第556話 おじさんの母親は悪い顔をして甥っ子で遊ぶ
カラセベド公爵家の賓客用サロンである。
急ぎ支度を調え、手土産を用意させた上で長男は文字どおり、馬車に飛び乗ったのだ。
そして王都内を走らせるには、限界ギリギリの速度でカラセベド公爵家へと向かう。
先に人を走らせていただけあって、スムーズに面会はできた。
が、肝心の妹がいない。
ルルエラはどこに行ったのだと疑問を持ちながら、長男は叔母にあたるおじさんの母親に挨拶をした。
「ラケーリヌ家嫡男、リアン=リーオン・ラケーリヌ=ピタルーガと申します。長らくの無沙汰をお詫び致します、ヴェロニカおば……」
叔母上とでも言いたかったのだろう。
血縁上の関係ではまちがっていない。
だが、おばさんと呼ばれることに抵抗があるお年頃なのだ。
たとえ意味が異なるといっても、嫌なものは嫌なのである。
だから、母親は見事な笑みを作りながら魔力を練った。
おじさんと同様とまではいかないが、それでも母親の魔力は飛び抜けている。
ガタガタと高級な家具が振動した。
それを敏感に感じとった長男は、コホンと咳払いする。
「失礼いたしました。ヴェロニカ様。本日、罷り越したのは当家の粗忽者がこちらにご迷惑をおかけしたのではないかと思いまして。そのお詫びに参りました」
名前で呼び直したことで魔力をおさめる母親だ。
同時にプランを変更する。
「粗忽者? ああ、なるほど。あなたのことね」
ほほほ、と笑いながら返す母親である。
思ってもみなかった返答に嫡男の時間がとまった。
王国の誇る三大貴族。
その一角の嫡男という立場なのだ。
基本的にいじることはあっても、いじられることはない。
家族以外には。
そしてラケーリヌ家内で、こんな辛辣の返答をもらった記憶がない。
つまり嫡男には耐性がなかったのである。
「あら? どうかなされたの? ご気分でも悪いのかしら」
言葉とは裏腹に悪い顔になる母親である。
その表情はニヤニヤとしていたものに変わっていた。
現時点でルルエラと目の前にいる嫡男のどちらをとるか。
母親の中では圧倒的に前者である。
そも不用意な言葉を発しなかっただけで圧勝だ。
ただ……それとは別に、である。
目の前の困っている甥っ子を見て、母親は思うのだ。
いい玩具がきた、と。
「嫌ね。ラケーリヌ家の嫡男が我が家を訪れて、気分を悪くして帰った。そんな噂が立てば、どうなるのかしら?」
正解はどうとでもなるだ。
公爵家のパワーを舐めてはいけない。
そんなことは噂にすらならないだろう。
だが、敢えて母親は口にしたのである。
悪い顔をして。
「……そ、それは! 申し訳ありません!」
長男は立ち上がって頭を下げる。
「あら? なんの謝罪なのかしら? 当家には謝られるような理由はありませんわよ」
なんの謝罪?
言われて長男も気づく。
完全に雰囲気に飲まれている、と。
「なるほど。そちらは波風を立てたいということなのかしら?」
あえて小娘がするように、小首を傾げる母親だ。
「い、いえ、そういうことではなく……その……」
うまく頭が回らない。
言葉が出てこない。
そのことに長男は驚いていた。
自分はもっとできると思っていたのに。
こんなものか、という考えがよぎる。
次期公爵家の当主。
その言葉の重みが急に両肩にのしかかってくる。
このような自分に務まるのか、と。
「どうにもハッキリしませんわね。やるのですか、やらないのですか。返答次第によってはお兄様にも」
どんどん話を進めていく母親である。
さすがに長男の顔も青ざめていく。
考える間もなく、不利な方へと追い詰められていくのだ。
為す術もなく、いいようにやられている。
なんなのだ。
この感覚は。
ゆっくりと蛇に飲まれていく獲物にでもなった気分である。
胃が痛い。
締めつけられるような、そんな痛みが走った。
「……奥様、その辺りでおやめになった方がよろしいかと」
侍女長である。
壁際に控えていたのだ。
先ほどのルルエラとの会談を見ていた侍女が進言したのである。
絶対に侍女長がいた方がいい、と。
英断であった。
「あら? そうかしら。もう少し楽しめるかと思ったのに。残念ね」
おほほと軽い笑い声をあげる母親であった。
同時に長男は気づいたのだ。
自らの思いからくる重圧だけではなかったのである。
知らぬ間に魔力で重圧をかけられていた。
怖気が走る。
ルルエラとは格がちがう。
先日のおじさんにも感じた恐怖と同じである。
自らの理解を超える存在に対する根源的な恐怖。
ああ――と長男は胸の裡で嘆息した。
確かにルルエラはヴェロニカ様に似ている。
が、似ているだけで本物ではないのだ。
本物とはこういうものだ。
それを理解して、長男は自然と頭を下げていた。
「ヴェロニカ様、失礼いたしました。当家のルルエラがどこに居るのかご存じでしょうか?」
「あの娘なら学園に居るのではないかしら」
カップに口をつけながら、母親は軽やかに答える。
ことり、とカップを戻してから長男を見た。
若いときの兄に似ている。
が、中身はまだまだねというのが母親の評価であった。
「学園に? なにを……」
と、口にしかけて閃いたのだ。
追いかけて行ったのか、と。
我が妹ながら行動力がある。
こういうところは王妃陛下に似たのかもしれない。
「承知しました。ご挨拶しかしておりませんが、本日は失礼させていただきます。私も学園に用を思いだしましたので」
腰を浮かせる長男であった。
「そう……私から兄上にも報告しておきましょうか?」
「いえ、それは既に当家で行なっておりますので。お気遣いだけいただいておきます」
「ふふ……また遊びにいらっしゃいな。リーちゃんも喜ぶと思うわよ」
「機会があれば是非とも。それでは失礼させていただきます」
「お見送りはしませんわよ」
ソファに座ったままで母親が言う。
その言葉に首肯して、失礼にならない程度の早足でサロンを出て行く長男であった。
時間にして五分も滞在していなかっただろう。
だが脇の下が気持ち悪いくらいに汗をかいている。
上に羽織っているジャケットが変色するほどだ。
「……父上はスゴいな」
学園へと向かわせている馬車の中で呟く長男であった。
ただ、脇の冷たさで正気に返る。
「着替えに戻らないと……」
ぼそりと呟いた言葉に哀愁が滲んでいた。
一方で長男が出て行った後のサロンである。
「ミーマイカ」
母親が侍女長の名を呼ぶ。
「ちょうどいい頃合いだったわ!」
満面の笑みである。
稚気を感じさせる無垢な笑顔だった。
「まったく。遊びすぎです」
魔力を使ってまで重圧をかけるなんてとは言わない。
その程度のことは交渉の場でも行われるからだ。
「あのくらいはいいでしょう。少しは勉強になったんじゃないのかしら?」
優雅にお茶を飲む母親だ。
それには同意する侍女長である。
「奥様、リー様がクレープという甘味を料理長に指示なさっておりまして」
「いいわね! ではお茶にしましょう。ミーマイカも同席なさい」
「御言葉に甘えます」
にんまりといった笑顔を見せる侍女長だ。
どうにも公爵家の女性は一筋縄ではいかないようである。
一方でおじさんだ。
学生会室で
「屋台と言えば、やはりクレープは外せません!」
その一言に聖女が目を見開いた。
「盲点だったー! それは絶対ね! ってか作れるの?」
「もちろんです」
おじさんは首肯した。
思いだすのは聖樹国のダルカインス氏族での食事会だ。
あのときおじさんはそば粉を使ってガレットを作った。
生地の原料がそば粉から小麦粉に変わるだけ。
大雑把に言えば、そういうことである。
ただし、今回提供するのは甘味系のみ。
惣菜系も含めると、やることが多くなりすぎるからだ。
生地を焼いて、トッピングを盛りつけて、巻く。
この工程だけですむのだから、今頃は邸でも賑わっているだろうと思うおじさんなのである。
「と言うよりも、試食用の現物を持ってきています」
「さすリー! さすリー!」
聖女がわけのわからないことを叫ぶ。
さすがリーの略だろうか。
「さすリー! さすリー!」
よくわからないが、とにかくのってくるケルシーもいる。
「蛮族一号、二号、不敬ですわよ!」
アルベルタ嬢の叱責が飛んだ。
おじさんが宝珠次元庫からクレープを取りだす。
ちゃんと紙で持ちやすいようにしてあるのが細かい。
薄黄色の生地の上にたっぷりと盛られたクリーム。
その上に鮮やかな色合いを添える果物。
宝石のように輝いて見えるのはナパージュをかけているからだ。
フランス語で塗るものを意味する言葉である。
かんたんに言えば、上から塗るためのゼリーだ。
果物に塗ることで見た目を良くし、乾燥を防ぐ意味を持つ。
「ふわぁ……」
誰が漏らした言葉なのか。
おじさん考案、季節の果物のクレープは完全に
「さっそくいただくわ!」
「ちょっと待つのです!」
ここでパトリーシア嬢が聖女をとめる。
今回は人数分しか用意していない。
一人ひとつのみ。
ただし、今の学生室にはお客さんがいる、ルルエラだ。
となると、ひとつ足りなくなるのである。
おじさんは自分が我慢すればいいと思っていた。
と言うか、作った過程で試食もしているのだ。
「ひとつ足りないのです」
「ああ――それは」
おじさんの言葉を遮るように聖女が宣言した。
「ここはクレープ争奪じゃんけん大会ね!」
うおおとケルシーが吼えた。
その声に呼応して盛り上がる脳筋三騎士。
こうして学生会室において、じゃんけん大会が開催される運びとなったのである。
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