第563話 おじさん宰相を奈落の底に落としてしまう


 カラセベド公爵家に戻ったおじさんと母親である。


「アドロス! ミーマイカ!」


 出迎えにきた家令と侍女長に声をかけるおじさんだ。

 それも満面の笑みで。


「お母様がご懐妊なされたのですわ! わたくしに弟か妹ができますのよ!」


 鼻高々といったおじさんだ。

 嬉しくて嬉しくて仕方がないのだろう。

 そんなおじさんを微笑ましく見る、家令と侍女長の二人だ。

 

「それは良きことですな! 今宵は宴といたしましょう」


 家令も侍女長も笑顔である。

 母親は苦笑気味だが、決して嫌な気分ではなかった。

 だって、あれだけ喜んでくれているのだから。

 

「おっと。その前にわたくしは行くところがありますの」


「どちらへでしょうか?」


「ちょっとラケーリヌ家で後始末をしてきますわ。宰相閣下もお戻りになると仰っていましたし」


「承知しました。今から人を走らせておきましょう」


 なんの後始末をしに行くのだとは問わない家令である。

 聞いてもお腹が痛くなるだけなのだ。

 なので、聞かずにすむならそれでいい。

 

 こうしてラケーリヌ家にとんぼ返りするおじさんであった。

 

 一方でラケーリヌ家である。

 唐突に現れたカラセベド公爵家の母と娘。

 どちらもこの家に縁のある人物だ。

 

 滞在していた時間はさほど長くはない。

 まだこの邸の主人は戻っていないのだから。

 

 だが、この惨状はどうなのだろうか。

 邸の窓という窓が割れ、裏庭はぐちゃぐちゃだ。

 

 さらに当主の代理となるべき長男と、その妹はボロボロになって倒れたままである。

 ラケーリヌ家の使用人たちは、この前代未聞の出来事に動くことができなかった。

 

 そこへ当主である宰相が帰宅してくる。

 家の惨状を目の当たりにし、お目当ての人物がいないと知って、心にダメージを負ってしまう。

 

 ラケーリヌ家の家令は思うのだ。

 なんなのだろう、と。

 これは平たく言えば、ケンカを売られているのか。

 

 いや、もしケンカを売っていると言うのなら、だ。

 今、この場で生き残っている者はいないはずである。

 

 だって、相手はあのヴェロニカ様なのだから。

 そして――その娘であるおじさん。

 

 母親を当代きっての天才と目していた家令である。

 だが、その母親をも上回るなにか。

 

 天才だと形容するのはかんたんである。

 ただその言葉では収まらないものを感じたのだ。

 

 そこへ再びカラセベド公爵家の者が訪れる。

 リーお嬢様が再び来訪するとの報せをもって。

 

 いったいなんなのだろう。

 想像するだけでお腹がきゅううと痛みだす家令であった。

 

 しばらくして、おじさんが姿を見せる。

 相も変わらぬ超絶美少女っぷりだ。

 

 うっすらと青みがかった白銀の髪をなびかせている。

 そのアクアブルーの瞳は、まるで神が細工したかのようだ。

 

 とにかく出迎えにでる家令である。

 おじさんに従って、裏庭へと戻った。

 

 惨劇の舞台はそのままになっている。

 

「さて、まずはお二人を治癒しますか」


 言い終わらぬうちに、おじさんがパチンと指を弾く。

 その一瞬で治癒魔法が二人にかけられたのだ。

 驚くべき速さで回復する二人である。

 

「……リー様」 


 ルルエラである。

 おじさんを見て、うっとりとしている。


「助かった、わざわざスマン」


 長男はおじさんにむかって頭を下げた。


「お気になさらず。少しだけ・・・・やりすぎてしまいましたので、後始末をしに参りましたの。お二人ともこちらへ。そこに居ては魔法の影響を受けてしまいますので」


 二人が下がるのを確認してから、おじさんが指を鳴らす。

 魔力の影響でぐちゃぐちゃになっていた裏庭が元の姿に戻っていく。

 

 時間を巻き戻しているかのようだ。

 いや、これは比喩ではない。

 

 おじさんはちゃっかり時間を遡行させる魔法を会得していた。

 薄毛の薬を作るときに話題になったものである。

 

 人にかけるのは繊細極まる魔力操作が必要になる魔法だ。

 そのため少しの失敗で大きな影響がでてしまう。

 

 だから禁呪のひとつになり、やがては使い手も居なくなって失伝したのである。

 しかし、おじさんであれば問題などないのだ。

 

 自分自身にかける魔法から他者へと対象を移す。

 トリスメギストスと術式の変更を行い、幾度かの実験を繰りかえして、ついに習得したのである。

 

「こんなものでしょうか。お次は、と」


 おじさんがタウンハウスに視線をむけた。

 邸ごといくか。

 

 気軽に決断してしまうおじさんだ。

 

「リアン様でしたか。邸から一人残らず退避させていただきたいですわ」


「……ああ、その、なんだ。先ほどの魔法を邸全体に?」


 長男はなにが起こっているのか理解できなかった。

 が、それでも理解したことがある。

 

 それはおじさんの言うとおりにする、ということだ。


「その方が早くすみますから」


 おじさんの言葉に従うように、長男は家令を見て首肯した。

 長男の意を受けた家令が邸へと走っていく。

 

「……リー様、今の魔法はどういったものなのでしょう?」


 ルルエラがおじさんに聞く。

 

「そうですわね……内緒にしておきますわ!」


 唇に人差し指をあてるおじさんだ。

 その姿は実に愛らしいものだった。

 

「はきゅうううん」


 妹の口からでた聞いたことがない言葉に目をむく長男だ。

 いや言葉でもないのだろう。

 

 ただ、妹を見ればわかった。

 なぜか胸の前で手を組んで、おじさんを見つめている。

 頬を赤らめながら。

 

「よかった! リーちゃん!」


 宰相である。

 おじさんが来訪した報を受けて、こちらに足をむけたのだ。

 

「閣下、緊急事態が出来しゅったいしましたので、一時帰宅しておりましたの。申し訳ありませんわ」


「いや戻ってきてくれたらいいんだよ。というか何かあったのかい?」


 宰相の問いにむふふ、となるおじさんだ。

 

「お母様がご懐妊なされたのです!」


「ヴェロニカが! それはめでたい!」


「でしょう? わたくし、楽しみで楽しみで仕方ありませんの」


 そこへ家令が戻ってくる。

 

「リー様、邸から全員退避させました」


「ご苦労様です。では、ちゃちゃっと直してしまいます」


 指をスナップさせるおじさんだ。

 それだけで邸全体の窓ガラスが元に戻っていく。

 

 完全に修復されたところで魔法をとめるおじさんだ。


「はい。これで終了ですわ。ご迷惑をおかけしました」


 ペコリと頭を下げるおじさんである。

 

 宰相と長男、ルルエラに家令。

 さらにはラケーリヌ家の使用人たち全員。

 そして、宰相の妻であるメイユェ。

 

 全員が信じられないものを目にしてしまった。

 

「リ、リー!? い、今のは?」


 宰相である。

 答えてもいいが面倒臭そうなので、おじさんは言った。

 

「内緒ですわ!」


「そうかー内緒かー」


 あははーと笑う宰相だ。

 もうどうにでもなあれーの心持ちなのだ。

 

「あなたがリーちゃん?」


 宰相の背後から妻であるメイユェが顔を覗かせた。

 

「お初にお目にかかります。メイユェ様」


 おじさんが綺麗な所作でカーテシーを見せた。

 その余りの見事さに息を呑むメイユェである。

 

「リーはもう知っているのかな? こちらは私の妻のメイユェだ。以後、よしなに頼むよ」


 宰相が挨拶を忘れている妻のことをフォローする。

 慌ててカーテシーを返すメイユェであった。

 

「ねぇねぇ。さっきヴィーちゃん……ヴェロニカちゃんが懐妊したと聞こえたのだけど?」


 ヴィーちゃんというのが、母親の小さな頃の愛称だ。


「ええ、そうですわよ!」


「ちょっと詳しく聞かせてほしいの。リーちゃん、いったいどういうことなのかしら? っていうか、さっきヴィーちゃんを見たけど、あんまり変わってなかったわ。声をかけようと思ったら帰っちゃったし……」


 ものすごく早口になるメイユェである。


「ああ――恐らくはこちらの影響もあるかと」


 おじさんが腰のポーチから、ジャーキーを取りだす。

 

「これは?」


 それを不思議そうに見るメイユェだ。


「ちょっとヘビの魔物を狩りすぎてしまいましたの。それでお肉が大量に余ったので、作ってみたのですわ」


「ほおん。ヘビの干し肉ですか。これがどうして関係あるのかしら?」


「千年大蛇のものですわ、メイユェ様。千年大蛇といえば滋養強壮、精力回復、体力増強に美容にまで効果があると言われる……」


 おじさんの説明の途中であった。

 脱兎のごとく宰相が逃げだそうとしたのだ。

 その肩をむんずと掴むメイユェである。

 

「あなた、こんな素晴らしいものがあるのをご存じでしたか?」


 たらり、と宰相の額をひとしずくの汗が流れた。

 

「その表情、その汗、知っていましたわね」


「い、いやちがう、ちがうんだ、メイユェ」


 ゴゴゴとメイユェの背後に不可視の圧力が出現する。

 その圧力に宰相の胃が締めつけられた。

 

 だが、おじさんには効果がない。

 だから善意からつい勧めてしまうのだ。

 

「そうそう。こちらはもっと効き目があるとされますのよ」


 おじさんがだしたのは、パラフィン紙に包まれたものだ。

 パラフィン紙は紙に蝋を染みこませ、あるいは塗ったものである。

 

「千年大蛇の肝と心臓を食べやすくしたものです」


「ええと……それをスランは食べたのかな?」


 宰相の問いにこくりと首肯するおじさんだ。

 

「お母様もですわ! 次の日からお肌の調子がとってもいいと仰ってましたの!」


「言い値で買うわ! 売ってちょうだいな!」


 メイユェである。

 おじさんはもちろんと返す。

 

「お代はお父様に。わたくしではわかりませんから」


 がっつりとおじさんと握手するメイユェであった。


「息子よ……父はもうダメかもしれん」


「なにを仰いますか。父上にはまだまだ現役で居てもらわねば困ります。ちょうどよかったではありませんか?」


 長男の言葉に目を見開く宰相。

 そして言葉を失って、がっくりと俯くのであった。

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