第387話 おじさん初めての恐怖を味わう


 トリスメギストスは考えていた。

 この大天使を名のる阿呆。

 こいつをどうにかしなければならない、と。

 

 外なる世界に連なる天使であろうことは想像に難くない。

 なぜなら、おじさんのことを知らなかったのだから。

 この世界に連なる天使で、あのようなバカげたことを言う者はいない。

 

 仮に居るとすれば、よほどの阿呆だ。

 あるいは頭のネジがぶっ飛んでいる系の者のみ。

 

 いや、そんな仮定は無意味だ。

 恐らくは考えた瞬間に存在を抹消される。


『主よ、さっさと片づけてしまう……ぞ?』


 トリスメギストスは初めて見た。

 おじさんの顔が先ほどとは打って変わって、真っ青になっているのを。

 なぜ? この程度の天使であれば問題にならないはず……。

 

「トリちゃん! アミラ! 陛下! 退避しますわよ!」


 おじさんは叫んだ。

 そう――おじさんには確信があった。

 

 前世においておじさんは何度も死にかけた。

 その度に生き抜いてこれたのは直感に従ってきたからだ。

 

 肌が粟立つ。

 背すじに怖気が走る。

 

 言葉にすればシンプルだ。

 しかし、その度合いがちがう。

 この感覚は絶対によくないことが起こる。

 

 この世界に生まれて、初めての感覚だ。

 もう二度と味わわなくてもいいと思っていた特大の恐怖。


 いや正確には前世ですら感じたことがないほどの警報だ。

 直感が告げている。

 今すぐ、この場を離れなければ、と。

 

 おじさんは形振りをかまわなかった。

 短距離転移を駆使して、一瞬のうちに建国王とアミラ、トリスメギストスを集める。

 そして、逆召喚を使って一目散に退避した。

 

「……はあ?」


 おじさんの早業を大天使は理解できなかった。

 おじさんたちが居なくなって気づいたのである。

 

「なんなのよ! この私が直々に殺してさしあげようって言うのに!」


 地団駄を踏む大天使。

 その背後の空間が突如として音もなく裂けた。

 

 裂け目の向こうにあったのは、恐らくは瞳だ。

 濁った黄金のような瞳に似たなにかが、ぎょろりと大天使を捉えた。

 

「いいわ! あの生意気なメスガキ! それに家族! この世界の女という女を駆逐し……て?」


 嫌な予感を覚えた大天使が振り返る。

 そして、見た。

 見てしまったのだ。

 

 濁った輝きを放つ巨大な瞳に似たなにかを。

 その瞬間、大天使は悲鳴をあげていた。

 

「ひぃやああああ!」


 大天使の背にある六対十二枚の翼が萎れていく。

 広葉樹が葉を枯らすように、羽が羽根へと変わる。

 豊かだった金髪が一瞬にして水分を失い、ごっそりと抜け落ちていく。

 

 瑞々しかった肌は深く皺が刻まれ、美貌は老婆のそれへと急速に変化する。

 歯がぽろり、ぽろりと抜け落ちた。

 白い薄衣はドス黒いボロ布になっている。

 

「ましゃか、ましゃか……ふぁなたしゃまは……」


 それが大天使の最期の言葉であった。

 大天使の肉体が崩れ落ちる。

 土塊つちくれとなり、砂へとなり、最後には消えてなくなった。

 

 それを見届けた巨大な瞳に似たなにかは空間を閉じる。

 一瞬で裂け目は元通りになった。

 

 だが、大天使を塵へと還した力はとどまらない。

 それはアミラの管理するダンジョンそのものへと浸透していく。

 急速にダンジョンが色あせ、なにもかもが深淵へと飲みこまれてしまう。

 

 その日。

 王国から迷宮のひとつが完全に消え去ってしまった。

 現在は初級ダンジョンとして、学園生が利用していた場所である。

 幸いにして学園が休業状態であったため被害者はなかった。

 

「……ふぅ」


 おじさんは公爵家のタウンハウスへと戻っていた。

 庭にいたオブシディアンを目標にして転移したのだ。

 

 アミラと建国王はまだ状況が飲み込めていない。

 トリスメギストスも同じだ。

 

 おじさんだけが両膝をついて肩を抱き、呼吸を荒げていた。

 まだ顔色は戻らない。

 

『どうした? いったいなにがあったというのだ、主よ』


「トリちゃんは感じませんでしたの?」


『なにを……』


 トリスメギストスの言葉の途中で、タウンハウスの庭にある噴水から水が噴き上がる。

 姿を見せたのは水の大精霊であるミヅハだった。

 

「リー! 大丈夫かっ!」


 おじさんに駆け寄るミヅハである。

 

「ミヅハお姉さま?」


「大丈夫だ。決してそなたに害を加える存在ではないのだから」


 震えがとまらないおじさんを抱きしめるミヅハである。

 そこへ風が渦巻き、風の大精霊であるヴァーユも姿を見せた。

 

「リーちゃん! よかった、ミヅハもいたのね」


「うむ。ヴァーユよ、私はリーを落ちつかせる。そこの阿呆への説教は任せた」


 水の大精霊であるミヅハ。

 龍人とでも言うべき姿である。

 その尻尾がぴしゃんと地面を叩いた。


 ミヅハの視線の先に居たのはトリスメギストスである。


『いったい何が起こっているのだ』


 まるで理解できていないトリスメギストスに、ヴァーユは大きく息を吐いて見せた。


「……お母様が怒っておられるのよ」


『……主上が?』


「そう……どこかのバカが逆鱗に触れたせいでね」


 もしトリスメギストスに表情があれば、顔色が変わっていたはずだ。


『理由は……あの阿呆か』


 風の大精霊ヴァーユが大きく頷く。


「ダンジョンで良かったわ。あそこは閉じた世界だから。こちらに影響はでないはず」


『むぅ……ダンジョンのコアはどうなるのだ? アミラのコアが壊れれば主が悲しむ』


 そうなのだ。

 アミラの姿は化身アバターのようなものである。

 コアが壊れてしまえば、当然消えてしまう。


「そこは問題ないわ。大精霊たちでコアを転移させたから」


『ふぅ……それは重畳』


「……じゃないわよ! なんであんなバカを喚んだのよ!」


『いや、天に属する者の中にあのような阿呆がおるとは思わんだろうに!』


「……そんな言い訳が通ると思っているの?」


 じとっとした目でトリスメギストスを見るヴァーユである。


『言い訳ではない! 正論だ!』


 トリスメギストスが強弁したときだった。

 ゴゴゴゴと地響きが鳴り、遠くでどごおんと音が鳴る。

 アミラのダンジョンが崩れたのだ。

 

「……ダンジョン、なくなっちゃったわね」


 なぜか手を合わせて祈るヴァーユである。

 

『ええい、我が死ぬようなことを言うな、縁起でもない!』


 轟音を聞きつけたのだろう。

 公爵家の面々が庭に姿を見せる。


 トリスメギストスたちが意識をそちらにそらした瞬間だった。

 晴天がにわかにかき曇り、暗雲が雷光をまとって出現する。

 

 あ! とその場にいた誰もが思った。


 ピシャンと盛大な音を立てて雷が走る。


『ぬわああああああああああ!』


 もちろん雷に打たれたのは総革張りの本であった。

 お仕置きを終えた暗雲は一瞬にして晴れていく。

 

 ぷすぷすと煙を上げる総革張りの本が地面に落ちる。

 

 風の大精霊は息をひとつ吐いて肩をすくめた。

 そして、おじさんの母親に言える範囲での説明をするのであった。

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