第641話 おじさんは母親の怖さを思い知る
カラセベド公爵家の賓客用サロンである。
豪華ではあるが下品ではない。
質の良い家具だけが揃っている部屋だ。
その部屋の中央あたり。
どっかりとソファに座った母親が客である筆頭薬師を見ていた。
「……あ……ありがとうございます」
動揺が隠せない筆頭薬師だ。
「エバンス、アヴェラに伝えておいて。なにか困ったことがあれば、いつでも私に言いなさい、と」
王妃も含め、姉妹の仲は悪くないのだ。
ただ庶子としての立場からか、アヴェラは一線を引いている。
そうした遠慮は要らないと姉たちが言っても、だ。
やはりそこは庶子は庶子という立場を貫いている。
妹の気持ちがわからないでもない母親だ。
だから事あるごとに、少々強引でも関わりを持とうとしている。
「畏まりました。お気遣い痛み入ります」
筆頭薬師の言葉に満足したのだろう。
母親が大きく頷いた。
「……しかし困りました」
筆頭薬師は腕を組み、眉根をしかめている。
妊婦用の栄養剤と聞いていたのだ。
まさか王蜜水桃のような素材が使われているとは思わない。
安定して入手できる経路があったとしても、売るのなら値段が跳ね上がってしまう。
上位貴族ならまだしも下級貴族には手がでないだろう。
それではまた文句がでる。
「なにも困ることはありませんわ」
おじさんである。
その言葉に筆頭薬師はまた顔をしかめた。
いやいや、という話だ。
だが、いくら魔法薬に精通しているといえど、まだ成人もしていない学園の生徒だ。
流通だのなんだのといった部分に配慮をしていないのだろう。
そこが問題なのだが、経験がないというのは……。
「だって、王蜜水桃は味の調整をしているだけですもの」
続くおじさんの言葉で、筆頭薬師は目を見開いた。
「……ということは使わなくてもいい、と?」
「もちろんです。味の調整をするのなら、もっと安価で入手しやすいものでも代替できますから」
そこまで聞いて、筆頭薬師は自分を恥じた。
とんだ早とちりである。
きちんと流通の面まで配慮しているではないか。
それも作る段階からだ。
王宮魔法薬師の若手よりも配慮が行き届いている。
「……その代わり、そこまでおいしくはできませんわよ?」
ニコッと笑うおじさんだ。
またもや目が点になってしまう筆頭薬師である。
その様子を見て、おほほ、と朗らかに笑う母親であった。
「さて、エバンス。あなたはどういう条件をだしてくれるのかしら?」
そうなのだ。
本来はその交渉をしにきたのである。
王宮魔法薬として売りだすにしても、だ。
相応の対価を支払う必要がある。
が――これはダメだ。
筆頭薬師は知っている。
この状態のヴェロニカ様は交渉よりも楽しみたいだけなのだから。
嫌な汗がたらりと流れた。
圧倒的に不利な状況でなにを提示すべきか。
必死になって筆頭薬師は頭を回転させる。
――沈思黙考。
「リーちゃん、そう言えば水虫の薬はどうなっているのかしら?」
「あのお薬は既に量産体制を確保したと聞いていますわね」
話ながらおじさんは思う。
なぜ今、その話を聞くのだ、と。
情報の濃淡はあれ、母親も知っているはずなのに。
「ほおん。そうなの」
母親の表情を見ながら、おじさんは続きを話す。
「ええ、なんでも民間での需要も相当なものだと聞いていますわ。そのため最優先で量産体制を確保したとのことです。お祖父様が随分と骨を折られたそうですわよ。昔の知人にも声をかけたりして」
「それは義父上も力を入れたものねぇ」
ちらりと筆頭薬師を見る母親だ。
なぜ――公爵家の内情をここで打ち明けるのか。
筆頭薬師も不思議に思っていたが、理解した。
重圧をかけているのだ。
公爵家がここまでしているのだぞ、と。
王宮魔法薬師たちだけでは需要を満たせなかったのだ。
その尻拭いをしてやっているのだと言われたのである。
ならば、今回は王宮魔法薬師たちも身を切るべきでないといけない。
相応のものでなければ納得しないという宣言だ。
では、どうするか。
金銭で購うといっても、だ。
先の話の内容からすれば、水虫の薬はしばらく売れ続けるだろう。
需要の底がどれだけあるのかわからない。
いや――そもそも一度は治ったとしても、再発する可能性も含めると需要は底をつかないかもしれない。
なら公爵家はとんでもない利権を手に入れたのと同じ。
さらに金銭をといっても納得しないだろう。
では――どうするのか。
はた、と気づく筆頭薬師である。
なるほど、そのための鍵としての話だったのか。
本来であれば宰相閣下、あるいは陛下に許可をとる必要がある案件だ。
ここでは口約束だけとなってしまうが……切り札をきる。
「ヴェロニカ様。王宮魔法薬の仕様書一式で手を打っていただけませんか?」
筆頭薬師は虎の子を手渡すことにした。
王宮魔法薬のレシピを渡そうというのだから。
だが――後から貴族に突き上げられることを考えれば安いものだ。
妊婦用の栄養剤が作れるようになるのだから。
「ほおん。いいのかしら? エバンスの一存で決められるものではないと思うけど?」
「確かに仰るとおりです。ただそれだけの価値があると思っています」
筆頭薬師が真っ直ぐに母親を見た。
その視線を受けて、母親は軽く首肯する。
「では、兄上と陛下を口説いてくることね」
「承知しております」
厳しいかもしれない。
王宮魔法薬の仕様書は何代にも渡って改良を続けられてきたものだ。
それはおいそれと公開していいものではない。
だが――背に腹は代えられないと思うのだ。
「私は王城に戻り、陛下と宰相閣下に相談をしてまいりますので、これで失礼させていただきます」
そして、筆頭薬師は王城に戻るのであった。
一方で賓客用サロンである。
残された母親とおじさんは談笑を続けていた。
「王宮魔法薬の仕様書ですか。またとんでもないものを提示しましたわね、ボナッコルティ卿は」
おじさんが素直に感想を漏らす。
それに対して、母親はとても悪い顔でにちゃあと笑う。
「ふふふ……うまくこちらの掌で踊ってくれたわ。まだまだ甘いわね、エバンスは」
母親はおじさんに種明かしをした。
水虫の薬の話を振ることで、筆頭薬師がどう考えたのかを正確にトレースしていたのだ。
ある程度は考え方がわかっている相手だから通用するものだ。
最終的に筆頭薬師なら、魔法薬の仕様書にたどりつく。
そこまでの確信があったから試したのだ。
「ふふふ……」
上機嫌に笑う母親である。
おじさんは思っていた。
大人って怖い、と。
中の人はおじさんなのに。
一方で王城である。
王の執務室にて国王と宰相、外務卿と筆頭薬師が揃っていた。
筆頭薬師からの報告を揃って受けていたのである。
「ハハハ!」
話が終わったところで父親が笑った。
「エバンス、キミ……ふふ」
父親は母親の仕掛けた罠に気づいていた。
そのことでいいようにされた後輩のことがおかしかったのだ。
「え……と? 外務卿閣下?」
まだ気づいていない筆頭薬師だ。
その肩をポンと宰相が叩いた。
「エバンス、キミはヴェロニカに踊らされていたってことだよ」
「え? ええ?」
キョトンとなる筆頭薬師だ。
「そういう風に誘導されてしまったってこと。キミだっていきなり王宮魔法薬の仕様書を出せと言われたら、頷いていなかっただろう?」
それは当然の話である。
だからこちらから差しだすように仕向けた?
筆頭薬師の頭の中で、悪い顔をした母親が高笑いをしていた。
「だからヴェロニカは……今頃、大笑いしているんじゃないかな?」
今はその声が聞こえるようだ、と筆頭薬師は頭を抱える。
「え……と、では王宮魔法薬の仕様書は?」
「さて……私は現場にいたわけではないから、どこまでがヴェロニカの本音かわからないから……スランはどう思う?」
宰相が父親に話を振った。
「そうですね。たぶん本気で欲してはいないと思いますよ。だって、うちにはリーちゃんがいますからね。その気になればどんな魔法薬だって作ってくれるでしょう? だから――試したのですよ」
「試す?」
今度は父親の言葉に疑問がわく筆頭薬師だ。
「エバンス、キミがアヴェラにふさわしいかどうかだよ」
「はあ……よくわかりません」
「不合格ではなかったから、良しと考えておくといい」
父親はまた軽く笑った。
ぶっちゃけた話、今の公爵家に栄養剤を量産できる力はない。
やろうと思えばできるが、やるべきことが山積みなのだ。
そんなところに割いているリソースはない。
だから、誠意を見せて面子を立ててくれればそれで良かったのだ。
無理な要求をする気はない。
むしろ王宮魔法薬師が関わるのなら、どうぞどうぞという状況なのだから。
「なぁ……ワシ思うんじゃが……」
と黙っていた国王が口を開いた。
「これ、魔法薬の仕様書を渡しておかないと、またリーの功績が積み上がっちゃうんじゃないのか?」
今度は正鵠を射た国王の意見であった。
そのことは考えたくない宰相と父親は黙っていたのだが……。
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