第2話 変化
香は目を覚まし、すぐに目に入った天井を見て思った。
(どこ…?)
布団も違う。こんな柔らかなスベスベの布団は持っていない。第一、暑がりだから寝る時はいつもお腹にタオルケットを巻いているだけだ。
アパートの小さい窓とは違い、格子が装飾のようについている大きな窓から差し込む光に照らされた、広い部屋。少なくとも10畳以上ある。
自分がいるベッドは壁際で、反対側にはクローゼットやタンスもあるが、どう見てもお金持ちの持つような見た目の家具だ。
上品な落ち着いた色のオーク材に金の取っ手。何より大きさが日本家屋に置くようなサイズではないし、もちろん、こんなものは自分の家にない。
床は渋い紫色の絨毯で端には金糸の刺繍。
(なんでだっけ)
思い出そうとしてすぐ、空から落ちた事を思い出した。そして、UFOに攫われそうになった事と、少年の”あっ!”という声も。
(なんだっけ、こういうの…ああ、聖女だか勇者召喚とかって…まぁ、どっちでもないな。あの人達のセリフだと)
あの人達というのは、少年と美女の事だ。
美女の言葉から察するに、適当に異世界に攫われたと考えて良いだろう。
しかもあの様子だと…力不足で自分を空に放り投げた無責任な少年は、自分を地球へ還す力はなさそうだ。
(これは、誰かが拾ってくれたって事だよね)
居させてくれるか分からないが、縋り付くしかない。
どうやって生活するかも分からないので、人が来るまで、あれこれ想像するのは止めた。
それよりも、お尻の辺りが気になる。
(なんだ、なんか踏んでる)
香はスッキリしない頭を抱え、ゆっくりと片手をついて起き上がろうとして…手の異変に気が付いた。
「んん!?」
(…ネイル!!?マニキュア!?)
職業柄、爪は短くしているが、その爪が濃い黄色になっているのが目に入る。
(しかも金のラメまで入ってキレイ…じゃない!え、マニキュアはこの世界の常識なの?)
両手両足の爪が全部、蜂蜜色になっている。トロリとした見た目は本当の蜂蜜のよう。
一瞬、舐めたくなってしまい慌てて首を振る。
(でもおかしいな。マニキュアやると爪が苦しくなるんだけど)
滅多に塗らない為、マニキュアを塗ると爪がイライラする。しかしこれはイライラを感じなかった。そして接合部があるか確認したが、ネイルでもない。
(まぁいっか…それより、お尻で何を踏んでるん?)
「……ぐ、ぐるじ…」
なんとか体を捻り、体勢を変えて見てみると。
その固いものは、自分のお尻…尾てい骨から飛び出ている。
一瞬、意味が分からなかったが、肉まん大の大きの黄色の毛玉がついていた。
ぎゅっと握ってみる。
「イテッ」
どうやら自分の一部の様だ。
マニキュアと同じ蜂蜜色の毛並みに、先端だけが白のワンポイント。
(あれだ、車とかである特別塗装色。パールホワイトだ)
オプションで選ぶとちょっとお高くなる、ラメの入った白。
意識せず、プリプリ自然と動かすことが出来た。まるで、ずっとついていたかの様に。
(て、こーとーはー?)
恐る恐る、耳のあった場所を触るが髪の毛しかない。手を頑張って上げると、頭の上に飛び出た丸い耳があった。
(多分これも黄色なんだろうな…)
その後、あちこち体を確認してみると、他にも変化があった。
まずは髪の毛。ショートボブの毛を引っ張って見てみれば、これまた蜂蜜色。爪よりは気持ち濃い。
そして手の平には、少しだけ盛り上がった肉球。爪はきちんと切り揃えていた筈だが、意識すると尖った爪がギンッと伸びる。
そして耳と鼻。やたらと音が聞こえ、匂いにも敏感になったようだ。
丸い尻尾で耳は長くない。とすると、思い当たる動物はひとつしか知らない。
(熊になったのかな…?)
普段からあまり動じない彼女は、冷静にそれを受け止める。
女神が何か言ってたし、落ちる時に甘い何かを食べさせた。それが作用しているのかもしれない。
というか、変えるなら体も細くしておいてくれと、たゆむ腹を触りながら思った香だった。
(熊で人か…まんまだね…)
施設でいつも赤いベストを着ている小柄で細いお爺ちゃんに、絶対似合うと着せられたことがあった。
豊満な体格にパツンパツンのベストで結果は大爆笑、暫くあだ名が黄色い熊の名前になった。
みんな笑顔で寿命が伸びたかなと香は思ったが、お爺ちゃんにはもっと食べなさいと注意したのだった。
(なんか、予想してたご利益と違ったけど、まぁいいか)
ご利益ではなく、召喚特典だ。香の場合は詫び石かもしれないが。
(さて、と。元来てた服は洗濯かなぁ)
今着ている薄いグリーンのワンピースの下は、胸をゆったり覆う下着にパンツ。仕事明けのちょっと汗臭い服を、誰かが着替えさせてくれたのだろう。
(ぜったい重たかったよね~)
大変申し訳ない、あとでお礼を言おうと香は思った。
コンコン。
(!)
ノックの音がして香は反射的に布団を被った。被ってから、普通にしてればよかったと後悔した。
返事はしなかったが、重厚な扉が開く。
メイドっぽい服を着た背の高い年配の女性が給仕用のワゴンを押して入ってきて、香を覗き込む。
「…まだお目覚めでは‥‥あら、お目覚めでしたのね」
このか細い人が着替えをしてくれたのだろうか?
施設でも腕力は見た目に寄らなかったので、取り敢えずお礼を言う。
『…ハイ。着換えありがとうございます』
そう返事をしたつもりだったが、老齢のメイドは首を傾げた。
「言葉が…私の話している言葉はお解りになります?」
香は頷いた。
『私の言葉は分かります?』
逆に質問して首を傾げると、メイドは顎に手をやり思案する。
「まぁ、困りましたわね。言葉が通じないとは…」
香は目を見開く。
『いやいやいや、ヒアリングできてますよ!』
と言っても、相手は分からないらしい。
「少々、お待ち下さいませ」
『あっ…』
パタンと扉が閉まり、一人取り残される。
(えぇ〜…)
困った。
両手で頬を押さえて頑張って考えてみる。
恐らくは少年神の神力不足だろう。美女神はそこまで見抜けなかったらしい。
(そりゃそうだよね。ヒアリング出来て話せないとは思わないわ、フツー)
小説やマンガの異世界召喚では、言語変換が当たり前だ。まさか話せないとは…。
コンコンと再びノックの音がすると、先程のメイドと共に、背の高い若い男性が入ってきた。
燻し銀のサラリとした短い髪に、黒い瞳。
見慣れた色に少しホッとするが、よく見るとその目には金が混じっている。
25歳前後だろうか、悪く言えば地味、良く言えば落ち着いた雰囲気だが、体格は良いし軍服のようなものを着ているせいか、野生味みたいなものを感じた。
(細マッチョイケメンですやん)
関西出身のお婆ちゃんが、研修で入った大学生を見て言った言葉を思い出す。
欧米の方よりは彫りがそこまで深くない。日本のイケメンという感じだ。軍服…紺色の詰め襟っぽい服を着ているせいだろうか。
黒いブーツで絨毯に遠慮なく足跡をつけながらベッドに腰掛ける香の前まで来ると、彼は跪き香の目を見ると手を取った。
(え、なに?)
確実に一回り以上年下だが、年甲斐もなくドキドキする。
「私はレイスヴァール・グランスピリットと申します。天空よりお越しの方、此度は災難でした。…言葉が通じないようですが、不安なきよう対応致しますのでご安心ください」
そう伝えると、人が安心するような柔らかな笑みを浮かべた。
(あ、この人マジで言ってる)
仕事柄、香は嘘を見抜くのが得意だ。
目の前の男性からは、本当の優しさが溢れていた。
レイスヴァールの目を見て頷くと、彼も頷いてくれた。
先程までは不安で目が泳いでたのかもしれない、と香は恥ずかしく思った。
彼は、手の平を自分の胸に置き伝える。
「レイ」
そしてその手の平を香に向けた。
あなたは?という風に。
香は思い切って名前を伝える事にした。施設で呼ばれ慣れている、聞き慣れたあだ名のほうを。
「タム」
レイスヴァールはホッとしたように頷いた。
「タム、と仰るのですね」
言葉は分からなくとも、文化圏から来た事は分かってくれただろうか。
香は、目の前でメイドと相談する彼を見上げる。
どうやら、生活に関して色々教えるように指示しているようだ。
老メイドもやる気満々だ。久々に育てる事ができるとかなんとか。食事制限と聞こえた気がしたが、異世界にダイエットがあるのか、気のせいだろうとタムは思った。
(良かった、取り敢えず放置は無さそうだな)
一番心配していた事が無くなり、ホッとする。
後は自分が覚えればいい。試験がたくさんあった年代からだいぶ遠ざかっているが、介護士を取り巻く環境は日々変化していて、法律が変わり施設の運用基準が変更になることもある。丸暗記は得意だ。
「では、暫くはご不便をお掛けしますが、このユリに何なりとお申し付け下さい」
青年はそう言うと、丁寧な礼をして下がった。
老メイドが進み出て、早速、世話兼レクチャーが始まる。
「では、まずはお水をどうぞ」
彼女はタムにコップを手渡した。
「これは、コップ、と申します」
タムは頷いた。
頭では日本語に変換されて理解しているが、耳では別の言語に聞こえているのが不思議だ。
思い切って、耳で聞こえた言葉を反復してみた。
「こえは、くっぷ、ともうしまし」
頭に聞こえてきた言葉はちょっと違った。
しかしメイドは目を見開く。
「そうです!コップ、です」
「コップ」
今度はきちんと聞こえる。
「お上手です」
ニコニコとコップに水を注いでくれた。
「こえは」
先程の文脈から、質問してみる。
「これは、お水、です」
少し簡単にしてくれた。
「これは、お水、です」
「まぁ、覚えが早いですわ。これなら、3歳児に教えるよりも楽です」
そりゃあそうだろう、タムは苦笑した。
他の言語で物を知っているのだ、後は変換するだけなので、個体識別から初める幼児とは違う。
手渡してくれた水を飲むが、柑橘類でも入っているのかとてもサッパリする。
(っていうのを表現したいけど、無理だ。語彙が増えたらユリさんに聞こう)
英語を覚えようとして挫折した時とは違う。
生活に直結するのだ、その点では全く意気込みが違った。
「さて次は」
ユリは部屋を見回すと、出入り口とは違う少し小さなドアを見る
タムの手を取り立ち上がらせて、ドアまで導く。
「これはトイレですよ」
(おお!それは大事だわ)
ドアを開けると、日本とあまり変わりないが背もたれがある洋式の便器があった。
金属製なのか色は黒い。
「トイレ」
反復すると、ユリは頷く。
彼女にお手本をやらせるのも申し訳ないので、タムはズボンを脱ぐ仕草をして便座に座る。
金属製の便座にちょっと覚悟して座ったが、ウォーマーがついているように温かかったのでタムは内心驚いた。
「あら、おトイレは分かるのですね…良かった」
ホッとしたようにユリは言うと、傍らにある茶色の紙のような物を示した。
「拭き紙」
これで拭くようだ。
「拭く、入れる」
拭く仕草をした後、便器の中に入れる。
…のは分かったが、流すような装置がどこにも無い。
かと言って、昔語りでよく聞くボットンのように臭う訳でもない。
ちょっと不安になりながらも、反復して実践とばかりにユリは戸外に出た。
(どーゆー仕組み…?)
考えつつ、用を足して植物紙のような拭き紙を使うと穴に入れて立ち上がる。
「!!」
ジュッと音と共に、小さな煙がポコッと上がった。
(燃やしてるのか〜。しかもセンサー??)
何も臭わないのはそのせいか、と納得する。
そして手を洗う物がないか探してみる。
介護士は清潔が命なのだ。
室内ですぐ分かるのは、天井の丸い明かりの光を反射して輝く壁から突き出た銀色の棒。先端には水色の宝石が嵌っている。
その下には半円の小さなシンクがあったので、こちらもセンサー式か?と手を差し出してみる。
(おおっ!)
一際輝いた宝石から、水が出た。
石から水が出るその光景は中々シュールだったが、タムは興奮した。
(魔法キタコレ!)
自分に掛けられた魔法は差し置いて、水を出す魔法に魅入る。欲しいなぁ、とも思ってしまった。
すぐ横にあるタオルで手を拭くとドアを開けて外に出た。
心配そうなユリと目が合ったので、ニコッと笑って問題ない事をアピールする。
「…良うございました。あ、手は…」
タムは水色の宝石を指差し、手を洗う仕草をしたら正解です!!と感激された。
ついでに、"手を"、"洗う"という単語も教えてもらう。
あの水の宝石は、"水の魔石"というものだと教えてくれた。
魔石という言葉にタムはもちろん興奮した。
色んな物が目新しく楽しくて、ユリが丁寧に教えてくれる事もあり、タムは次々と言葉を覚えていった。
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