第355話 おじさんに悪感情を抱く者
少しだけ時を遡る。
その日、夜も明けきらぬうちから、モッリーノ商会の会頭は商業組合を訪れていた。
商業組合の営業はしていなくても人はいる。
緊急事態も想定して、二十四時間体制を敷いているのだ。
人もまばらな中、すれ違う職員たちと挨拶をかわしながら熟練の商人は執務室のドアを開いた。
「おや? 随分とお早いですな、プエチ殿」
ははは、と笑って小太りなプエチ会頭が答えた。
「その言葉はそっくりお返ししますぞ、モッリーノ殿」
二人は顔を見合わせて、ほんの少しだけ笑う。
「ふふ……考えることは同じですな」
と、プエチ会頭。
「ええ、このような気持ちは久方ぶりですな」
モッリーノ会頭も笑顔である。
二人が頭に描いていたのは、昨日の商談だ。
「同意しますぞ。楽しい。本当に楽しいですな」
プエチ会頭が満面の笑顔をうかべた。
そんな表情をついぞ見たことがないモッリーノ会頭は苦笑してしまう。
「此度の商談、絶対にまとめねばなりますまい。手を抜くことはできませんからな」
モッリーノ会頭が真面目な顔になって言う。
「はは。あの御方ならすぐに見抜かれてしまうでしょうからな」
軽口を叩きながらも、熟練商人たちは仕事に取りかかる。
二人で相談をしながらも、確実に前へと進めていく。
一方で組合長であるマディはいつもどおりの時間に出勤してきた。
その顔は明らかに不機嫌といったものだ。
目の下にある濃い隈がその理由を雄弁に語っている。
その表情を見て、ぎょっとした職員たちはそそくさとマディの前から去っていく。
組合長の執務室のドアを開けても、マディの気分は晴れなかった。
彼女が豪華な椅子に座って、大きく息を吐きだしたときのことである。
隣の部屋から白熱した声が聞こえてきた。
プエチ会頭とモッリーノ会頭だ。
その声にマディの神経が逆なでされる。
イラッときた彼女は思わず立ち上がっていた。
勢いのままに、ツカツカと隣室と繋がるドアを乱暴に開ける。
「なにを騒いでいるの!」
自分でも思っていた以上の声の大きさであった。
そのことに驚きながら、マディは室内の様子を見る。
商会頭たちの執務室には、あれこれと書き付けた紙が散らかり倒していたのだ。
足下にあった一枚を拾いあげて、内容を見てみる。
それは昨日の商談に関する資料であった。
「組合長、おはようございます」
プエチ会頭とモッリーノ会頭が揃って挨拶をする。
「……二人はいつからここに?」
室内の様子を見れば想像がつく。
それでも聞かずにはいられないマディであった。
「今朝早くですな」
モッリーノ会頭の言葉にプエチ会頭が頷く。
「あなたたちがそこまですることなの?」
もはや呆れてしまうマディだ。
自分の発した言葉がいかに不用意なものか。
それに気づいていない。
「……組合長。いけませんな」
プエチ会頭が顔つきを変えた。
「……顔を洗ってきた方がよろしい」
モッリーノ会頭も続く。
「そんなに! そんなにあの小娘がいいわけ!」
二人の言葉がマディに火をつけてしまった。
それは嫉妬である。
マディは優秀であった。
自他が認めるほどの秀才であったのだ。
下級貴族の出身とは言え、その才覚のみで上り詰めることができる。
そう、
だから――母親を怒らせてしまった。
若さ故の過ちというべきものだ。
しかし、マディにはおじさんを認めることができなかった。
自分が尊敬する
その
だからこそ、認められないのだ。
自分の遙か上を行くような人間が、そう簡単にいてたまるかという思いである。
その思いに拍車をかけていたのが、
自分が二度も同じ過ちをしたことも認められない。
さらに自分の右腕と左腕の二人が懐くのも腹立たしいのだ。
あれくらい私にだってできる。
根拠もなく、そんなことを考えてしまう。
だから、マディは口走ってしまったのだ。
「組合長……この商談から外れていただけませんかな?」
プエチ商会頭が冷たい目をマディにむけた。
「な!? なにを!」
「私もプエチ殿に同意いたします。組合長は少し休まれた方がいい」
「な、なんですって! 二人は! 二人は!」
ぽろぽろと涙を流すマディだ。
感情が暴走しているのを、自分でも気づいていない。
完全に頭に血が上っている。
「いいわよ! 出て行ってやるわよ! ふざけんな!」
乱暴にドアを開けて、出て行くマディだ。
その危うさに二人は気づいていた。
しかし、商談と比べて彼女を取るかと言えばそうではない。
だって、二人は生粋の商人なのだから。
マディを組合長に推したのは、この二人である。
組合の重鎮たちは、まだ若いと反対したのだ。
しかし、優秀な彼女の将来性を考えて、二人は自分たちが補佐につくからと説得したのである。
不安定な部分もある。
それでも優秀なことに変わりはない。
成長すれば、良い組合長になると思っていたのだ。
だが、この瞬間に二人は彼女を
性根の部分を見誤っていたのだ。
商人として、個人の感情を捨て置いて付き合えるのならいい。
それもしない、できないと言うのなら、組合長の器ではないと判断したのだ。
苦い水を飲む胆力がない。
それは性根が据わっていないということだから。
己の不明を恥じる気持ちはある。
だが、この大商いは最初の一歩だ。
公爵家お抱えとして継続して仕事をする機会を逃せるわけがない。
つまり、損切りをしたわけである。
ただし、完全に見捨てたわけではない。
自分で立ち直るのなら良し、そうでなければという考えである。
組合を率いるのだ。
他人に依って立つ者では務まらない。
自分たちもそのように育てられたのだ。
だから、二人は心を鬼としたのである。
二人はマディのことを顧みず、時間の許す限り商談の件を詰めていく。
出勤してきた他の重鎮たちも交え、議論を交わす。
納得のいく仕上がりになったのは、さらに時間が経過してからであった。
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