七、住まう

「寝巻は私物で申し訳ないのですが、こちらを使ってください」


 風呂から上がると牡丹は東風に自分の寝巻を着せる。

 薄紅梅の地に小さなうさぎと桜が雪のように散っているそれはとても可愛らしいものであったが、東風はそれよりも気になることがあった。


「えっと……」


「どうかされましたか?」


 先程から平然と東風を風呂へ入れたり寝巻を貸したりしているが、傷を治してもらった時点でお暇しなければと思っていた東風はこの状況を上手く掴めずにいる。


「やはり私物はお気に召しませんでしたか?」


「いえ!そうではなくて……その、酒呑様は治療のために私を御屋敷まで運んで下さったのですよね?もう傷は治していただきましたし、私がここに居る意味はないと思うのですが…」


 胸の傷はそこまで酷くないし、古傷はもうきっと治らない。しかもそこまでして桜雅の手を煩わせる訳にもいかない。故にもう東風がここに居る必要は無いのだ、全くもって。

 然し、自分の言い方には語弊がある気がして、ここに居るのが嫌だと言っている訳ではなくてと付け足し、どうにか上手く伝えられないかと悩んでいると、牡丹は「いけません」と自分の口に手を軽くあてる。


「若様からの言伝をお伝え忘れていました」


「言、伝?」


「はい、その内容なのですが、東風様にはこれから此方で過ごしていただくとの事です」


「…え?」


「近頃、東風様のお住いの山付近で似たようなあやかしに纏《まつ》わる案件が増えているらしく、その件が落ち着くまでここに居るように、と若様が」


 その情報歯そこに住む東風自身も初めて聞いたものだった。恐らく麓の村に住む彼らも知らぬだろう。


「私は、全然構いませんが、村の人たちは大丈夫なのでしょうか?」


 構わないなどと偉そうに言ってしまった東風だが、本当は寧ろ有難かった。ここにいれば、当分円たちの顔を見ずに済む。それに―――

 毎度よくしてくれた和子や道代たちは大丈夫だろうかと案ずる東風は、牡丹が少し眉間に皺を寄せたことに気づかなかった。

 それも一瞬。牡丹は元の顔に戻ると東風の言葉に頷く。


「はい。まだ其方の村には被害は出ていないようです。明日から警備を強化するようなので御安心ください」


 牡丹の言葉に東風はほっと胸を撫で下ろす。

 警備が強化されるのであればひとまず大丈夫だろう。何せ、父曰く、軍人様は素晴らしいのだから。


「そういう事ですので、暫くの間わたくしのもので我慢なさってくださいね。着物も幾つか御用意致します」


「我慢なんて、寧ろお貸しくださるなんて有難いです。あの…ご迷惑をおかけすると思いますが暫しの間よろしくお願いします」


 東風は感謝と願意を込めて深く頭を下げると、牡丹は少し困ったようにお顔をお上げくださいと促す。


「こちらこそ急に申したことを快く受け入れて下さり有難うございます。私の方こそよろしくお願いします。東風様は磨きごたえがありそうで楽しみです」


 にこにこ微笑む牡丹の口から聞こえた言葉の意味はよく分からないが、何やら嬉しそうなので追究することはやめた。



 風呂場を後にすると牡丹は東風を部屋へと案内する。

 東風の歩く廊下は、この屋敷が東風の家より優に広いことが見てとれる。床が軋む音が小さいことから、恐らくまだ建ってから差程歳月が経てないのだろうと考えた。

 東風がきょろきょろしている間に東風の泊まる部屋に到着したようだ。

 が、そこは東風が桜雅に運ばれてきた部屋であった。

 広さは八畳と十分な上に、綺麗に整えられた庭園を眺めることのできる好条件のこの部屋を東風が借りるには気が引ける。

 もっと狭い部屋で十分だと申せば、部屋の大きさは何処も大差ないという。

 寧ろもう少し大きい部屋が良いかと聞かれてしまい、首が取れそうなほど振る羽目になった。

 結局、東風はこの好物件に住まわせてもらうことにした。

 いつの間にか、月は姿を消し、空はただぽつぽつと白く小さな光が淡く煌めく。



「御夕飯はどうなさいますか?」


「あ……」


 東風は今しがた己が夕食を取っていないことに気づく。然し、非日常的な驚きべきことが重なり、東風の食欲は皆無、気づかないほどにお腹が空いていない。


「えと…お腹空いてないので、大丈夫です」


 気を使ってくれたのに失礼だったかもしれないと思いつつ正直に東風が伝えると、牡丹はそうですかと言ってにっこり微笑む。


「それではゆっくりとお休みになって下さいね」


「は、はい。有難うございました」


 牡丹は寝支度を済ますとすとんと襖を閉める。

 八畳の部屋にひとりとなった東風は部屋の真ん中に敷かれた布団の中へのそりと入り込む。

 普段は藁のかますを敷いて寝ている東風にとって、背中に頭、腹の上から感じるこのふわふわは初めて体験したものだった。

 ふわふわに包まれながら、東風は今日の出来事―――日の沈んでからの出来事を思い返す。

 帰り道に化物に襲われた後、桜雅に助けてもらった。治療のため屋敷連れていかれ、そのまま滞在することになり……非日常的な出来事が幾多と重なり、もしかしたら全て夢なのかもしれないと東風は思った。然し―――


(名前を呼んでもらった)


 確かに与えられた喜びが東風の中にある。

 桜雅の大きな手も牡丹の柔らかな笑みも迎え入れてくれた温かさも東風の心に沈み込んでいる。

 例え今晩限りの夢の世であったとしても、これだけは忘れたくないと、東風は胸に手を当てる。

 そんな東風を優しく包み込むふかふかは、次第に東風の熱が伝わりほかほかとしてくる。

 そのほかほかなふわふわはまたも東風を夢の世界へと誘うのであった。


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