっぷり入れて飲む。
それを見てジョセフィーヌも同じようにして飲みだした。
(こういう事も我慢してたのかな)
「はー…久しぶり」
そう言ってパクパクとお菓子をつまんでいる。
「でも、そろそろ痩せなくちゃね。みんなが私を見たら、ガッカリしてたわ」
いやいや、とても喜んでいた。
「そんな事ない」
ぽっちゃりと言っても、ほんの少しだけお腹が出てるくらいだ。足が細いのは部屋に籠もりきりだったからだろう。
少し歩いて足に筋肉をつければすぐに無くなる程度のもの。
元の自分に比べたらすぐ取れるだろう。
「ドレスが着れるようにしないと」
「調節、する。…痩せる、よくない」
「竜に乗りたいのよ」
「竜、力持ち」
レイスヴァールやハロルドは細いほうだ。
騎士団には彼らの倍あるようなたくましい人もいるという。
それに竜は人一人乗ったくらいはほとんど重さを感じないそうだ。これは竜本人に聞いたので間違いないだろう。
「でもねぇ、私の昔の姿って…こう、勇ましいのよ。戦姫って呼ばれたくらいで」
(ええ?そんなに?)
だが、それは昔だ。今の身分で腹が6つに分かれるような筋肉はいらないだろう。
「筋肉、たくさん、いらない」
「タムはそのままで可愛いからいいけど、私は背が高いから」
(ぬおお、語彙力がほしい!!!)
もしかしたらジョセフィーヌはストイックな性格かもしれない。
厳格なユリが彼女の前だと王に従う騎士のような従順さを見せたので、自分も”こうあって当然”的な姿を思い浮かべてそれを守っているのだろう。
傍らのサイドテーブルに紙とペンがあるのを見て、タムは女性の体を描く。
一方は細すぎるものと、もう一方は女性らしい曲線のある姿だ。
「こっち、病気する。ジョーはこっち、似合う」
病気になると適度に肉がある人より細い人のほうが悪化しやすい。しかもあっという間だ。
そう説明すると、ジョセフィーヌは考える素振りをする。
「…そうねぇ。たしかにそうかも」
「我慢、よくない」
すると彼女は笑い出した。
「そうだったわね!!…さっき吐き出したばかりなのに。また溜めたら意味ないわね」
「そうそう」
首を上下に大げさに振って頷いていると、彼女は微笑む。
「子熊獣人ってかわいいわねぇ」
「あ…ありがとうございます」
そんなことないですよ、と言いたいが、言葉がわからない。
「ジョー、とても綺麗」
「ありがとう。レイは私に似てよかったと思うけども。あの子、全然モテないのよねー」
自分も旦那様もモテないしね!!と言い出すが、賛同しかねた。
今日も午前中にモテモテだった。
「レイ、モテる」
「カネ目当ての子たちにはね」
「……」
そういう人は除外らしい。
そうなると、こちらにきて一度もレイがいい人を連れているのは見たことがなかった。
一緒にいるとしたらハロルドだ。
手を頬に添えて悩んでいるとジョセフィーヌはケラケラと笑った。
「あなたが悩まなくていいのよ。あの子の問題だから。…ところで、あなたは何か能力あるの?」
「え?…分からない。ここ、来たばかり」
この世界と言いたいが、単語が分からない。
「もしかして、保護されたのかしら…あとでユリに聞かないと。そうだ、私の鍛錬に付き合ってくれる?」
「鍛錬?」
散歩じゃ駄目なのだろうか。
「さすがに歩くとふらつくから、足に筋肉を付けたいわ。あと、胸の筋肉も!」
(ああ、さっきの)
バストアップ体操を教えてほしいらしい。
「はい、少しずつ、始める」
「あら、タムは慎重なのね。分かったわ」
歩いただけでふらつくなら、貧血を起こしているはずだ。
最初は引き止めてでもゆっくり散歩から始めよう、とう思ったタムだった。
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