五、名前
わずかな沈黙のが流れた後、切り出したのは青年だった。
「名は」
「へ……ええっと…」
頭の中で円達につけられたあだ名がぐるぐると飛び交う。
"
子供たちは誰も「東風」とは呼ばず、自分たちの好きなように名前をつけて呼んでいた。
もしかしたら、そっちの名前を聞かれているのかもしれない。
東風の過去を知らない青年はそのつもりで聞いている訳では無いと分かっている。分かっていてもどうしてもその考えが東風の頭から離れない。
「…名、とは、どの名、でしょうか…」
目も合わせず俯きながら問うのは失礼だと理解していた。それでも真っ直ぐ見つめることが出来ずに伏せてしまう。
微かに震える東風の頭に、ふわっと青年の手が載る。
「お前が両親からもらった名だ」
見上げた東風の瞳に再び彼が映る。
今も変わらず無表情だが、少しだけ目元が柔らかいような気がした。
青年の手が東風の後ろ向きな考えを少しずつ消して行く。
「こ、ち…」
腹の底から絞り出すように声にする。
「みとうこち、です」
彼岸花のように深い紅に染まる瞳をじっと見つめる。
「こち…良い名だ」
声こそ単調ではあったが、そこに偽りはなかった。
飾り気のないその言葉がじんわりと東風の視界を滲ませる。
ただ名前を呼ばれただけで、その名を褒められただけで、自ずと心がぽかぽかした。
青年は名は何なのだろうか。
あの…、と声をかけてからどう聞こうかと迷っていると青年は口を開く。
「桜雅。酒呑桜雅だ」
「酒呑……」
聞いたことがあった。
今は亡き祖父が幼い頃によく
祖父の話は妖怪たちを非難したり東風を怖がらせたりするのではなく、面白おかしくてとても馴染みやすかった。
その中で「酒呑童子」という強い鬼の話があった。
誰も手に負うことの出来ない程の悪鬼を一刀で滅殺してしまった鬼。容姿も人外故の美しさだったため、生き神とまでたたえられたこともあるのだとか。
そんな方の世話になっていると気づき恐縮する東風をよそに、青年、桜雅は東風の上に載せていた手を退けると自分の背に向かって声をかける。
「柳、牡丹」
「はい、若」
「はい、若様」
驚いて声のする方へ目をやると、そこには一組の男女が綺麗に正座をしていた。
男の方は桜雅よりも少し年が上に見え、髪と瞳は落ち着いた薄い緑色、髪色のように柔らかな顔立ちをしている。
その隣の女は綺麗な黒髪を低めの位置で団子にし、紅く色づいた牡丹の花をつけている。 黒の瞳の中には小さな花が咲いており、花と同じ紅の唇に、白地に花が艶やかに散りばめられた着物を着ている彼女は、東風よりも大人びている。
東風がこちらもまた人外の美しさの二人に見入っていると桜雅はすっと立ち上がる。
「あとは任す」
「「承知しました」」
たった一言のみ二人に告げた後、桜雅は部屋をあとにした。
訳も分からずぽやっとしていると、緑髪の男、柳が口を開く。
「風呂は沸かせてあるので、其方は任せます。その他は俺が」
「承知しました。この牡丹にお任せください」
黒髪の女、牡丹がそう口にすると、柳は東風に会釈して部屋を出ていく。
牡丹は、きょろきょろしている東風に近づくと花が咲いたように微笑みかける。
「東風様、わたくし、桜雅様の式神の牡丹と申します」
「さ、様だなんて、そんな……」
自分のような村娘が様だなんて万年早いと首をぶんぶん振る東風だが、ふと牡丹の述べた言葉に疑問が浮かぶ。
「あの、式神とは何ですか…?」
こてんと首を傾げる東風に牡丹はふふっと笑う。
「詳しいことはお風呂でお話しますね」
「へ……?」
「さぁ、参りますよ」
「え、えぇ……?!」
牡丹は、何が起こっているのか分からずにいる東風の手を引っ張ると、すぐさま風呂場へと連れていく。
赤みを帯びていた半月も、今はただ淡黄の光を薄らと放っていた。
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