ハニーベア
竹冬 ハジメ
第1話 午前3時の眩しい空
「ふわぁぁぁ…」
田村香は大口を開けて目一杯、初夏の生ぬるい空気を吸い込んだ。
人通りの全くない午前3時。車もいないが信号機だけは仕事をしている。
パーカーのチャックを下げて制服のポロシャツに籠った熱を逃がす。
ついでにポロシャツをズボンから出してハタハタとあおいだ。
(どうせ誰もいやしない)
女子としてはどうなのか、という意識はどこかに飛んでいってしまっていた。
今年の1月で45歳になったばかり。とうとう結婚しないままアラフィフに突入した。
両親は26年前に他界しているので、同僚がよく愚痴をこぼす”親の結婚しろ”コールはないのだが、一度は聞いてみたいセリフだった。
(今聞いたところで結婚なんて無理っしょ…)
150センチ72キロ。甘いものとお酒が大好きな食生活の結果だ。自業自得。
成人式のほっそりとした和服姿の写真を婚活で出したら、明らかに詐欺と言われるだろう。
(まだ胸の方がデッカイから大丈夫だ)
そう考えながらお腹を触る。香は豊満だ。この胸以上に腹が出たら、体重は大台にのるかもしれない。お爺ちゃん方には大変人気なのだが。
(なんで重労働なのに、痩せないんだろ?)
彼女の職業は介護士。身体の長さも幅も様々なお爺ちゃんお婆ちゃん達を相手に日々奮闘しているし、施設に届いた重い荷物だって、台車が足りなければ手で運ぶ。
(そういやドーナツ美味しかった~)
今日、彼女の働く施設に入居している、高齢で体調が悪化しかけているお婆ちゃんの娘が自分の残業後にコッソリやって来て母の手を握って帰っていった。
本当は面会時間外なので施設に入れられないのだが、この施設はアットホームであり利用者最優先という元社畜の社長の経営方針の為、キチンと身分証明できればコッソリ入れて良い事になっている。
(おかげで、社畜や経営者の親が多いかもね…)
その疲れ切った顔の娘さんは、まだ大丈夫よ、と言う母の言葉に安堵し、賞味期限間近なのでスタッフさんで食べて下さい、と箱でドーナツを置いてった。どうやら店の売れ残りらしい。
スタッフは12名。喜んで段ボール3箱を運び、みんなで頂いた。仕事中のドーナツはどうしてあんなに美味しいのか。
香は需要以上に供給している事は気付いていない。
「わっ!」
後ろから吹いた突風に顔をしかめて短い髪をなでつけてる。
『あ、いたいた。やっと見つけた』
声が聞こえた。
忘れ物を同僚が持ってきたのかと一瞬思ったが、聞き覚えのない若い男の声だ。
むしろ子供に近い無邪気な声。
方向は分からないが、視界に入らないので背後かと振り返った。
「………」
しかし人はいない。
香はちょっと青くなった。まだ盛夏ではないし、涼しくなる話は苦手である。
「!?」
さっきまで重かった体がふいに軽くなる。
(ん?…ぎゃっ!?)
ふわり、と浮かび上がった。バタバタしても落ちないが、横にあったフェンスを越えるとバタバタを止めた。
既に落ちたら軽症じゃすまない高さになっている。
助けを求めて周囲を見るが、もちろん誰も居ない。だからこんな目にあっているのだろう。
月明かり以上の明るさを感じ、ハッとして空を見上げる。
その光源は目を細めても分からない。自分がそこに吸い込まれていっている。
(まさか、UFO!?解剖されちゃうの!?)
思わず頬を両手で押さえる。困った時に無意識にしてしまうポーズだ。
世の為人の為、と激務を続けてきたのにそんな最期は嫌だ。しかし彼女は”神様助けて”とは絶対に祈らない。過去にどれだけ祈っても無駄な事だと悟ったから。
(…そうだ、”見つけた”ってことは、宇宙人が介護士探してるかもしんない)
無理やりな理由をつけて心を落ち着かせる。
しかし、彼女は気付いていない。暗がりの中、他にも数人が上空へ吸い込まれて行っていることに。
ぼんやりと吸い込まれるのを待っていたら、再び声がする。
『あれ?…ちょっと多く持ってきちゃったな。力が足りない…』
もうすぐ光源へたどり着くという所で、不穏な言葉。
それは受付の梅子姉さんがウッカリやらかした時の雰囲気と似ていた。
(ちょちょちょ、このまま墜落はやめ…)
『あっ!』
次の瞬間、香は明るい空の中に放り出された。
さっきまでの浮遊感が消えて、体が徐々に重くなる。
すぐ横には崖のヘリがあった。
「っっ!!」
落ちると思った瞬間、必死に手を伸ばして香はそこを掴んだ。
パラパラと土が空の下へ落ちていく。
(ひゃああ)
どうやら掴んだのは、空に浮かぶ大地の端っこ。地球としてあり得ないが、どう見てもそのようにしか見えない。
(無理ゲーだこれぇ)
自分の体重を恨む。持ち上がる筈もないし、このまま支えられる事も出来ないと分かっている。
腕の筋肉には自信があるが、ボルダリングもしてないし指先の力はない。
もう手がプルプルしてきた。
『あらぁ…大変。あの子、無作為に持ってきたわね。迎えを呼ばないと…ちょうど良い者がいるわ、あれを呼びましょう』
上から少女のような、しかしどこか落ち着いた雰囲気のある声が降ってくる。
しかし香は早々にやって来た限界に、上を見れない。
『与えられた神力が弱いわね。この世界に存在しない種族のままじゃない。後で注意しないと』
学校で悪戯した子供を叱らなくちゃ~というノリのゆったりした彼女に、香は最後の力を振り絞って顔を上げて叫んだ。
「助けて!!」
その拍子に掴んでいた岩がボロっと剥がれる。
空中へ投げ出された香は、金髪金眼のとんでもない美女と目が合った。お姫様のようなレースのドレス。波打つ豊かな金の髪の背後に天使のような翼。
「~~~~~~~~~っっ!!!」
声にならない叫びを上げた香の口の中に、美女は金色の実を放り投げた。
『この世界と共にあれ』
とっさに閉じた口の中に甘い味を感じ、厳粛な声を聴いた瞬間、香は気を失った。
◆◆◆
「おい、どうした?マグリー」
急に向きを変えて飛翔速度を上げた愛竜の首を叩く。
彼の名はレイスヴァール・グランスピリット。国境の警備を行う騎士団の一員であり、なおかつ辺境伯の息子だ。
「レイ、そっちは神域だ。近寄ると雷が落ちるぞ」
同じく、竜に騎乗した男が彼に追いつき、注意する。
こちらはハロルド・ラングリー。レイスヴァールの同僚で親友だ。
「分かってるが…言う事を聞かないのは初めてだ。何かを探しているみたいだが」
しかも向かう先は神域である、天の庭。禁域でもあるその天空の大地は、この世界を創った女神の住まう場所。近寄れば無数の雷が落ち、竜でもひとたまりもない。人など痕跡も残らないと聞いた。
「マグリー、そちらは駄目だ。分かるだろう?」
しかし、彼女は迷うことなく神域を目指している。竜の本能がある筈なのに、まるで呼ばれているようだった。
はっきりと大地の認識が出来るまで近づいてしまい、レイスヴァールは焦る。
「レイ!人だ!」
ハロルドが指さした先を見ると、まさに落下中の人がいた。
それを見てマグリーは小さく咆哮する。
(あれを助ければいいのか)
レイスヴァールは納得して声をあげた。
「ハロ、風を!」
「りょーか、いっ!」
声に合わせてハロルドは風を呼び、練り合わせて空気の塊のようなものを作り出す。
彼の金の髪が派手になびいた。
圧縮された風は落ちてきた人を支えるまではいかないが、落下速度が落ちた。
人物の下にレイスヴァールは回り込む。
竜はあまり空中待機が得意ではない上に、圧縮した風が時折、暴風として襲い掛かる。
「マグリー、もう一度だ」
灰銀の短い髪を振り乱す風に突っ込みながら、マグリーに指示を出す。
2、3回、落下位置に回り込み、なんとか人を抱き止め回収する事が出来た。
真っ青な顔色だが、呼吸はしている。マグリーは機嫌よく鳴き声をあげた。
「ハロ、保護成功だ!」
上空へ声を張り上げると、ハロルドが風を起こすのを止めて降りてきた。
「はー、良かった。とりあえず、いったん下に降りようぜ」
空から落ちてくる魔族や竜ならともかく、市民など初めてだ。二人とも緊張が解けたのもあり、すぐ下の草原へ降りる事にした。
レイスヴァールはマントを草原に敷き、受け止めた人を横たえる。
白いお腹が見えてしまったので、慌てて上着を引っ張って隠した。
「ここは禁域じゃないな?」
竜から降りたハロルドが確認すると、レイスヴァールが頷く。
「ああ。禁域は天の庭だけだ。真下のここは大丈夫だが…ウチは入ることを禁止している」
「まぁそうだな。狼藉者はどこにでもいるし」
この領地はレイスヴァールの生家、グランスピリット家のものだ。
魔族の国と竜の谷という国境に面し、更には天の庭もある。国境という事もあり普段から警備はされているがここ数百年、戦はない。視る者から見れば色々な意味で価値のある土地だった。
「で、その子供…でもないかな?その女性はなんだろうな」
ハロルドは、青い顔をして眠っているふくよかな女性を、キラキラした青い瞳で覗き込んだ。レイスヴァールは首を横に振る。
女性の恰好は思い出す限りで、記憶に無かった。
「分からない。特に神託もないが…しかし天の庭付近から落ちて来たように見える。…モンスターかイタズラ好きの若い竜に攫われて、禁域に近づいた所で天雷にやられて、罪のないこの方だけ落ちて来たのかもしれない」
魔力があまり感じられない女性からは、少しだけ神力が感じられた。
この地を護ると宣言したグランスピリット家だけが分かる、その力。
噂好きな友人の手前、厄介な事に巻き込まれないよう、彼は黙っていることにした。
「で、どうする」
ハロルドが言うと、休んでいたマグリーが首を上げ金の瞳でレイスヴァールを見た。
どうやら女性の処遇を心配しているようだ。
「屋敷に連れていく。部屋と世話する人間は山ほどいるから大丈夫だろう」
「分かった。オレも様子を見に行くよ。胸でっかくてイイよな」
他人事なハロルドにレイスヴァールは少しイラついて溜息をついた。
(ただでさえ、母上の事で頭が痛いのに…)
しかし、グランスピリット家の竜を呼びつけた事、天の庭から落ちて来た事実を見過ごすことは出来なかった。
「父君は?」
「しばらく王都だ。文を出そう」
領主は定期報告の為、少し前に王都へ行った。暫く戻らないだろう。
「どうせ、よしなに、だろう?」
「まぁな」
レイスヴァールは苦笑した。父からは、お前なら安心して家を任せられる、と言われている。言い方は良いが、裏を返せば丸投げ。父が帰ってくる前に、2つの問題を解決しなければならない。
「じゃ、帰ろうぜ。お前は屋敷に行けよ。隊長には俺から報告しておく」
「…頼んだぞ。ああ、そうだ。神託が出てないかも聞いておいてくれ」
ハロルドの得意分野は情報収集。彼は楽しそうに笑った。
「任せとけ」
親指を立てると、騎竜のルイスに乗り込み飛翔する。
「後で行くよ」
そう言ってレイスヴァールが手を振るのを見届けると、あっという間に基地へ戻っていった。
「さて…帰るか。ブラウンに行って部屋を用意させて、メイドをつけて…今ならユリの手が空いてるか…」
やることをブツブツ呟きながら、再び女性を抱き上げる。
(重い…)
気を失っているとはいえ、女性に言う事ではないと思い彼は律儀に心の中で呟いた。
(ハロは、ふくよかな女性好みだったか)
先日、行きたくもないのに引き摺られて行ったハロルド御用達の”女性の多い飲み屋”では、必ずと言っていいほど隣に婦人かそれ以上の年齢の、ふくよかな女性が座って密着していた。
この可哀そうな女性をハロが気に入るのも仕方ない。彼が大好きな3点が見事に揃っていた。
丸顔、ふくよか、巨乳。
(…痩せさせよう)
親友の毒牙にかかるのを見ているのも可哀そうだ。レイスヴァールはよく分からない決心をした。
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