くノ一、中年浪人と再会す
一
四谷見附から外堀を渡った先は伊賀町と呼ばれ、かつての本能寺の変の際に、逃亡する徳川家康を救った忍者の末裔達が住んでいた。
身分はといえば大して高くもなく、せいぜい数俵扶持の足軽長屋に毛が生えた様な組屋敷での暮らしであったが、小組頭となれば数十石取りの御家人であり、一応庭付きの屋敷の体をなした建物には住んでいた。
新月で月明かりもない夜、その屋敷の床の間で、蝋燭の明かりを頼りに鏡台に向かった女が一人、物思いに耽りながら身支度をしていた。
―――私が私でなくなったのはいつのことだろうか。
近頃美津が考えるのはそのことばかりである。
鏡に映る己には若かりし頃の溌剌とした輝きはなく、只々三十路を過ぎた血色の悪い年増女の顔が浮かび上がっている。
わかっている。容色が衰えたことがこの違和感の原因ではない。
ならばもっと前、夫と離縁となったあの時であろうか。
むしろ嫁に行った時、いやもっと前、初めてのお役目で名を捨てた時からだろうか。
深くなる思考とは逆に、美津の手の動きは早まっていく。
何度となく繰り返した動作だ。
素早く黒装束に身を固め、目の周りに黒いおしろいを塗り、黒頭巾をかぶる。
こうして今日も名もなき隠密が出来上がる。
ひとたび野に屍を晒せば、誰もこの身を認める者はいないだろう。
何ものも残さず、この世から消えるだけである。
身支度が整い、美津が鏡を前に首を左右に振って横顔を確認していると
「お頭、参りましょう」
と縁側より声がかかった。
気配は全くしない、声も低く潰していて、訓練を積んだものにしか聞き取れないようなか細いものであった。
美津は無言で立ち上がると、大小を腰に差し、音も立てずに襖を明け、縁側にするりと抜け出る。
そして佇む黒い影と合流すると、自身もまた影の一つとなって闇夜に消えていった。
二
現場は廃寺であった。
以前の大火で焼け落ちた寺の跡地に隠れキリシタンが集まっているという。
しかし集まった者たちが、正式な洗礼を受けたキリシタンではないのを美津は知っていた。
食い詰めた貧民や乞食たちを宗教的な救済の体裁を借りて炊き出し等で集めたものだ。
では誰が集めたのか。それも美津は知っている。
これは近頃幕閣で頭角を表してきた酒井雅楽頭が得意とするやり口なのだ。
即ち、宗教家や学者を装った手の者に貧民や浪人を集めさせ、それらをキリシタンや不逞浪人として処罰する。そういった自作自演で幕府への功績を稼ごうという悪辣な手法である。
美津はというと、それの片棒を担がされている役割だった。
分かっている。これは勤めである。
美津は名前を消し、心を消してお役目に挑み、自分は痛みを感じていないと信じているが、厭世的な気持ちが沸き上がってくるのを抑えられない不安も感じていた。
いつのまにか寺を見渡せる巨木の枝に美津は立っていた。
月は出てないが、雅楽頭が手配した小者が手にしている提灯の明かりで寺の中は十分に視認することができた。
美津とその配下はそういう世界に生きている。
視界に捉えることの出来た偽キリシタンは三十人前後、その偽キリシタンを捕らえるために雅楽頭が動員した小者が五十人。
そしてキリシタンの取りこぼしを捕らえたり、邪魔が出た場合の排除を行うのが、美津以下十名の伊賀者の役割であった。
伊賀者は幕閣の私兵ではない。徳川家直属の忍びである。
従って本来はこの様な企みに加担させられる謂れはないが、上様は政にあまり興味を示さないというもっぱらの噂で、近頃はこの様な幕閣による壟断が横行していた。
考えても仕方がない。心を消すのだ。所詮御目見得以下の御家人にはお上の事は分からない。
提灯の明かりは寺の中を縦横無尽に駆け巡り、哀れな偽キリシタン達を捕縛している。
このまま順調にことが進むかと思ったが、突然明かりの一角が崩れた。
異常を認めると、美津は巨木の枝から幹を伝いスルスルと降り、根本に届く前に跳躍して音もなく地面に着地した。
「浪人者の様です。遣えます」
すかさず配下の一人が忍び寄り、美津に報告する。
「飛び道具で仕留められるか」
「建物の残骸が盾になって難しゅうございます」
「私がやる」
そう言うと美津は異常の発生源へと足を進めた。
寺に近づくにつれ、次第に叫び声や剣戟の乾いた音がはっきりと聞こえてくる。
美津は寺を囲む築地塀沿いに闇の中を進み、崩れた部分から中に入り込むと、建物の残骸を背に抜き身を掲げた男が見えた。
「妻を返せ。妻はキリシタン等ではない。この集まりもお救小屋だと信じて通っていただけだ」
叫ぶ浪人風の男の周りには幾つか小者の屍体が転がっていて、既にこれに挑む者もなく小者は遠巻きに囲むだけであった。
その遠巻きに向かって背後からピィっと美津は小さく口笛を吹く。
すると、小者の中の組頭と思しき男がそれに気がつき、慌てて「持ち場に戻れ」と小者達を寺の中心部の方へ誘導し始めた。
「なんだ、どうしたというんだ」
訝しがる浪人をよそに、小物達はぞろぞろとその場を離れ、浪人一人が取り残される。
浪人がそれを追いかけようとすると、細長い金属の棒が浪人に向かって飛来した。
咄嗟に浪人は飛び退き、追いかけるのを断念すると共に、周囲に警戒を払う。
やはり千本ではだめか。
建物を背にされている以上、死角から千本で仕留めることは難しい。この場合、それなりの遣い手を確実に葬るには正面からやる他無い。
築地塀の影で闇と一体になっていた美津は、ぬっとその闇から姿を表す。
「な、何者だ」
浪人は突如眼前に現れた異様な黒ずくめの姿に驚いたようだが、手に握る剣先はびたっと美津を捉えて揺るがない。
見た目ほど動揺はしていない。
美津には分かる。剣士というものは、心が働く以上に体が動く。
美津が大刀を抜き正眼に構えると、見知った間合いに安心したのか、浪人は距離を詰めてきた。
ふふっ。
思わず美津から笑みが溢れる。
やはり好きなんだ。私はこれが。
空っぽであった美津の体内に急速に生気が充実してくる。
目は爛々と輝き、緊張から薄っすらと皮膚が湿る。
頭巾の下では上気した顔が艶を取り戻していたが、美津自身にもそれは知り得ないことであった。
喝。浪人が短く叫び、上段から仕掛けてきた。
唐竹割りか。風切り音を伴い浪人の大刀が美津の頭上に殺到する。
なるほど、これは小者などには手に負えぬはずだ。
美津は半歩飛び退くと、浪人の右腕を狙って斬り上げる。
既に浪人の唐竹割りの間合いからは逃れている。後は自ずと美津の刃に浪人の手が飛び込んで来る算段であったが、浪人は咄嗟のところで斬撃を止め飛び退いた。
「む、味な真似をする。かなりできるな」
浪人はそう吠えたが、それは美津の台詞でもあった。
どうやら互いに見くびりがあったらしい。二人は一旦距離を取り仕切り直す。
これだ、この高揚感が好きだ。
美津は嬉しくて相手に話しかけたくなったが、ぐっとそれを堪えた。
浪人は美津を安く値踏みしたことを後悔したのか、少し後退して新たな取り間合いを模索している。
剣だ。剣を振るっているときだけは私が私であることを実感できる。
忍びの家に生まれた美津は、裏の世界に生きている。もちろん幼き頃より忍びとして様々な忍術や武術を身につける必要があったが、武術だけはどうしても外で学ぶ必要があった。その際は名と身分を偽り、別人として道場に通う。そして師範代や高弟に個人的に師事し、技を盗むのだ。
美津は十二の時に名を変え一刀流の道場に通わされた。
しかしそれが却って本来の自分を曝け出すことに繋がった。
私は塗矢美津ではない。別の人間だ。むしろ塗矢美津であってはならないのだ。
この意識が己に絡まる様々なしがらみを捨て去ることに繋がり、美津は別人としてありのままの気持ちで試練にぶつかることが出来たのだ。
あの時の私こそが、本当の私なのだと今でも思う。
美津にとってそれは大切な、人生の中で唯一光り輝く思い出であった。
喜之助様、お元気でらっしゃいますか。
美津はかつての師に心で語りかける。
お会い出来なくなり久しいですが、貴方は私の技となり、今でもこうして生きておいでです。
剣を振るえばいつでも技を通じて師に会える。
剣を振るう時だけが本当の己を実感できるのだ。
物思いに耽りながらも、美津には全く隙が生じない。
物想う以上に、体が全てを導いてくれる。本当の美津が動き出す。
浪人は躊躇し、踏み込めない。どこにどう斬り込んでも、相手に刃が到達するという実感が湧いてこないからだ。
相手の萎縮を察したのか、今度は美津が仕掛ける。
構えを左脇構えに直すと、低姿勢で相手の左半身に飛び込む。
その瞬間、お互いの剣先の中空で繋がっていた間合いが外れ、崩れた均衡が次の動作を浪人に強制する。
浪人は美津を斬り落とすことを決断したと見え、剣先を少し振り上げると、猛烈な斬撃を放った。
しかし美津の姿勢は浪人が思うよりも低く、斬撃は空を斬り、すり抜けた美津は脇に構えた大刀を浪人の左腕の腋に添え、そのまま立ち上がる様な動作で通り抜けた。
美津は数歩駆け抜けると、おもむろに振り返り、再び正眼に構える。
その時、浪人の左腕が付け根から音を立てて地に落ちた。
痛みに堪えきれず、浪人は体制を崩して片膝を突き、右手に握った刀を杖に体を支える。
「待て、拙者は妻を取り返したいだけだ。お前たちの邪魔はしない。見逃してくれ」
嗚咽混じりで浪人が訴える。
決着はついた。美津の体から血の気が引き、気怠いいつもの倦怠感が体の芯から広がっていった。
「待て、一体何のためにこんな。俺たちは何も悪いことはしてないぞ」
美津は物憂げにゆっくりと浪人に近づく。
「恥を忍んでお願い申す。ここは見逃してほしい。誰にも何も言わ・・・」
浪人が話すことが出来たのはそこまでであった。
美津は怯えた浪人の目を見つめたまま、彼の首に素早く大刀を振り下ろした。
なんて冷たい眼なのだろう。
浪人の目がそう言っているようだった。
一瞬で済ませた。痛みは感じなかったはず。痛くはない。痛みはないはず。
美津はそう自分に言い聞かせた。
三
美津は気が塞ぐことが多くなった。
昔は偶に気分が優れない時があるぐらいであったが、今は調子の良い日を数えたほうが早いぐらいであった。
今日も既に昼に近い時刻であったが、美津は自室に閉じこもり、物思いに耽っている。
気晴らしに本を読み、絵などを鑑賞して見るが、やはり気分は優れない。
しばらくすると、心配した弟の平蔵が美津を訪ねてきた。
「姉上。お加減が優れないとのことで、大丈夫でしょうか」
平蔵は襖は開けずに、声だけで美津に語りかける。
「大丈夫です。少し気分が優れぬだけです。今夜のお役目にも出られます」
「姉上、今夜は私が。指揮を采るだけなら私でも」
弟の気遣いは嬉しかったが、やはり弟に任せるわけには行かない。
「いえ、本当に大丈夫です。少しすれば良くなりますから」
「すみません、姉上。私が不甲斐ないばかりに」
「いいのですよ。貴方は気にせず休んでいなさい。お体に障りますよ」
そう言われると、平蔵は不承不承戻っていった。
平蔵は生まれつき体が弱い。歳は美津より十も若いが、病魔に侵された体はまるで老人の様に皺ばり、胃も満足な料理を受け付けない。
女だてらに美津が小組頭として忍びを率いている理由はここにあった。
習慣として伊賀組の子女は同じ伊賀組か同業の甲賀組に嫁ぐ。
それは裏の仕事を行う上では必須の条件であった。
もちろん美津も年頃になった十七の歳には嫁に行き、嫁ぎ先は伊賀組与力の柘植家であった。
柘植家は伊賀の名家に端を発する旗本で、伊賀組の半数を率いる立場にあったが、美津が嫁に行った後もこの主従関係は続き、まるで一人のくノ一の様に柘植家に仕えた。
もとより武家の嫁入りはそうそう安楽なものではない。
美津も特に何かを期待していた訳ではなかったが、この太平の世で未だ有事に対している家の空気は重苦しく、昼夜心の休まるときはなかった。
そんな柘植からも、数年して子が出来ないことを理由に離縁ということになった。
何のことはない、事実は夫には外に女がいて、その女が懐妊したというのだ。
夫は無趣味で役目に忠実。美津はそう思っていた。
毎夜マメに夜回りをするのも、役目しか生きがいが無いからなのだと。
しかし実際には女の元に足繁く通っていただけなのだ。
そんなことも見抜けず何が隠密かと美津は自分を嘲笑ったが、自我のない人間と見ていた夫の意外な生々しい欲を覗き見たことで、却って好意を感じたのが不思議であった。
最初は子供だけ引き取って実子として育てるという話もあったが、美津は身を引いた。
忍びでもない者が柘植家に入るのは容易なことではないだろうが、好いた女と添い遂げるために夫はやれるだけやってみればいいと思った。
初めて夫の意志を知り、美津はそれを応援したくなったのだ。
美津はまるで夫の共犯者になったような気持ちでいた。
そして、美津はその時、己は夫を愛してはないことを知った。
それでも友情のような感情が芽生えたのは新鮮であり、嬉しいことでもあった。
離縁の話は、特に引き止められるわけでもなく、淡々と進んだ。
ひと月ほどでひっそりと実家に戻ることになったが、実家に戻れば戻ったで、年老いてお役目が難しくなった父を支える日々に忙殺された。
くノ一は多くは武力行使には参加せず、変装や潜伏を用いた諜報活動に従事する。
しかし美津は特に武芸に優れた天稟を示したため、男子のように道場に通い、剣も振るえるくノ一として育った。
それに塗矢家では唯一の男子である弟の平蔵の体が弱く、父の仕事を継げるのは美津しか無いと自他ともに認めるところでもあった。
美津が家業を継ぎ、程なくして父は亡くなった。
家督は弟が継いだが、実質この家を取り仕切っているのは己である。
最初の頃はその気負いが美津にある種の充足感をもたらしたが、しかしそれも七、八年続こうかという今日に至っては味の薄いものになり、今は只々湧き上がる虚無感に目を背ける日々である。
今夜の現場は巣鴨であったか。
雅楽頭は今度は儒家崩れに浪人を集めさせているらしい。
当初、事は順調に運んでいたというが、どうやら町奉行が浪人の動きを嗅ぎつけ、探りを入れてきているようであった。
浪人を不逞として一網打尽にするにはまだ時期尚早であったが、町奉行が密偵を放ったという報を受け、早期に事を運ぶという次第になった。
美津は気怠さをなんとか抑え込み、支度を整え門をくぐる。
お役目をこなすために巣鴨にある忍び小屋に行かなければならない。
その家屋には百姓に扮した伊賀組の小者が住んでいる。
そこだけではない、江戸を囲む農村や漁村にはくまなく手の物が生活者として潜んでいるし、町人や職人に扮した小者は江戸の市中に広範囲に渡って散っている。
美津の足は早い。昼過ぎには巣鴨村を通り過ぎると、今度は一般の人間が往来する道とは違う間道を伝ってひっそりと忍び小屋へと足を向けた。
巣鴨村からは、誰ともすれ違わずに美津は忍び小屋へとたどり着いた。
音もなく土間の勝手口を開けると、老婆が着替えを持って現れた。
美津はそれを受け取り座敷に上がると、すぐに来ていた衣服を脱ぎ、変装をし始めた。
「奉行所の動きは分かりましたか」
「はい、昨日から堀様の屋敷を囲む人数が集まり始めました。耳を使ったところ、明日夕七つに捕物があるそうです」
手を動かしながら美津は報告を受ける。
しかし思ったより早いな、美津は焦りを覚えた。
「潜入している町奉行の密偵は」
「特定できておりません。しかし、密偵と連絡が取れないということで、町奉行はクロと睨んだようです」
「何か手がかりはありますか。些細なことでも構いません」
「耳で密偵がいるということを確認しただけで、名や風体などはまだ分かっておりませぬ。堀様も誰が密偵かはご存知ない模様です」
「左様ですか」
会話をしながらも、美津はテキパキと着替えていく。
着替えが終わると口に綿を含み、化粧を施し、またたく間に隣に佇む老婆とそっくりな風貌に変わった。
「私が直に斥候に出でます。家から出ないように」
風貌が変わると、声まで老婆のものになる。
「浪人共の中で遣えるのは、荒居十兵衛、山田五郎兵衛。人相書きをお収めください」
気をつけるのはこの辺りか、後は探る中で町奉行の密偵とやらを特定できれば重畳。
老婆になった美津はしばらく人相書きを眺めると、それを老婆に返し、外に出ていった。
四
美津は堀帯刀屋敷の周りを一通り探った。
それにより、町奉行所の大体の配置を予測し、後は屋敷を出入りする浪人を野良仕事をしながら見張った。
報告通り、屋敷を出入りするのはほとんど物売りか浪人の妻子であり、通いは数名の幹部だけであるようだ。
夕刻になり、道場の稽古が終わったのか、幹部と思しき者がぽつりぽつりと屋敷をあとにする。
すると、その中で一際大きな男が出てくるのを見かけた。
あれが荒居十兵衛だな。
美津は注意深く人相書きを思い出しながら観察する。
タイ捨流の遣い手で、非凡な豪剣を遣うという。
今回の捕物の一番の注意人物ではあるが、剣士として手合わせしたいという気持ちも美津にはあった。
もう一人の方は誰か。同じ幹部の一人か。
十兵衛は一人ではない、中肉中背のなんとも特徴のない中年男と連れ立っていた。
身なりからして、同じ浪人であろうが。
美津はさり気なく耕す畝を変え、二人に近づく。
汗を拭うふりをして状態を起こし、声のする方に顔を向け、浪人の顔を覗き見る。
あっ。
その瞬間、美津は心臓から全身が一気に膨張した様な感覚に襲われた。
美津は見ている。
浪人の顔を見てはいるが、頭がカッとして、心身が硬直し、目の前に現れた現実を見ているのに理解できない。
認識できるのは、自身の大きくなった鼓動の音と、火がついたと思える程熱い耳の温度だけであった。
そして美津は呆然と二人を見送り、カカシのように畑に突っ立っていたが、暫くして漸く言語を取り戻した。
き、き、き、喜之助様。
紛れもない、十兵衛と歩いているのは、かつての師赤井喜之助であった。
なぜ、どうして。嬉しい。危ない。お伝えしないと。
美津の思考は錯乱した。
そして、頭を駆け巡る収集のつかない言葉の羅列の中で、ある疑惑がはっきりと浮かび上がってきた。
町奉行所の密偵とは、喜之助様ではないか。
美津が野良道具を片付け始めると、先程二人が通った道を一人の浪人が江戸の方へ歩いていくのが見えた。
その浪人は二人を注意深く見守り、一定の距離を保っているようだった。
二人は見張られている。
その尾行はとても玄人の仕事ではなかったので、堀帯刀の放ったものだろう。
帯刀は喜之助様を疑っているのか。どうしよう、喜之助様に伝えなければ。
空っぽの美津はもうそこにはいなかった。
つま先から頭の天辺まで、生身の自身が蘇って来たことを、まだ美津は知らない。
五
喜之助様は堀の屋敷に戻ってくるだろうか。いや、喜之助様は十兵衛と違い手ぶらだったし、彼が密偵だとしたら、町奉行所としばらく連絡が取れていないのだから、きっと戻ってくる。
でも、今日のことは奇跡のようなもので、もう会えないかも知れない。
違う、考えるべきはそういうことではない。
そんなことをしに来ているわけではない。密偵が誰なのかを確かめなくてはいけないのだ。
相変わらず美津の思考は混乱している。
美津は喜之助が戻るのであれば通るであろう道で、切り株に腰掛けて彼を待っている。
姿は農作業のものから旅装に改められており、もし喜之助が来たらどの様に会話をしようと、頭の中で何度も反芻していた。
日はすっかりと沈み、辺りを暗闇が支配し始めている。
真っ黒な夜の帳が青白い昼の名残を西へ追いやっている頃、喜之助はやって来た。
夜目の効く美津にはその姿がありありと見えている。
美津の鼓動は再び早まり、動機が激しくなる。
だめだ、落ち着け。もし、もしも喜之助様が密偵なら、私が喜之助様をお救いしなければ。
しかし、名乗ることは出来ない。私が私であることを伝えてはならない。
お役目を果たしつつ、喜之助様も救わなければならない。
美津はそう何度も己に言い聞かせた。
喜之助の腕が衰えていないのであれば、まず余人に害されることはないであろうが、それも正面から戦った場合のことだ。
少なくとも、明日町奉行所の捕物があることと、帯刀が喜之助を疑っていることは伝えなければならない。
美津の思考は定まった。腹をくくるとそこはさすがに忍びである。
動悸は収まり、美津自身は奥深くに隠れ、装っている老婆という膜に自身が包まれていった。
私には喜之助様は見えない。誰かが近づく足音も聞こえない。五感は鈍く、ただ闇に怯える老婆だ。
美津はそう自分に言い聞かせ、喜之助が近づくのを待つ。
「もし、お体のお加減が悪いのですか」
喜之助は美津に気がつくと、一瞬ぎょっとしたようであったが、直ぐに話しかけてきた。
そうだ、喜之助様はそういう方だ。何も変わっていらっしゃらない。
後は茶番である。
美津は動けないふりをして喜之助におぶさると、忍び小屋の方に向かわせた。
これで余人には私の声は聞き取りようがない、これほど密着すれば喜之助様だけに伝えられる。
しかし、美津はここで窮してしまった。一体どう伝えたものか。
そうして背中で揺れられていると、不意に少女だった頃の記憶が蘇った。
あれはいつの頃だったか。確か足場の悪い場所での戦い方を喜之助に教わった時だ。河原で足を酷く挫いた美津は、道場までの帰り道で喜之助におぶさり帰った。
いくら子供だったとはいえ、とても恥ずかしかったことを美津は覚えている。
そしてその反面、何故か誇らしく、心安らかで、全てをこの人の背中に預けてしまいたい様な気持ちにもなったのだ。
美津の中でその時の気持ちが鮮烈に甦る。そしてその想いは演技の膜を突き破り、くすぐったさとして体に影響を与えた。
美津の四肢に筋肉を伝ってそのくすぐったさは走り抜け、しがみつく体に力が入ってしまった。
すると、それが伝わったのか喜之助の上半身にも力が籠もったのを感じた。
しまった、気づかれてしまったか。
喜之助の筋肉はどんどんこわばり、緊張が伝わってくる。
こうなったら流れに任せるだけだ、美津は低い声色を作くり、まずは伝えるべきことを伝えようと思った。
「気がついたかえ。案外敏いのう」
ぎょっとした喜之助の足が止まる。そして喉から何かを絞り出そうとしていた。
「しっ、声を上げるでない。お主は監視されておる」
喜之助のうめきが止まった。
「疑われずに接触するにはこれしかなくてな。近所の婆様の姿を借りたのじゃ」
喜之助が密偵だという前提で話しかければ、きっと正直な反応が返ってくるだろう。
美津はそう期待して言葉続ける。
「よいか、お主は常に堀の手の者によって監視されておる。それ故奉行所の手の者も迂闊にお主に接触できない。そこで奉行所は強硬手段に出ることにした。お主が軟禁され、監視されておるだけで踏みこむに値すると睨んだわけじゃ。決行は明日の夕七つ・・・」
「そ、それで拙者はどうすれば」
喜之助は漸く声を絞り出したが、ここで伝え切らなければならない。
「知ったことかえ。逃げるなり奉行所と共に浪人を斬るなり好きにするがよい。これは私の気まぐれじゃ。天から降った幸運だと思ってありがたく聞くが良い」
喜之助が混乱し動揺しているのはよくわかったが、ここまで伝えれば、事態が切迫していることはわかるであろう。
当惑する喜之助をよそに、己の行動に満足した美津は再び老婆に戻り、喜之助と別れた。
六
その日、である。
美津は帯刀の屋敷を見張っているが、喜之助はいつになっても出てくる気配がなかった。
喜之助の身を案じて焦りを感じたが、いざとなればお役目に逆らってでも喜之助を救うことに心を決めていた。
元々不本意なお役目である、喜之助の命と引換えにする価値など毛ほどにも感じられない。
万一謀反が露見すれば家名に関わるかも知れなかったが、どうせ我が家は当代で絶えるのだと思えばさほど未練も感じられなかった。
これは決して投げやりな気持ちではない。
むしろ美津は高揚していた。
少しの変化も見逃さぬ気持ちで張り込んでいると、やがて帯刀の屋敷から浪人とその家族と思しき一団が足早に抜け出してくるのが見えた。
先刻荒居十兵衛が足早に出ていったのとは明らかに様子が違う。
少し出かけると言うには明らかに荷物は多いし、まるで夜逃げの一団のようであった。
そこで美津は得心がいった。
なるほど、喜之助はどうやら浪人を救おうとしているらしい。
この状況では雅楽頭陣営にも奉行所側にも浪人達を逃がす謂れがなかった。
もしそれをやるとすれば、事情を知っていて尚且つ浪人側の気持ちに寄り添える者だけだ。
自身の安全や密偵としての役目を顧みず他者を救おうとする。
実に喜之助らしいと美津は微笑ましい気分になったが、同時に喜之助が死地に身をおいていることも理解した。
何か行動を起こさねば。喜之助様が危ない。
「火薬でも使い、屋敷で事が起きている事を奉行所に教えてあげなさい」
美津は配下にそう指示をすると、素早く身につけていた忍び装束を脱ぎ、農民風の出で立ちに身を改めた。
「逃げ出した浪人達は如何ように処置致しましょう」
「それは私が今からやります」
美津がそう言うと、配下は一瞬怪訝な顔をしたが、何か一人合点した様子でニヤリと笑った。
「お頭、いえ、美津様。雅楽頭の言いなりになる必要などありませぬ。どうぞお気の召すままになすって下さい」
そうか、闇雲に権力に従うだけでなく、こういうやり方もあったのだな。
美津は新鮮な思いに身を包まれていた。
面従腹背しつつ、己の裁量の中で己が良いと思ったことをする。
こんな生き方もあったのかと、目の覚める様な思いであった。
そしてこれがずっと続いている心の高揚の理由だということも意識した。
私は喜之助様の意思を手助けする。簡単なことだ。奉行所が張っていない間道を先導すれば良いだけ。
喜之助の名を出せば逃げ出した浪人達も素直に従うだろう。
美津は自身の心が弾んでいることを意識した。
七
浪人達を無事に逃がし、奉行所が帯刀の屋敷に突入するのを見届けた後、喜之助の無事を確認して美津は配下を解散させた。
帯刀も生きていたので、きっと雅楽頭との関係を明かしたのだろう。
奉行所は雅楽頭から何らかの制裁を加えられるだろうが、類が喜之助に及ばないかだけが美津の心配の種である。
奉行所は一時的に閉鎖され、喜之助も詮議を受けているようであった。
今のうちに喜之助様の身辺を洗ってみよう。
美津は配下を使いつつ自らの足も使って喜之助の事を調べ上げた。
もう言い訳はしない。完全なる職権の濫用であるが、美津はいっそ清々しい気分であった。
調査の結果、美津は喜之助と離れ離れになったその後を知ることが出来て大いに気分を良くしたが、帯刀の屋敷の難を逃れた荒居十兵衛が度々喜之助の家の前で張っていることが判明しそれが気になった。
我々で荒居十兵衛を除いてしまおうかとも美津は思ったが、喜之助と荒居十兵衛の関係が良く分からない。
荒居十兵衛は殺気立っており、明らかな害意を持って喜之助を探していたが、浪人達を逃がした喜之助のことであるから、この荒居十兵衛も意図的に逃したのではないだろうか。
いや、それはもはや確信に近い憶測であったが、問題は荒居十兵衛本人がそれに思い至るまでにはまだ時間がかかるであろうということであった。
今この者を喜之助様に会わせるわけにはいかない。
喜之助の身の安全を思えば当然のことであった。
数日が経ち、奉行所の処罰も済み喜之助が解放されることが予測されると、美津は忍び装束に身を包み、喜之助の長屋に向かった。
雲の厚い夜であり闇は深く、忍ぶのには向いている。
既に通い慣れた道を辿り喜之助の長屋に至ると、今夜もやはり荒居十兵衛が張っていた。
まずい。
喜之助が余人に遅れを取ることはまずないとも思うが、勝負は時の運である。
それに、恐らく喜之助は荒居十兵衛を害することを望んでいない。
そうなると喜之助は大人しく斬られてしまうのではないか。
それが美津にとっては心配なのである。
やはり会わせるわけにはいかない。
であれば、止めるのは喜之助の方だ。
このことに関しては美津の思考は明晰である。
美津は音もなく長屋を離れると、喜之助が通るであろう柳橋の一角に身を潜めた。
闇に紛れて喜之助を待っていると、果たして喜之助が無遠慮な音を立てながら走ってきた。
その無邪気な騒音は、闇の住民からすればとても拙く、可愛げのあるものに感じられた。
まさか喜之助様と一戦交えることになるとは。
美津の体の芯から熱いものが込み上げて来る。
膝から力が抜け、体が小刻みに震える。
美津自身は武者震いだと己に言い聞かせていたが、実は歓喜に身を震わせているという事には思い至らない。
大丈夫だ。鎖帷子は着込んでいるし、旋棍を以って喜之助様を止めるだけだ。
体の震えはまだ収まらない。
私は喜之助様の技を知り尽くしている。それに、今の私がどれほど出来るようになったか喜之助様に見て欲しい。
そこまで思考が回った瞬間、震えは収まり美津は闇の一部となって駆け出していた。
まるで音まで闇に吸い込まれたかのように足音一つ立てない。
喜之助には美津が全く見えていない様子であった。
私を見て。
美津が先制攻撃を仕掛けた時、そう自分の声が頭にこだました。
旋棍は喜之助の左肩に当たる。
骨を折るぐらいの力で旋棍を振るったつもりであったが、実際にはさほど力がこもっていなかった事が打撃の感触で美津に伝わる。
あっ、私は。
美津は自身の中途半端さに驚き身を引いて距離を取る。
ああ、私は何をしているのだろう。
美津の心が乱れる。
私は、私は喜之助様を止めたいだけ。でも喜之助に気がついて欲しい。
美津は再び喜之助に攻撃を仕掛ける。
数合交え、わざと喜之助の太刀筋を知っていると伝えるようにこれみよがしに躱してみせた。
わかりませんか。私です。
喜之助はというと、得体の知れない敵に四苦八苦している様子であった。
なぜ私だとわかりませんか。喜之助様。この世にここまで貴方の太刀筋を知っている人間が他にいまして。
美津はだんだん腹が立ってきた。
己がここまでの思いをして喜之助に当たっているのに、彼はまるで気がつく素振りも見せない。
喜之助様の薄情者。
「諦めるのじゃ。この先に行かすわけにはいかん」
怒気を含んだ語気で美津は言う。
「お主、あの時の女だな。そうか公儀隠密であったか」
喜之助はというと、その怒気を全く見当違いなものに捉えたようであった。
憎たらしいこと。
美津はさほど力も込めずに旋棍を振るい、喜之助を打ち据える。
そして喜之助の反撃をことごとく空振りさせた。
ほほほ、喜之助様。手に取るようにわかります。かつて私に教えて下さったままの形ですわ。今の、私は、ここまでやれますのよ。
美津の手数が喜之助を圧倒し始めた。
「それほどまでに帯刀を守りたいのか」
喜之助は激昂し、動きに感情が乗って来た。
莫迦。莫迦。喜之助様の莫迦。全て見当違いです。
美津の旋棍の捌きにも感情が乗り、やがて互いに予測のつかない乱打の打ち合いになる。
「引き返せ。今日は同心の家にでも泊めてもらえばよかろう」
美津は感情をなんとか抑えてそれだけ言うと、いくらかそれに疑問を抱いたのか喜之助は距離を取り始めた。
そうです。引き返せば宜しい。私のことなど覚えてもいないのでしょう。
美津がそう悪態をついた瞬間。
あっ、突きが。
胸に脇差しを引きつける喜之助が見えた。
来るっ。
そう言語化する前に電光の様な喜之助の突きが美津に迫った。
まずい。
美津は半歩下がり旋棍交差させそれを受け流そうとする。
かっと脇差しが旋棍に当たる感触を覚え、間に合ったかと美津が安堵仕掛けた瞬間、美津の体勢は崩れ、うつ伏せに地に叩きつけられた。
あっ、しまった。突きに見せかけた切り落とし。
喜之助の脇差しは、旋棍に当たった瞬間に下方向へと軌道を変え、全体重を乗せたその斬撃は旋棍に深く食い込み、それごと美津を地面に叩きつけたのだ。
美津は咄嗟に体のバネを利用し跳ね起きようとしたが、後頭部に鈍痛が走しる。
やられた。
それでも美津は素早く上体を起こし、体勢を持ち直そうと試みたが、今度は露わになった無防備な腹部に拳を入れられてしまった。
しまった。私は浮ついていた。喜之助様が何の工夫もなくやられるわけがないのに。
後悔の念にかられつつ、張り詰めた糸を切られてしまったかのように美津の体は弛緩していき、四肢から力が抜けていった。
喜之助は「御免」と一言言うと、そんな美津に目もくれず脇差しを拾い立ち去ろうとする。
「きのすけさま、行ってはなりませぬ。その先には・・・」
その先には荒居十兵衛が待ち構えているのです。
呼吸が乱れ、美津は上手く言葉を出せない。
当然声色を作る余裕なども失われている。
一瞬、喜之助は何か思い出したかのような素振りを見せたが、すぐに思い直したかのように懐紙で脇差しを拭うと乱れた着衣を直して背中を向けた。
「おねがい・・・きょうは引きかえし・・・」
その懇願はまだ喜之助に聞こえる距離であったが、彼が足を止めることはなかった。
八
呼吸が整い動けるようになると美津はすぐに喜之助の後を追った。
喜之助の長屋に着くと、そこに二人はおらず、また争った形跡もなかった。
もしかしたら和解できたのかも知れない。
少なくとも殺し合いにならなかったことに美津は安堵したが、二人が和解してこの場にいないとなればやることは一つであろう。
堀帯刀を斬るのか。
これに関しては何の不安もなかった。
喜之助一人でも恐らく何の問題もなく帯刀を斬ることが出来るであろう。
それが荒居十兵衛と二人がかりなのであればまず討ち漏らすことはあるまい。
本来は帯刀の身を守ることも美津の任務ではあるのだが、幸いにもその仕事は既に終わった、と解釈できなくもない。
まあ、袖すり合うも他生の縁。関わった者として骨を拾って差し上げましょう。
そういう気持ちで美津は向島の渡しに向かった。
向島の忍び小屋には帯刀の旅道具が用意してあり、今晩はそこに泊まる手筈であった。
今は吉原にしばしの別れを告げている頃合いかしら。
痛む体をだましだましなだめながら美津は吉原に向かう。
喜之助様は堀帯刀がどこにいるのか分かってらっしゃるのかしら。
こんなことなら素直に帯刀の居場所を教えてあげればよかったかも知れない。
しかし全ては済んだ事だ。
帯刀がどうなるにしろ、事の結末を確認しようと美津は思った。
大川の堤防沿いを歩き吉原に至ると、美津は吉原の忍び小屋に立ち寄った。
配下の報告によると帯刀はまだ妓楼から出ていないらしい。
とすれば、待つのであれば向島の渡しである。
帯刀に関して喜之助が何らかの情報を得ているのであれば、きっと彼らもそこで待ち伏せするだろう。
喜之助様は明らかに今夜帯刀を斬るつもりでいた。
先程の喜之助との戦いで、彼の口ぶりからそう感じた。
それのあの急ぎようである。
やはり帯刀に関して何らかの情報を得ている可能性は高い。
吉原を出て向島の渡しに着いた美津は、河原の草叢に身を隠し、喜之助の到着を待った。
しかし、待てど暮せど喜之助はやって来ない。
何をしているのかしら。先に長屋に帰ったはずなのに。
このままでは帯刀が来てしまう。
美津はやきもきしたが、まさか己が帯刀を斬ってしまうわけにもいかない。
吉原で何かあればすぐに知らせるように配下には言ってある。
今は待つより他に方法がなかった。
そしてまた暫くして、足音が一つ堤防の方から降りてくるのが聞こえた。
ああ、見てご覧なさい。帯刀が来てしまったではないですか。
美津は喜之助の為に心底腹を立てていた。
そして己の立場を思うとそういう己におかしさも感じていた。
人の世とはままらならぬもの。
これも一つの結果であろう。
渡しに乗る帯刀を眺めつつ、公儀の犬としてはこれも受け入れるべきかと無理矢理納得しようとしていた時、騒がしい二人分の足音が聞こえ始め、ようやく喜之助達が現れた。
遅い。喜之助様の莫迦。
帯刀は既に向こう岸に渡り終えている。
それを見て二人は地団駄を踏んでいた。
その時である、突然闇の中からとても肥えた男が現れ帯刀の前に立ちふさがった。
その男は美津と同じ様な黒装束に身を包み、闇に紛れて身を潜めていたようであった。
「何者だ。拙者は堀帯刀と申す。人違いではないのか」
かすかに向こう岸から帯刀の声が聞こえる。
そう、何者だろう。同類ではあるようだが、我々の一党の者ではない。
美津の知る限り、伊賀組にも甲賀組にもあの様な風体の男は存在しない。
「身に覚えはあるでしょう。俺はね、最初あんたを見逃そうと思ったんだ。飲み込むべき理不尽もあるってね。でもある方の言葉で心変わりした。そしてあんたの始末を託そうとした」
「何の話だ。おい、聞いていないぞ。誰ぞあるか。曲者だ」
「でも俺は己を恥じたね。あの方に託すような事じゃない。俺自身が始末をつけなきゃならない。失われた命、かかされた恥、全ての落とし前をつけてもらう」
「貴様、どこの手の者か」
肥えた男が無言で刀を抜く。
それを見て私の船頭が悲鳴を上げて岸を離れた。
あの口ぶり、あの体格。そうか、見覚えがある。あの男、確か八丁堀の入江とかいう。
まさか奉行所の者がこの様な暴挙に出るとは美津は想像もしていなかった。
本来であれば美津は帯刀を助けなければならない立場であったが、今はとても助太刀する気にはなれない。
こうなれば成り行きに任せてしまおうと美津は腹を決めた。
やがて彼らの対峙に喜之助達も気がついたと見え、喜之助からも声が上がる。
それを合図に帯刀と入江正太郎は斬り結んだ。
帯刀は入江の足を狙った居合い斬りを放ったが、正太郎の跳躍はそれを軽々と乗り越え、一太刀で帯刀の頭蓋から胸元までを斬り裂いた。
凄まじい腕である。
美津は思わず息を呑んだが、それは喜之助達も同じであるようだった。
ほんの少しの間の事であったが、事態を飲み込み始めた時には対岸に既に正太郎の姿はなく、どうやら全ては終わりを迎えたようであった。
帯刀の屍体を片付けなければ。
美津はぼんやりとそう思ったが、それはあとで吉原の忍び小屋に命じれば良いだろう。
喜之助と十兵衛は少しその場に留まった後、何やら楽しそうに歓談しながら堤防を登り始めた。
私はこんなに近くにいるのに。莫迦な人。
美津は苛立ちを隠せず悪態をついたが、喜之助の事になるとなぜ己がこんなにも感情的になるのか理解できなかった。
なぜかしら。今までこんなことはなかったはず。
忍びとして心を殺してお役目をこなしてきた。
冷徹な忍びである己に、この様な稚気が残っていようはずはないのに。
草叢にしゃがんだまま美津は動けない。
まるで不貞腐れた幼児のように手で草を遊ばせたまま、これからどうすればいいかとぼんやり水面を眺めていた。
月明かりが美津の顔を薄く照らし、水面に映している。
水面に映った美津の顔は水流によって歪められ、様々に変化していた。
―――――よ。
すると突然若い女の声が聞こえた。
美津は驚いて耳をそばだてたが、声は水中から聞こえているような気がした。
馬鹿馬鹿しい。疲れているのかも知れない。他人をあやかす側の忍びが、この様な幻聴を聞くなんて。
実際、ここのところ働き詰めであった。
これが終わったらしばらく暇を請うのも良いかも知れない。
―――――よ。
声はまだ聞こえる。
美津は目眩に襲われた。
疲れている上に、近頃は心を揺さぶるような事象が多すぎた。
美津は気を取り直すために、水面に映った自分に向い「お前が喋っているの」と戯けて訪ねた。
「莫迦ね、それは喜之助様を愛しているからよ」
すると水面に映る美津が今度ははっきりと答えた。
「あっ」
驚いた美津が改めて水面の美津を見ると、そこには剣の修業に明け暮れた在りし日の己が映っていた。
ああ、あなた。そこにいたのね。
莫迦ね、私はずっとここにいたのよ。
おかえりなさい。
美津は水面に映る己を両手で掬い取ると、思いっきりそれを顔に当て続けてザブザブと顔を洗い始めた。
闇に紛れる為の黒い化粧が洗い流されていく。
そうか、私は愛していたのだ。喜之助様を。
この感情はまるで生娘のような幼いものであった。
己を殺してきた私には、こういう感情を成長させる機会がなかった。
それは羞恥を伴う発見だったが、それ以上に喜びのほうが大きかった。
私はあの方を愛している。機会を作って喜之助様に会いに行こう。
その時は口より先に手が出そうだなと美津は心の中で舌を出すのであった。
終
中年浪人用心棒になる 遠藤伊紀 @endoukorenori
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