一、出逢い

 両親と死別してからもう早6年、東風こちは十六になり、なおも変わらず、山奥でたった一人生活を営む。

 山で取れた山菜や畑で育てた野菜を麓の村で売り、得た利益で山では取れない魚や肉を買う。

 この様に生計を立てている為、東風は毎日山の昇り降りを繰り返す。

 山の登下には時間がかかり、また夜の山道は前が見えにくい為、朝食を済ませたら直ぐに出かけ、日が傾き始めたら直ぐに帰るようにしていた。


 しかし、今日は家を出るのが遅く、また少し想定外の出来事も起こり、帰路に着く頃には、日はあっという間に沈んでいた。周りは漆黒に包まれ、南南西の空には上弦の月が紅く不気味に光る。近頃色づき始めた山桜の薄い桃色も黒に呑まれて陰となっている。


(久々につかまってしまったらこんなに遅く…)


 打たれた肩を擦りながら帰る足を早めようと踏み出した時、ガサガサと木々の揺れる音がした。


(狐が麓まで降りてきてしまったのかしら)


 東風は音のする方を振り返るが誰もいない。

 不思議に思いながらも気にせずに進もうと前を向く。すると―


 グルルルルルルル


「えっ」


 産まれてから今までの16年間、山に住み続けている東風でさえ、1度も聞いた事のない鳴き声だった。

 何故か背筋に悪寒が走る。

 先程音がした方にもう1度目を向けると、そこには、大きな口からよだれをじゅるりとすすりながら近寄ってくる、人とは異なる形をしたもの。舌は蛇のように長く、表面はぶつぶつとした凹凸があり、青紫色を帯びている。

 その気色悪い舌が東風の片足首を捉えると硬く結びつき、ぐいっと足元をすくう。


「きゃぅ」


 どたんと打ち付けられた尻に痛みが走る。手首も地を着いた時に変に曲げてしまったようでズキズキと痛む。

 足首はねっとりとした感触に襲われ、解こうと足を縦横無尽に動かせば、より強い力で締め付けられる。


「あぅ…」


 このままでは足の骨が砕けてしまいそうだ。


 今まで、気分が晴れるまで殴られることや土を食わされることはあったが、骨を折られたことは無かった。まして子供の力であったから、そう大怪我をすることはなかった。

 1番辛かったのは、そうだな、両親の墓を荒らされた後に、お前の墓も作ってやるよと土の中に埋められそうになった時だろうか。

 あの息が吸いたくても吸えない、なんとも言えない苦しさ。

 その時と今とではどちらが苦しいだろうか。


 そんなどうでもいいことさえ考えられるほど、東風の意識は恐怖と痛みによって遠ざかっていた。


 あとわずか数尺で自分はあの化物に喰われる。


 これは運命だ、天で父母が待っているはずだと自分に言い聞かせながらも、ふと思い出したのは、昔、母が読んで聞かせてくれたあの御伽話。


 ―あぁ、せめて

 素敵な殿方が迎えに来てくれたらいいのに―


 叶うはずがない。そう分かっていながらも考えてしまう自分はなんと図々しく愚かなのだろうか。

 もう目と鼻の先に化物が尋常ではない大きさの口を開けて構えている。

 目を閉じて覚悟を決めた。


 瞬間。


 東風を襲ったのは、噛み砕かれるような苦痛ではなく、ふわりと浮き上がるような感覚だった。 足首にまとわりついていたネバネバも締め付けられた痛みも、たった一瞬で全て消え去った。


 突然のことに戸惑った東風はゆっくりと閉じた目を開くと、その瞳に入ったのは容顔美麗。

 キリリとした目元には長いまつ毛。 引き込まれそうなほど美しい真紅に染まる瞳。それと同じ色をした柔らかく長く伸びた髪はひとつにくくられ、風に撫でられさらさらとなびく。

 世の女性も顔負けするほどに麗しい青年が存在したのかと誰もが思うだろう。

 東風は自分の置かれている状況も忘れ、見入ってしまいそうになった。


 しかし、東風はあることに気づく。


 でこにかかるさらりとした前髪の中から1本、牛の角のようなものがぐいっと生えている。固く結ばれた唇からはきらりと光る鋭い八重歯が覗く。


 またこの人も人外なのだと東風は理解した。

 けれども、東風が感じたのは、先程の異形に感じたような恐怖ではなく、心の波が落ち着くような安心感であった。東風を抱える大きくごつごつとした手が、あまりにも温かく感じた。


 唸り声が聞こえ、東風ははっと意識を其方へ戻すと、舌を切られ、体中にも所々切り傷を負いながらも必死に藻掻く魔物の姿があった。


(たった一瞬でこんなにも……)


 東風が驚き目を見開いた次の瞬間、魔物は地を蹴り、東風に向かって飛びかかる。


 再び襲ってくる恐怖に、反射的に男の外套をぎゅっと掴む。その東風の仕草に隠された恐怖心を汲み取るかのように、青年は口を開く。


「炎」


 青年の発した言葉と同時に、化物の傷口から炎燃え上がる。


 ギャアアアアアアア


 けたたましい呻き声がこの山一体に鳴り響く。

 ごうごうと燃え盛る炎は瞬く間に人外を呑み込み、灰へと化した。


 い、なくなった、あの、恐ろしい生き物が、たった、一瞬、で。

 単語ごとに少しづつ状況を整理していく。

 ようやく働きの鈍い脳が全て整理し終えた時、急な安堵から東風はどっと眠気に襲われた。


(待って…確か、今……)


 化物を一瞬で灰にしてしまった青年の腕の中にいる。

 その状況を東風の脳が思い出す前に、東風の意識は深海の如く深く落ちていった。


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