榛色の熱視線

如月姫蝶

榛色の熱視線

 青い鳥が飛んだ。

 それは、巨大な猛禽であり、顔面だけは、人間の女そのものだった。

 鋭い蹴爪で敵に強かに一撃を浴びせたかと思うと、その勢いのままに、空中へと舞い上がったのである。

 そして、人面鳥が哄笑しながら羽撃くたびに、その両翼から、大量の青い羽根手裏剣が、雨霰と降り注ぐのだった。

 

 獅子は唸った。闘技場の地べたに跪いて、低く唸った。その頭部は、豊かな鬣に縁取られた雄ライオンのものだ。しかし体は、筋骨隆々たる人間の男のものだった。

 先制攻撃を許してしまった彼は、咄嗟に、丸い盾を空へと翳して、羽根手裏剣を凌いだ。

 上方以外の防御は、がら空きだ。

 

 青き人面鳥は、瞬時に急降下するや、獅子の獣人の背中目掛けて、太く長い脚先の蹴爪を突き立てようとしたのである。

 しかし、獣人は、振り向きざま咆哮した。その咆哮は衝撃波を孕んでおり、人面鳥の片翼に命中して、円くくり抜いたように大穴を穿ったのだった。

 人面鳥は、途端にバランスを崩しながらも、再び上空へと逃れて、体勢を立て直そうとした。羽根手裏剣を生み出す力を、片翼の再生へと転用したのである。

 

 しかし、それを悠長に待つような獣人ではなかった。

「槍よ、我が血潮を追え!」

 呪文のごとくそう唱えたかと思うと、豊かな鬣と筋肉を躍動させて、渾身の力で槍を投擲したのだ。その槍は、あたかも熱源を追尾するミサイルであるかのように、獣人の血に既に一度塗れた蹴爪目掛けて飛翔したのである。

 そして、青き人面鳥の蹴爪ばかりか、太く長い脚を、足底より一気に貫くかと思われた、その刹那——


緊急事態エマージェンシー緊急事態エマージェンシー——

 剣闘士グラディエーターに医学的な問題が発生しました。よって、この試合はコールドゲームとなります」

 場内に事務的なアナウンスが流れたのである。


 槍は、標的を追尾することをやめ、人面鳥は身を躱した。

 空中より闘技場の地べたを見遣れば、投擲直後に突然頽れた獣人が、そのまま倒れ伏していた。

 青き人面鳥の眼差しには、敵というよりむしろ同族を見るような憐憫の情が宿っていた。




「シノブ。へえ、漢字表記は忍か! 忍者みたいでクールな名前だねえ! ハハハ……」

 エドは、傍らの子供に話し掛けたが、忍は、頑なに押し黙ったままだった。


 二人がログインした仮想空間は、静かで滑らかな一面の暗闇だった。

 エドは、「見ててごらん」と、些か悪戯っぽい調子で言って、何かをスイッチオンしたのである。

 すると、遠雷のような音を立てて、百を超えるのではないかというほどの光の柱が、整然と列を成して、闇の底から生え揃ったではないか。

「どうだい。ここは、列柱の間だよ。過去の英雄たちのアバターが保管されているんだ」

 光の列柱は照明の役割も果たして、エドの得意気な表情を照らし出した。

 しかし、忍は、俯いたまま、相変わらず声一つ立てないのだ。もっとも、情緒や意思の表出に乏しいというのは、被虐待児にはそう珍しいことではない。


 子供を育てるには、やたらと金が掛かる。

 いっそ子供を闇市に売ってしまえば、結構な金になる。

 そんな時代であるから、忍のような子供は、次から次へと供給されるのである。


 エドは、忍の手を引いて、光の柱を見て回ることにした。

 光の柱には、一本に一体ずつ、英雄——つまり、超高額の賭け金を動かした剣闘士グラディエーターのアバターが、等身大のまま封入されている。現状、使い手がいなくなったアバターばかりである。

 例えば、二人が最初に歩み寄った柱には、立派な鬣を生やしたライオンの頭部を持つ獣人が封入されていた。

「旧き良き哺乳類のロマンって感じだねえ。こういうのが流行ったこともあったけど」

 エドは、少々シニカルに感想を述べた。そう言う彼の今現在のアバターは、ドラゴンが人間よりも一回り大きい程度にダウンサイジングして、二足歩行を習得したような、いわゆる竜人りゅうじんの姿なのである。そして、裾の長い白衣を纏っていた。

 白衣は白衣でも、小児科病棟のスタッフが着用するそれではなく、古代の神官の装束をイメージした代物だった。


「シノブ! さあ、アバターを選んで、闘技場コロシアムで勇ましく戦うんだ!」

 エドは、同伴した子供を鼓舞するしか無い。

 だって、忍を虐待した挙句に売り飛ばした親たちが、医療費を支払うわけがない。しかし、医療費を納付して治療を受け続けなければ、忍は生命を維持できない。

 よって、忍は生き延びたければ、自発的な延命の権利を行使するしか無いのである。それは、仮想空間の闘技場コロシアムにおいて賭け試合に出場し、金を稼ぐことと同義だった。

「なんなら、アバターのデザインの微調整くらいは、やってあげるからさ。きみが戦ってくれるほうが、病院だって儲かるんだよ!」

 エドは、率直に白状した。神官風の衣装なぞ纏っていても、彼は、間違い無く俗世の住人だった。


 突然、忍が駆け出した。そして、柱の一本を指差して叫んだのである。

「僕は、このアバターがいい!」

 それは、驚くほど鮮烈な意思表示だった。

「どれどれ……ああ、『黒太子こくたいし』のアバターかあ」

 エドは、データを確認した。それは、黒一色の武骨な全身鎧のアバターだった。昔、そうした鎧を好んだという王族の武人に因んで、黒太子と呼ばれているのである。

「うん、カッコイイよね。いや、たまらなくカッコイイんだけどさあ……」

 せっかく忍がやる気を表明したというのに、エドは頭を掻いて何やら思案する。

「投げ銭が伸び悩むがする」

 やがて、彼は真顔で熱弁をふるった。


 賭け金より捻出されるファイトマネーは、勝者にのみ支払われる。忍の場合、その九割は入院している病院のものとなり、忍自身の取り分は一割と定められている。

 しかし、観客が推しの剣闘士グラディエーター相手に支払う投げ銭であれば、勝敗に関係無く獲得できるし、忍の取り分も五割に昇る。忍は、自分の取り分から治療費を捻出できなければ生命を維持できないのだから、アバターのチョイスからして投げ銭が伸びる方向性で検討すべきというのが、エドの主張だった。


「投げ銭が伸びるアバター?」

 忍は、小首を傾げた。

「そうだ! 今時は、可愛らしくて華のあるアバターこそが人気なんだよ。あとは例えば、戦闘中に一定のダメージが蓄積した際、ギミックが発動するとか、ね?

 みんな治療費を稼ぐために必死なんだ! クレバーに行こうぜ!」




 体長五メートル超のオルカが、悠然と空中を泳いで、闘技場コロシアムへと入場した。

 オルカはそもそも、海での食物連鎖の頂点に君臨して、「海の王者」「殺し屋」などとも呼ばれる、肉食の鯨である。

 しかし、海ではなく空を泳いで、仮想空間の闘技場コロシアムへと出現したそれは、現役の中では一番人気を誇る剣闘士グラディエーターである。その秘密は、本来ならばオルカの背鰭が存在するはずの場所に、等身大の人体から脚だけを取り除いたものが生えていることだ。その人体は、美しい少女の姿をしており、フリルやリボンで飾り立てられたメイド服を纏っているのである。

 メイドとオルカのキメラであるため、その呼び名は安直にもメイドルカだ。


 先に入場して待ち構えていた対戦相手は、メタリックな闇黒の鎧で全身を覆った黒太子だった。その正体は、観客には秘匿されていたが、「僕の考えたカッコイイ」をついぞ譲らなかった忍である。

 リアルでは子供に過ぎないが、闇黒の全身鎧にマントというアバターを纏った今、その姿は、身長二メートルばかりの巨漢と化していた。そして、ただ静かに、小揺るぎもせずに、闘技場の地面を踏み締めるその佇まいには、歴戦の強者のごとき風格が漂っていた。

 しかし、所詮は二メートルである。空飛ぶメイドルカの五メートル超の巨体が、突如、重力に従順となり、真上から黒太子目掛けて降り注いだとしたら……


 それは、むしろメイドルカにとっての自殺行為である。黒太子は、その身の丈よりも長い大剣を装備しているのだ。上空からの体当たりで潰そうとしても、逆に大剣に貫かれてしまうのがオチだろう。

 だからメイドルカは——その司令塔たる美しきメイドは、空中に留まり、両手を頭上に掲げた。すると、その手の内に、みるみる何本もの氷柱つららが結晶したのである。

「ご主人様のためなら、コロコロしちゃいますぅ!」

 美少女が、甘やかな声と顔で宣言したかと思うと、氷柱は群れ成して、黒太子目掛けて発射されたのである。


 黒太子は、まるでワルツの指揮棒のごとく軽やかに、身の丈を超える大剣を操ったのである。

 大剣の腹で氷柱を弾き飛ばしたかと思えば、すかさず飛来した第二波を、マントを翻しながらことごとく斬り払う。

 黒太子に退けられた氷柱たちは、抉るように闘技場の地面に突き立った。どうやらリアルの氷柱よりも、随分と硬く鋭く設定されているらしい。


「なかなかやりますねぇ。では、ご褒美ですぅ!」

 メイドは今度は、より強力な武器を、虚空より召喚した。それは、メイドの礎であるオルカの体長よりも長く、黄金色に輝く三叉の矛トライデントだった。

 メイドは、その細腕一本で軽々と三叉の刃を振り下ろした。しかし、その一撃には、隕石の落下のごとき威力が秘められていた。

 地震のごとき振動と共に、大地には、四方八方へとひびが走り、まさにクレーターさながらの大穴が形成されたのである。

 黒太子は、凶暴なる刃の直撃を間一髪で回避した。しかし、発生した凄まじい衝撃によって吹き飛ばされた。

 メタリックな闇黒の人影は、もうもうと上がった土煙の中、空中に放物線を描いたのである。


 海に棲むオルカは、時として、奇襲のごとく海岸へと乗り上げ、陸上の生物をも狩りの獲物とすることがある。

 メイドルカは、そんなオルカアタックさながらに、土煙の中で仄かに輝くメタリックな闇黒へと突進した。闘技場を破壊せんばかりの猛威を見せつけた黄金色の矛を、再び細腕一本で掲げながら……

「おやぁ? どこへ行きましたかぁ?」

 メイドはしかし、困惑した。

 オルカの巨体は、闘技場の壁に頭突きするほど突進した。その途中で、鋭い歯牙の生え揃ったオルカの口で、メタリックな闇黒の敵を捕捉するはずだった。

 そして、黒太子を改めて天高く放り投げ、今度こそ三叉の矛トライデントの餌食にしてやろうという算段だったのである。

 しかし、オルカの歯牙に掛かる以前に、敵の姿が掻き消えてしまったのだ。

「乙女よ、私ならここだ」

 低く渋い黒太子の声は、思い掛けない場所から聞こえたのである。


 黒太子は、実は、三叉の矛トライデントの直撃を回避しつつ、左のショルダーアーマーから、鉤爪を射出していた。それを矛の柄に巻き付けることによって、その身が放物線を描いて舞うのは、元より鉤爪と鎧を繋ぐ鎖が伸びきるまでと決まっていたのである。

 メイドは、土煙のせいでそのことには気付かぬまま、再び矛を掲げたのだ。

 黒太子はすかさず鎖を巻き取り、今や、矛の穂先に足を、柄に手を掛けて、マントを翻しているのだった。

 黒太子は、次の刹那、オルカの頭部に跳び移ったかと思うと、大剣で垂直に貫くことによって、鋭い歯牙を擁したその口を縫い止めたのである。


「ひいっ! ご主人様ぁああっ!」

 断末魔のごとき美少女の悲鳴が、闘技場に響き渡った。

 オルカは擱座し、その背に生えたメイドは、苦痛に踊り狂うようにのたうち回ったのである。


「乙女よ」

 後方宙返りによって着地した黒太子は、そんなメイドルカへと呼び掛けた。

「怪物を狩ろうとする者は、知らず知らずのうちにその怪物へと手を差し伸べているのだよ」

 黒太子は、いつしか、数多の氷の欠片を帯びていた。それはかつて、メイドルカが放った氷柱だったものたちだ。

「汝が禁断の深淵を侵すなら、深淵もまた汝を侵すであろう」

 黒太子は、メイドルカの猛攻によって生み出された、無数の瓦礫をも帯びていた。

 氷も瓦礫も、闘技場コロシアムの周長を上回るほどに巨大な円環を形成して、黒太子を中心に回転しているのだった。

 あたかも、かの惑星が帯びた環であるかのように——

 そして、黒太子だけではなくメイドルカもまた、その円環の内に存在しているのだ。


怒れる土星デア ツォルン デス ザトゥルン

 ついに黒太子が詠唱した瞬間、大いなる円環を構成する全ての物体が、メイドルカへの敵意に燃える流星群のごとく、その身目掛けて殺到したのである。


 闘技場の空中に表示されたゲージがぐいぐいと伸長して、メイドルカの被ったダメージが剣闘士グラディエーターの敗北確定レベルにまで到達した、その刹那……


 メイドルカは爆発した。どこか祝砲を思わせる音を立てて、爆散したのである。

 メイドルカが存在した場所には、綿菓子のように白い煙が立ち込めた。そして、色とりどりのリボンや紙吹雪を、闘技場一円に撒き散らしたのである。


 そして、観客席には、人魚が飛び込んだ。

 メイドルカの肉片から生まれたとでもいうのだろうか——メイドと同じ顔をした幾人もの人魚たちが、おとぎ話さながらの、そして一糸纏わぬ姿で、しなやかに空を泳いで観客席の四方八方へと飛び込んだのだった。


人魚姫のルカルカ ザ マーメイド!」

 割れんばかりの歓声が沸き起こった。観衆のアバターは非表示だが、歓声は反映されるのだ。

 観衆は、メイドルカが敗北して初めて拝める可憐な人魚たちに興奮して、その真名を飽きること無く大合唱したのである。

 

 戦いに勝利したのは黒太子だ。しかし、黄金の篠突く雨のごとき投げ銭を獲得したのは、人魚姫のほうだった。

 



 はしばみ色の瞳が揺れていた。

 そこは、酷く明るい部屋で、人間の少女は、否応無く鏡の前に立たされていた。

 榛色の瞳というのは、不思議なもので、角度によって金色にも茶色にも緑色にも、それらが混在したようにも見える。

 少女は、鏡の中の自分の体を見詰めて、榛色の瞳を揺らしているのだった。

 細い首、すんなりと浮き出た鎖骨、そして、まだまだ未熟で硬い果実のような、小ぶりな乳房……


「どうだい、シノブ。再生医療の成果ってやつは、すごいだろう?

 もちろん、きみ自身が闘技場コロシアムで頑張って治療費を稼いだ成果でもあるんだけどさ」

 エドが言った。

「いやあ、投げ銭を度外視して、あくまで勝ちに拘るきみのスタイルには冷や冷やさせられたよ。でも、最終的には、『深淵アブグルントきょう』だの、『脱がせ屋』だの、渾名が付くくらいには人気も出て、本当に良かった!」

 黒太子は、常に勝利を狙っていた。善戦してから脱ぐことで投げ銭を稼ぐ今時の流行には、頑なに乗らずじまいだったのだ。

 それでも百戦以上を戦い抜き、治療費を稼ぎ切り、生きて剣闘士グラディエーター稼業から引退できたのだから、大したものである。

「胸の傷だって、きれいさっぱり消えてるだろ?」


 忍は、そっと自分の乳房に触れてみた。そこに深く穿たれたはずの傷だけではなく、かつて瀕死の重体に陥った肉体的な損傷は、ことごとく修復されたらしい。

 表層的な虐待のダメージは、再生医療によって癒されたのだ。

「でも、僕は……」


 エドを振り仰いだ途端、その姿にかつての養父が重なり、榛色の瞳はひび割れてしまったかのように見開かれたきりとなった。

 頭部には二本の角。そして、背中には翼——エドは、仮想空間でのアバターだけではなく、現実においても生まれながらの竜人なのである。

 かつて忍を虐待した養父も竜人だった。

 そして今、室内にはエド以外にも何人かの医療スタッフがいるが、その全員が竜人なのである。


 忍は、崩れるように床に両膝をついた。嘔吐したくてたまらなかった。

「おいおい、しっかりしてくれよ! 怪我は治ったし、買い手もついたんだ。きみには、旧人類にしては悪くない生活が待ち受けてるんだからさあ……」

 エドの言葉が、どこか遠くから聞こえた気がした……




 チェルノグラード伯爵が住まう城の内部には、人間の匠が手織りしたタペストリーが、そこここに飾られていた。

 暑熱に疲弊する以前の地球の、雪景色や海辺の風景などをモチーフとした品々である。それらは皆、百年以上も前に製作されたアンティークだから、当時の匠たちは、人工的に生み出された竜人こそが世界の覇者となり、人間が旧人類と呼称されるようになった激動の時代を未だ経験していなかったことになる。


 城の子供部屋では、二つの風船が、ふわふわと飛び回り、風船に繋がれた籠からは、それぞれにはしゃいだ声が上がっていた。

 それらは、ミニサイズの気球の玩具であり、子供の一人乗り用だ。

 未だ自分の翼では飛べない竜人の幼児たちが乗り込んでいるのである。

 竜人の翼は、実のところ、飛行するという程度の代物だ。暑熱の地球上において、体温を放散することを主目的とした器官なのである。頭部の角も同様で、放熱して頭脳を保護するための器官なのだ。


「もっと高く飛ばしてよ!」

 赤い気球の男児がねだった。

「いけませんよ、シートお坊っちゃま。シャンデリアにぶつかってしまいますから」

 若い人間のメイドが、優しい声で諭したのである。

「やっぱり庭に出たいわ! この前みたいに、噴水を突っ切って飛ぶのよ!」

 今度は、白い気球の女児が言い立てる。

「メーチお嬢様、今は、噴水どころではないほどの大雨が降っています。どうか嵐が収まるまで、お部屋でご辛抱くださいませ」

 メイドにそう言われてしまっては、伯爵の子供たちに為す術は無いのだった。

 メイドは、大理石の床に横座りして、メイド服にはそぐわないヘルメットを被っている。実は、彼女こそが、そのヘルメットを介して、脳波で気球を操縦しているのだった。


「シート様、メーチ様、勉学のお時間ですぞ」

 やがて、竜人にしては小柄な老爺が、子供たちを迎えに来た。養育係の筆頭である彼は、人間のメイドを蔑むように一瞥したが、職務に忠実に二人を伴い図書室へと向かったのである。

 主人である伯爵が、威風堂々たる姿を現したからだった。


 メイドは、すかさず立ち上がり、ヘルメットを脱いだ。彼女の榛色の瞳に映る厳めしい竜人は、静かに笑みを浮かべたのである。

「シノブ、紅茶を淹れてくれ。執務の合間の息抜きには、もはや欠かせぬ味わいだ」

「かしこまりました」

 チェルノグラードは、近頃、息抜きを欲すると、忍を呼びつけるのではなく、彼女の元を訪れるようになっていた。

「不思議だな。紅茶のせいか、嵐の音すら耳に心地良い。私の巨体でもその気球で飛べそうだ」

「旦那様……そのように錯覚なさるほど、お疲れなのですか?」

 忍は、真顔で応じた。

 違う、そうじゃないんだ……

 チェルノグラードは、思わず天を仰いで、竜人用の丈夫なソファごとひっくり返りそうになった。

 彼が彼女を買い付けメイドとして、一年ほどになる。そもそもは、不慮の事故で母親を亡くして淋しがる我が子たちのために、愛玩用の人間でも飼おうと思い立ったのだ。しかし、ちょうど売りに出ていた忍の榛色の瞳を、ずっと見詰めていたいなどと感じてしまったのである。

 そして今では、こんなふうに二人きりとなると心が躍ると伝えたかったのに、大失敗したのは、おそらく、チェルノグラードの詩才の貧弱さによるのだろう。旧人類たる人間と、新人類たる竜人の知性は概ね同等なのだから。

 ただ、「食べてしまいたいほど可憐だ」など、竜人が人間相手に遣うと誤解されそうな言い回しを極力避けると、結局は伝わりにくくなるものだなと、伯爵は、脳内で反省と推敲を重ねた。


 人間はかつて、地球温暖化をコントロールできずにお手上げした。そこで、暑熱に強く体力に優れた竜人を人工的に生み出して、地球の未来を託したのである。竜人に権限を移譲した後も、人間は最後の一人に至るまで人権を保障されるという条件付きでのことだった。

 しかし、そんな約束は竜人によって容易く反故にされ、人間の地位は、家畜や愛玩動物と大差無いところまで転落したのである。

 現在も人間に認められており、「人権」の名で呼ばれているものは、しばしば剣闘士グラディエーターが行使する「自発的な延命の権利」はまだしも、「自己を食料として竜人に提供する権利」やら、「竜人の代理として刑罰を受ける権利」やら、使い勝手がどうにも香ばしいのだ。


「竜人に心を許すことは、難しいか?」

 伯爵は、そんなふうに訊いてみた。

 するとたちまち、榛色の瞳が翳ったのである。

 

 忍は、物心ついた時には既に、竜人の夫婦に育てられていた。暑熱に弱く体力も低い人間の子供を育てるには、金も手間暇も掛かるのだ。しかし、若く美しい人間は、竜人の社会では、上流階級へ贈る賄賂として重宝されていた。

 やがて、忍を貴族への贈り物とする段取りが調ったころ、養父は、何を思ってか、彼女を激しく虐待したのである。それを目撃した養母は憤激して、養父をちょん切り、忍をめった刺しにした。しかし、忍を殺すことだけは思い留まり、彼女を闇ルートで病院へと売り飛ばしたのである。

 忍は、生き延びるために剣闘士グラディエーターとなった。首から下の機能がほとんど廃絶してしまった彼女だったが、アバターや武器やその他の仮想空間におけるオブジェクトを、病床にありながら脳波でコントロールすることによって戦ったのである。

 忍は、強くなりたかった。その一方で、女の子らしい言動や、本物の姿を曝すことは忌避せずにはいられなかった。

 しかし、伯爵の元で暮らし、子供たちにも懐かれ、一年ほどが経った今、強くなるより優しくあるよう努めても良いのかもと感じ始めていた。


「わたくしは、昔の辛い記憶を忘れ去ることはできません。けれど、今となっては……確かに自分の記憶のはずなのに、まるで他人の日記を読み返しているかのような、不思議な心持ちなのです。

 旦那様やお子様方のお陰かと存じます」

 忍は、榛色の瞳で、真っ直ぐに伯爵を見詰めたのだった。

 伯爵はやおら、そんな忍の前に跪き、彼女の手を取ったのである。

「シノブ、これから先、この城のメイドではなく、女主人になってはもらえないだろうか?」

 竜人と人間の正式な結婚は禁じられている。しかし、この城の中で、シノブを実質的な伴侶とすることならば、彼女さえ応じてくれれば、伯爵の力で叶えられる。

 伯爵は、今度こそ、詩的な遠回りを一切せずに思いを伝えたのだった。

「え……わたくしが?」

 忍は、それきり言葉を失くした。しかし、その頬はゆっくりと上気したのである。


 突然、窓から爆発音が響いた。

 分厚いカーテンが燃えながら捲り上がる。

 嵐に乗じて窓を破壊し、伯爵とメイドの前に姿を現したのは——機械仕掛けの翼を生やした、人間の女、ただひとりだ。ただし、その身辺には、取り巻きよろしく多数のドローンが滞空しているのだった。

「テロリストか!」

 伯爵は吼えた。

 女は答えた。手にした銃と身辺のドローンたちから、一斉に熱線を発射することによって……


 伯爵が咄嗟に身を挺して庇ってくれたから、忍にはまだ息があった。

 ドローンの群れを従えた女は、顔の上半分を覆っていたバイザーを跳ね上げた。

 そして露わとなったのは……榛色の瞳だったのである。


「一応、礼を言っておく。引き込み役、ご苦労だったな。おまえにその自覚は無かったろうが」

 榛色の瞳の女は、忍と同じ顔と声で言った。

「僕は、おまえのオリジナルだ。だから、おまえの脳波を受信して、この場所を特定することができた」

「そんな、まさか……わたくしは……」

 倒れたメイドの声は、か細いながらも、驚きに満ち溢れていた。

 オリジナルを名乗った忍は、もはやぴくりとも動かぬ竜人の巨体を見遣った。

「人間を庇ったか。おまえは、引き込み役としては、本当に良い仕事をしたようだな。反吐が出るよ」

「そんな、わたくしは……わたくしたちは……」

「黙れ!」

 榛色の瞳というのは、不思議なもので、角度によって金色にも茶色にも緑色にも、それらが混在したようにも見える。

 ただ、オリジナルの忍の瞳には、みるみる真紅が込み上げて、血の涙と化して流れ落ちたのだった。

「この僕なんだよ! 養父母に虐待され、剣闘士グラディエーターとして生き延びるしか無かったのは!

 その記憶を移植されたに過ぎないクローンが、御託を並べるなんて許さない!」

 銃とドローンたちが、またもや熱線を斉射した。それらの真ん中で、忍の双眸こそが、暑熱の地球すら焼き尽くさんばかりの灼熱を放っていた。


 実は、チェルノグラード伯爵は、忍を買い付けようとした際に、クローンを掴まされていたのだ。彼の政敵が、密かに大金に物を言わせて、そう仕向けたのだった。

 オリジナルの忍は、その政敵の元で、剣闘士グラディエーターとして鳴らしたスキルを活用して、多数のドローンを脳波で操る戦士と化したのだった。


 チェルノグラード伯爵は、国家叛逆罪により処刑されたと、後日、正式に発表された。

 無人攻撃システム——NINJAによって、死刑は執行されたという。

 人間をそうした作戦に投入して、たとえその生命活動が停止したところで、いちいち計上する必要なぞ、ありはしないのだった。

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