中年浪人密偵になる


今川橋跡の名無し料亭の座敷で喜之助は穴子に舌鼓を打っていた。

以前の仕事で覚えたこの贅沢は、喜之助の密かな楽しみとなっており、小金ができると度々足を運んでいる。

店名も看板もない料亭であるが、喜之助にとっては既に勝手知ったる店となっており、敷居を跨げば女将が「あら、赤井さん。今日は良い穴子が入りましてよ」といった具合なのである。

いやはや、鰻も美味いがふっくらと煮られた穴子も捨てがたいな。そう思いつつ冷たいのをくいっとやると、一瞬の清涼感の後に、喉元からくっと熱い感覚がこみ上げてくる。

「人の生活はこうでなくてはならん」喜之助はニヤニヤと口元を緩めながらもっともらしく独り言ち、実にいい気分であった。

すっかり人間様になりきった喜之助がお代を払い帰路についたのは、既に日が傾いてからであった。外は晩秋の木枯らし吹いており、火照った喜之助の体を冷たい乾いた風が心地よく撫でていった。

ああ、いいなあ。今日は全てが上手く行っているではないか。意図したことが、意図した通りに進んでいく。それだけで強い充足感を得られるものである。

料亭のお代も三百文と、月に一度の贅沢にしてはちょうど良かった。

初夏のあの事件があった後、喜之助の懐事情は多少改善し、太吉の言う「おいしい仕事」を定期的にこなすだけでじゅうぶんに生活が成り立っていた。

もちろん生活に不安が一切ないわけではないが、とりあえずは重畳といったところであった。

喜之助は神田川沿いを涼風にあおられながら歩き、河岸に並んだ柳の葉もサラサラとなびいている。

往来には夜の到来に早足になっている人たちが行き交い、家路を急ぐ黒い影が喜之助を追い越していった。

それぞれの顔は判別できず、まさに黄昏時だなと喜之助が思ったとき、その影の一つが喜之助を認識したように近寄ってきた。

「赤井の小父様・・・」

薄ぼんやりとした影が喜之助をそう呼んだ。姿かたちからするとどうやら少女のようである。

四十男の喜之助は夜目が少しずつ効かなくなってきている。この声に聞き覚えがあるが確信はできない。

「さかえ殿か」

喜之助が不安げに影に声をかけると、影はにわかに人の形を取り始め、やがてさかえになった。

「小父様、大変なんです。お家にいらっしゃらなかったものですから、探してまわりました」

さかえの声は震えていた。その尋常でない様子に喜之助は驚き、よくよくさかえの表情を見てみると、今にも泣き出しそうな顔であることが分かった。

「なにがあったのだ。話してみなさい」

喜之助がそう言うと、さかえは乱れた呼吸を整え、少し間を置いた後事情を話し始めた。

「北町奉行の御用だって、岡っ引きがうちにきて、この前の件についてお取り調べをするって言うんです。それでおとっつぁんが八重洲に連れて行かれて」

「なんだって。しょっぴかれたのか」

「いえ、お縄になったわけじゃないんです。でも事情を聞きたいって。それで小父様も探して連れてこいって。この前のことではたくさん人が亡くなりましたから、私心配で」

これは困ったことになった。喜之助は暗い気持ちになったが、さかえを更に不安にさせる訳にはいかない。

「大丈夫だ。一度家に帰ってすぐ準備をする」

そう言うとさかえを伴い柳橋の我が家へと急いだ。

喜之助の完璧な一日はあっさりと崩れ去った。



喜之助が八重洲にある御番所に出頭すると、門番には既に話が通っていると見え、すぐに白州に通されることになった。案内役の同心が門まで出てくると、残されたさかえが心配そうな顔で喜之助を見つめた。

さかえをどうするか。若い娘をこんな時間に外で待たせておくわけにはいかない。そう思って喜之助は思案する風を見せたが、意外にも同心がそれを察したのか、「中で待っていなさい」とさかえに優しく語りかけ、門番に奥に連れて行くように指示を出した。

この同心は丸々と太っており、夏でもないのに汗をダラダラと流し、農民のように手ぬぐいを首にかけていた。同心といえば江戸では粋でいなせな通人の代表格とされているが、この様なむさ苦しい者も居るのかと意外であった。

しかしそれはそれとして、この同心の気遣いには助かったので、「かたじけない」と喜之助が礼を言うと、同心はニコリと笑ってそれに応じた。

お白洲に着くと、そこには先に太吉がひょっこりと座らされており、その憮然とした様子はまるで神社の狐の置物のようであった。

稲荷寿司でも持ってくればよかったかな。喜之助は平静を装うために、心中でわざと冗談を言ってみる。

「太吉の隣へ。どうぞお座り下さい」

しかし同心は喜之助を想像の世界に留めてはくれず、彼は仕方なくそれに従った。

白州の砂利の上にお座りになるもクソもあるかと喜之助は腹が立ったが、そのやけに丁寧な言葉遣いには有無を言わさぬ威があった。

これが御公儀の持つ力というものであろうか。喜之助は少し睨むように同心を見返したが、当人は相変わらずニコニコとしていた。

「与力の伊沢様がいらっしゃいます。正直にご質問に受け答えするよう、お願い致します」

そう言うと同心は伊沢とやらを呼びに奥へ下がった。

「太吉、なにか聞かれたか」

喜之助はすかさず太吉に話しかける。

「いえ、まだなにも・・・」

さすがの太吉もお白洲に座らされてはいつもの勢いも出ないと見え、青い顔に虚ろな目を浮かばせていた。

「奉行所の意図がわからん。この前の人死にの後始末は、多古老人一派が片付けたのではないのか」

「そのはずですが、さすがに御公儀にはお見通しであったのでしょう」

「つまり、あの藩の瑕疵を探して追求するために我々を詮議するのか」

「どうでしょう。今表立った行動を起こしては、多古様に証拠を隠蔽する暇を与えてしまうのではないでしょうか」

太吉は少し落ち着きを取り戻したようで、冷静な意見を言った。

「では他に意図があるというのか」

「まず、罪人扱いされているわけではありませんし、向こうの出方を見ましょう」

太吉そこまで言うと、ちょうど奥から人の声が聞こえ、二人は黙った。

襖の奥から二人の人影が出てくる。片方の丸い方は先程の同心であろう。するともう片方の細長い方が伊沢という与力ということになる。

暗くてよく見えないその細長い影は、二人を見かけると「吟味ではない。白州に座らせるとは失礼ではないか」と同心を叱責した。

すると同心はさほど恐縮した様子もなく「は、では上がって頂きます」と答え、小者に水が入ったたらいを持って来るように指示を出した。たらいは既に用意されていたと見え、二人の足は迅速に洗浄された。

「ではお二方、こちらへ上がって下さい」

太った同心がそう促すと、「見え透いた小芝居を」と、太吉が喜之助にだけ聞こえる小声で忌々し気につぶやいた。

調子を取り戻してきたな。と、喜之助はそれを頼もしく思うと、指示されるままに座敷の下座に座り、与力と対面した。

「私が伊沢将監である。その方たちに訪ねたいことがあってご足労願った。その前に事の顛末を確認したい」

そう言うと将監は喜之助と太吉の生い立ちや現在の生業、この度の騒動の経緯を淡々と述べ始めた。恐らくそれらは岡っ引き等に調査させたものであろう。

燭台の炎に照らされた伊沢の顔は、ギョロ目と丸い口が特徴的であり、喋る様子はまるで池で餌を待つ鯉のようであった。

鯰髭をつけたらさぞ似合うであろう。喜之助は心中でそう茶化しながら、将監の口が止まるのを待った。

「その方たち、これで間違いはないか」

「ははっ」

将監が内容を確認すると、二人は一応畏まった態度でそれに答えた。

「うむ。知っての通り公儀では私闘を禁止しておる。まして数人も斬り殺したとなっては、その罪は免れ得ることはできない。それは実行した者も、それを仕事として手配した者も同様である」

喜之助はギクリとしてつい太吉の方を見てしまったが、太吉は意外にも涼しい顔をしていた。

「これに対して何か言いたいことはあるか」

「では、恐れながら申し上げます」

太吉は落ち着いた声色で反論をし始めた。

「此度の仕事は当初、ただの護衛ということでございました。この様な危険があることを知っていれば私も引き受けは致しません。まして、この赤井様は私に危険はないと説得されてお引き受けなさったのです。加えて申し上げますと、起きました争い事は全て襲われたものであり、こちらから誰かを襲っただとか奪っただとか、そういうことは一切ございません」

よく臆することもなく言えるものだと喜之助は感心したが、太吉からしてみれば自分だけの問題ではない。巻き込んでしまった喜之助を守るためにできることは全てする腹積もりであった。

「ほう、その方らに落ち度がないというのであれば、何故奉行所に届け出なかったのだ」

「そ、それは」

「雇い主の意向か。ことを荒立てて公儀に痛い腹を探られたくなかったのであろう」

藩で内紛があった場合は、藩主に藩を取りまとめる能力がないということで、お取り潰しになる可能性があった。多古甚兵衛としては当然あの様な事件はもみ消すし、太吉もここで雇い主の話をするわけにはいかない。問い詰められて太吉は窮して黙り込んでしまった。普段は弁が立つ太吉も、本職にかかれば赤子のようなものであった。

将監はというと、自分の弁にじゅうぶんに効果があったことを確かめるように、少し間を置いて話を続けた。

「よい、今日はそのことが本題ではないのだ」

「で、では何を」

「昨今、不穏分子が江戸に流入してきているのを知っておるか」

将監は、獲物を追い込んだ狩人の様に満足げな表情を浮かべている。

「いえ、存じ上げませぬ」

「浪人の首魁が、不穏分子を集めて公儀にたてつこうとしていることが、我々の調べでわかったのだ」

将監はそう言うと喜之助に視線を向けた。今度は喜之助が言葉に窮する番であった。将監の話に全く心当たりはないが、自分が疑われているのだろうか。

「あ、赤井様はその様な企みには加わっておりませぬ」

「知っておる。赤井喜之助は善良よ」

慌てて太吉が弁護したが、将監はそれをからかうように笑うと、急に居住まいを正し、改まった調子で言った。

「奥州浪人赤井喜之助。そなたに密偵となって不穏分子を調査することを命ずる。これにより先日の件は不問と致そう」

あ、そういうことか。喜之助はやっと将監らの意図を理解した。

太吉は不安そうに喜之助に視線を向けたが、喜之助は話が分かれば腹が据わるのも早かった。

「お引き受け申す。それで太吉も罪に問われないのですな」

「赤井様、私に気遣いは不要でございます」

「よう申した。細かなことはこの入江に聞くが良い」

そう言うと将監は立ち上がり、さっさと奥に入っていってしまった。

残された同心、この肥えた男が入江なのだろう。

「ご苦労でした。太吉殿は娘さんを連れて帰りなさい。夜も遅いので警護の者をつけましょう」

同心が手を叩くと、控えの間から小者が出てきて、太吉を連れ去ろうとした。

太吉は少し抵抗し、まだなにか言いたそうであったが、喜之助が首を振ると諦めたように退出した。

「これからお世話になります。私は定町廻り同心の入江正太郎と申します。早速ですが詳しい話をしたいので、我が家へ移動しましょう」

正太郎は弾む毬の様に丸い体を上下させながら、にこにこと頷いている。それに促されて喜之助が立ち上がると、二人も部屋を立ち去った。



八丁堀にある入江正太郎の自宅は、百坪はあろうかという敷地に自宅と貸出をするための長屋が建っており、典型的な同心の屋敷という佇まいであった。

同心は名目上一代限りの役職であり、世襲はしない。しかし非常に専門的な知識と人脈を必要とする仕事のため、実際には世襲が行われていた。扶持も三十俵二人扶持と大変安く、いかにも罪人を扱う賤職という扱いであったが、実際には幕府から与えられた広大な屋敷の一部を長屋にして貸し出したり、町人や商人から心付けを貰ってお目溢しをしたりして暮らしており、それなりに裕福であった。

その羽振りの良さと、江戸中の悪を相手に渡り合う垢抜けた感じが、いかにも粋だと庶民には人気のある職業であったが、しかしである。今喜之助の目の前に座っている巨漢はどうにもその印象には合致しない。

正太郎は応接間に喜之助を通すと、自ら茶を淹れ振る舞っていた。

火鉢と鉄瓶を置いているため湯気で部屋が蒸し、正太郎はしきりに手ぬぐいで汗を拭いている。

「ふぅ、ふぅ。秋とはいえまだまだ暑いですね」

汗をかいているのは正太郎のみである。

「要件をお聞かせ願いたい」

「まあそう焦らずに。お茶でも一服どうぞ」

そう言いながら正太郎はちらちらと喜之助の杯の茶の残り具合を気にしている。

大層のんびりとした御仁だ。仕方なく喜之助は仕方なく茶をぐいっと飲み干すと、正太郎は喜びの表情を浮かべまた茶を注いだ。

「やってほしいことはですね。浪人の集まりへの潜入なんです。なんせ浪人の集まりですからね、我々がこんにちはと入っていくわけにもいかない。しかも相手にほだされて感化されるようなことがあってもいけない」

正太郎の口調は段々砕けてきた。

「それで、脅すことができる浪人を探していたということですか」

「いやいや、面目ない。なにしろ今回は身内に適役がおりませんでして。しかも私はご覧の通り、剣なども一切使えませんから、腕が立って信頼できる御仁を探していたという次第です。本来なら自分で片付けてしまいたいのですが」

調子の良いやつだと喜之助は思ったが、確かにこの体ではなにかあったときに対処をするのは難しいであろうと思った。それにさかえや太吉への気遣いを見るに、悪人というわけでもないらしい。まずまず如才なく有能な官吏といったところであろうか。

「明日朝ですね、私の配下の岡っ引きに引き合わせますから、もう一度この屋敷に来ていただけますか。そのあとは岡っ引きに従って浪人が集まっているところへご案内しますから、そこから入り込む手立てを考えましょう」

「承知致した」

「あっ、来ていただく時はほっかむりかなにかで顔を隠していらしてください。我らの繋がりを何処かで見られてしまっては元も子もないですからね」

なるほど、やはり如才ないようだなと喜之助は思いそれにも「承知致した」と返事をした。

「ではこれで失礼致す」

そう言って喜之助が立ち上がると、正太郎も慌てて立ち上がり、紙包みを喜之助の手に握らせた。

「これから入用なことがあるかも知れませんからな。自由にお使い下さい」

喜之助は内心これは使わないで最後に突き返してやろうと決心すると、あいさつもそこそこに正太郎の屋敷を辞した。


次の日、ほっかむりをし、傘を深く被った喜之助が正太郎の屋敷を訪れると、彼は外に出ているという。呼びつけておいて何だと喜之助は腹が立ったが、屋敷の小者は「旦那はきっと長屋にいるから」と言うと喜之助を裏木戸から長屋へ連れて行った。

長屋に入ると正太郎はすぐに見つかった。井戸端の広場ではちまきをし、息を切らしながらなにやら盛んに木材を鋸で切っている。

「お亀婆さん、こういったことは無理にやっちゃあだめだよ。声をかけてくれればすぐに手伝うんだから、水臭いことはなしにしてほしいな」

「勿体ないですよ。旦那にこんなことやらせるなんて、却って恐縮しちまいますよ」

そんなお亀婆さんをよそに、正太郎は障子を直すのに熱中している。見た目に反して手際はよく、あっという間に格子が折れた障子を直してしまった。

満足のいく仕上がりだったのか、正太郎はしげしげと出来上がりを眺めていた。すると今度は赤子を担いだ女が正太郎に話しかける。

「旦那、実はうちの雨漏りが酷くって、直してもらえないでしょうか」

「なんだって、それは大変だ。今すぐに直しますよ」

頼られるのが好きなのか、新たな依頼に正太郎は目を輝かせた。

「いえ、旦那に直して貰おうっていうんじゃなくて、大工を呼んで・・・」

しかし正太郎はもう厠に立てかけられた梯子に手を伸ばしている。

梯子を持ち上げ振り返り、屋根に登れるように立てかけようとしたとき、視界に喜之助が入ったらしい。

あっ、と正太郎は声を上げると、バツの悪そうな顔をして、女に「待っていて下さい。後で人をやりますから」と言うと、喜之助の方へ向かってきた。

これはあれだ、なんでも自分でやらないと気がすまない性分だ。喜之助はそう理解すると、少し可哀想な気もしてきた。本来できるのであれば自分で潜入したいというのは、案外正太郎の本音なのではないか。

「いやはや、一仕事してお待ちするつもりが、却ってお待たせしてしまったようで。面目ないです。岡っ引きの安次も来ているでしょうから、屋敷に戻りましょう」

屋敷に戻ると正太郎は喜之助を応接間に上げた。そこには既に安次と思われる男が座って待っていたが、正太郎は「ちょっと失礼」と言うと、二人を引き合わせもせぬまま紬を脱ぎ捨て、庭へと降りていき井戸で豪快に水浴びをし始めた。

それが応接間から丸見えであったが、正太郎も安次も気にしないらしい。

あるいはこれはいつものことなのかもしれない。

ざぶざぶと激しい音を立てた水浴びが終わると、どこからともなく小者が手ぬぐいと着替えを持って現れ、正太郎は入念に体を拭くとふんどしを締め直し、紬を被り帯を締め、まるで舞台劇の様な流暢さで元の正太郎に戻った。

「ふぅふぅ。お待たせしました。まだまだ暑いですからね。これが一番効くんです」

そう言うと正太郎はやっと座り、お茶の準備をし始めた。

「お茶は結構でござる」

堪らず喜之助がそう言うと、正太郎は少し寂しそうな顔をした。

「いや、申し訳ない。大したお構いもできず」

「入江様の奥様はご病気なんでさあ」

正太郎の代わりに安次と思しき男が補足をした。どうやら自分の主が客に理解されていないのが不満らしい。先程の長屋の住民もそうだが、正太郎という男は周りから慕われている様であった。

「いや、お恥ずかしい限りです。家内はここ数年気鬱の病になってしまいましてな。極力それがしが家のことをやるようにしているのです」

喜之助は段々この男に気を許しても良いような気がしてきた。

少なくとも他人の痛みの分かる男ではあるらしい。

「いえ、こちらこそ事情を知らず失礼致しました」

そう素直に喜之助が詫びると、安次も表情も少し緩み、正太郎は「ではでは」と言いながらお茶を淹れ始めた。

安次の話によると、浪人たちは中山道巣鴨の外れに隠れ家を持っているらしい。その隠れ家は堀帯刀という浪人がやっている国学の私塾であり、他に剣術なども教えているそうだ。そこに出入りする浪人の数が近頃多くなってきているという住民の密告を受け、奉行所は調査を続けているが、不穏分子が集まっているらしいという大まかな状況しか窺い知ることができなかった。

そこで間諜を潜り込ませようという話なったのであるが、それで白羽の矢が立ったのが自分であると思うと喜之助はあまり良い気持ちがしなかった。

大体の説明を受けた後、ではどの様な方法で潜り込もうかという話なると、正太郎が「私に策があります」と目を輝かせた。



巣鴨の町は中山道沿いにあるが、江戸に近いため街道の宿場町というわけではなく、近年は江戸の街の拡大とともに、その一部である様相を呈している。とげぬき地蔵で有名な高岩寺が巣鴨に越してくるのは明治時代の半ばの頃であるので、この時代にはまだない。

その人通りの多い巣鴨の旅籠町の往来で、怒号を上げている男がいた。

「やい、すっとぼけたことを言うじゃあねえ。俺をなめたら承知しねえぞ。八丁堀は入江の旦那より十手を預かった、安次とは俺のことだ。大人しく知っていることを話しやがれ」

安次は宿屋の主人と思しき男を、わざと目立つように往来に引き出し、たっぷりと絞り上げている。すでに往来には野次馬が集まって行きていて、それが始まりの合図であるのだが、これから行う小芝居について考えると、喜之助の気は重くなった。

「隠し立てはならねえ。この辺で怪しい連中がうろうろしているのは知っているんだ。嘘をつくとためにならねえぜ」

「私はなにも知りません。怪しい者を見かけたらいつも届け出をしております」

宿の主人は顔色を漆喰のように白くさせながらガタガタと震え上がっている。安次とはすっかり話がついているらしいが、そうは見せない中々の名演技である。

二人の熱演に場もいよいよ温まって、観客も終幕に向けて固唾を呑んで成り行きを見守り、後は主役の登場を待つのみであった。

喜之助は「ええい」と腹をくくると、観客を押し分けながら安次に近寄って行く。

安次はそれを認めると、ちょっと嬉しそうな顔をしてしまったが、すぐに気がついたと見え、訝しげな顔を繕って喜之助に向けた。

「おい、その辺にしておけ」

「なんでえ、ご浪人かい。なんか文句でもあるのかい」

安次は完全に本職の貌になっていた。曲者の粗を探すように、舐めるような視線で喜之助の全身を見渡している。

「いや、文句というわけではないが、無体なことを見逃すわけにも行かぬでな」

迫真の演技を見せる安次に対して、とても酷い棒読みである。喜之助は自分が情けなくて泣きそうになった。

「てやんでえ、ちょっと脅したら尻尾を出しやがった。なんのことはねえ。ご浪人、あんたが俺の知りてえことを喋ってくれるって寸法だな」

そう言うと安次は「御用だ」と叫び十手を抜いた。

芝居がかりすぎだ。実戦で十手を振り回す岡っ引きなど聞いたことがない。

そう思いながらも喜之助も腰を落とし柔の構えを取った。

「へっ、刀を抜かないのかい。それともお腰のそれは竹光かな」

言うやいなや、安次はひゅっと鋭い音を立てて十手を振ってきた。

左の腰元からまっすぐに鳩尾を狙った突きだ。

その案外な鋭さに喜之助は驚いたが、半身になり軽く避けると安次の腕をひねり上げる。

「あまり弱い者いじめをするな、岡っ引き。八丁堀のなんたらって、その旦那の名を汚すことになるぞ」

喜之助はやっとそれだけ言うと、安次は大袈裟に痛がる素振りをしながら腕を振りほどき、「覚えていやがれ」どこかで聞いたような捨てぜりふを吐いて逃げていった。

名演技じゃないか。安次の意外な才能に多少の嫉妬を覚えながらも、喜之助は観客に素早く目をやった。正太郎の策が当たればここで魚が釣れるらしい。

安次が完全に見えなくなると、野次馬の中から二、三人が寄ってきて喜之助を褒めそやし、宿の主人を介抱し始めた。

しかし寄ってきたのは町人や通りがかりの旅人ばかりで、狙った獲物はなかなか寄ってこないようだった。

やがて野次馬も散りはじめ、宿の主人も喜之助に礼を言うと店に下がっていった。

さすがに一度では魚は釣れぬか。そう喜之助が諦めかけたとき、散っていく人々とは逆に、一人の大柄な侍姿の男がにこやかに近寄ってくるのが見えた。

「いやはや、あっぱれですな。貴公が行かなければ拙者が行っていたところでした」

あ、釣れた。あまりにも簡単に思惑通りにことが進んだため、喜之助は却って警戒心が生まれた。

「いえ、あまりにも横柄さが目についたものですから」

「昨今の幕府の横柄さには腹が立ちますな。末端の岡っ引きですらあの威張りようです。まるで天下を私物化しているようですな」

「はあ、左様な見方もございますかな。では私はこれにて」

喜之助は正太郎に教えられた通り、わざと興味のないふりをして立ち去ろうとする。先程の騒動が罠であることを悟られてはならない。

「あいや、しばし待たれよ」

男は思うツボで引き止めてきた。喜之助の良心が痛む。ペテンというやつは何より性格の向き不向きがあるのかもしれないと思った。

「貴公の心意気には拙者感服致した。是非一献差し上げたいので、拙者の知っている店にでもどうでしょう」

「いえ、そのような謂れもございませぬ故」

「なにを仰る。拙者がやろうとしたことを代わりにやってくれたのですから。ささ、参りましょう」

だめだ。この髭面の大男は底抜けに人が良いようだ。すっかり喜之助を気に入った様子で、無邪気に誘ってきている。自分たちの企みにとっては実に都合の良い人物であるが、その分喜之助の心は痛む。

しかし、任務は任務なのである。

「相わかりました。そこまで仰るのであればご相伴に預かりましょう」



巣鴨の町外れにある、薄暗い酒場で喜之助は酒を飲んでいる。

この時代にはまだテーブルなどはなく、座敷と長椅子に腰掛け、横に酒やツマミ、タバコなどを置いて飲酒をする。

小洒落た料亭であれば膳に肴が乗るが、安い居酒屋では全て人が腰掛けているところに直に置いてやる。二人は枝豆と佃煮を肴に、白く濁った酸っぱい酒を飲んでいた。

大柄な髭面の武士はやはり浪人であるらしく、名は荒居十兵衛と名乗った。

背丈は五尺六寸はあるであろうか。立派な体躯に岩のような大雑把な顔が大きく乗っかっている。そこにはガラス玉の様な丸い瞳が二つ継いていた。

性格は明るく人好きがする性分らしく、盛んに喜之助に話しかけてくる。

歳は三十の半ばぐらいであろうか。破れて継ぎ接ぎだらけの紬と袴に、漆の剥げた大小、見るからに困窮した浪人の出で立ちではあるが、その立派な体格と、つやつやとした顔色、そして継ぎ接ぎとはいえ丁寧に修繕された衣服から恐らく所帯持ちであろうことがわかる。

「貴公は江戸の生まれでござったか。私は随分前に藩が取り潰しになりましてな。ええ、妻子を伴い職を求めて江戸に出てきたわけです」

「途中で禄から離れるというのも大変ですなあ」

「そうなのです。最初は他藩の親類を頼って仕官の口などを探していたのですが、その、上手くいかないものでしてな」

はっはっはと十兵衛は豪快に笑うが、その声はかすれ、今までの苦労を感じさせる悲哀に満ちていた。

「見たところかなりお鍛えになっている様子ですが、それでもご士官は難しかったのですか」

喜之助が見るところ、この荒居十兵衛という男は只者ではない。筋肉の付き具合、腰の落ち着き方、無駄のない足運び、どれをとっても剣士から見れば一目で一流の力量を持っているとわかる。

「いえ、それがですなあ。情けない話なのですが、可哀想になってしまうのですよ」

「可哀想とは」

「その、仕官の口になると、拙者のような者は腕試しをしてからということになります。すると競争相手がいるわけですが、その競争相手というのが、大抵は拙者に輪をかけたようなみすぼらしさでしてな」

「それを可哀想だと」

「はい、それはもう、拙者も同じ境遇ですから、相手の苦労が手に取るように分かります。そして相見えてみると、どうやら相手の腕は拙者ほどではないらしい。そうなると、彼はここを逃すと他の仕官の口が見つかるかどうか」

「なんと、では相手に同情して勝ちを譲ってしまうのですか」

驚いた男だ。喜之助は一瞬本当かと疑ったかが、誇るでもなく、恥ずかしそうに語る十兵衛を見ると、これは本物だと思えてきた。

「家内も家内で、よくやった、人を救ってこそ武士だとなどと拙者を褒めるものですから、ついつい調子に乗ってしまいましてな。そのうち本当に逼迫して江戸に流れてきたというわけですよ」

十兵衛も十兵衛なら、その妻も妻だ。と喜之助はおかしくなってきた。

しかし、十兵衛に好意を持てば持つほど後ろめたさも増すということが分かっていたので、喜之助は自制心を持って距離を置かねばならない。

「江戸へは仕官を求めてですか」

「最初はそのつもりでした。中間でもなんでも、武士として仕事があれば何でもやろうと。でもなんのことはない。そこも競争の世界でしてなあ。拙者には向いていなかった」

「江戸の中間や足軽は狡っ辛いですからね。色々嫌な思いもしたでしょう」

喜之助がそう言うと、十兵衛はなにかを思い出したと見え、途端に涙ぐんだ。

「いや、いや、これは失敬。まあ、色々ありましたな。そして最終的には妻子を食べさせるために人足仕事で生計を立てる羽目になりました」

「ああ、あれはきつい。体の節々が痛みますからな」

喜之助はもう耐えられなかった。

元々喜之助は他の浪人とあまり関わって来なかった。

若い頃は剣術のみに打ち込んでいたのもあるし、そこに同じ境遇の者がいたからだ。

しかし、今となっては十兵衛のような者こそ悲喜を共有するできる相手なのではないだろうか。

「拙者は競争が不得手です。どうにも他人を蹴落とすということができない。以前はそんな自分が悪いのかと思っていたのです。しかし、ある人に出会って考えは変わりました。この競争を強要している者がいる。それに気付かされたのです」

「幕府、ですかな」

喜之助は極力声を落として言ったが、言ってすぐに後悔した。自分は正にこの男をハメようとしているのだ。

「そうです。その通りなんです」

「つい口が滑りました。聞かなかったことにしていただきたい」

「いえ、良いんです。拙者も同感です。そもそも拙者がこのような境遇になったのも、家がお取り潰しになったからです。そして幕府はそういった浪人同士を更に競わせて逼迫させている」

概ね同感であるが、その「ある人」が与力の伊沢将監の言う不穏分子の首魁であるならば、その男には共感できない。

第一、幕府が理不尽だからといって、それで転覆させようというのでは理論が飛躍しすぎている。浪人が逼迫しているからと言っても、多くの人間が泰平の世で暮らしているのも事実なのである。それを崩して多くの人間の命を危険に晒すことがこの男の本意なのであろうか。そうではあるまい。

喜之助には、その首魁とやらがこの単純明快な男を惑わるために何か小細工を弄しているのではないかと思った。

「しかしながら、泰平の世を守っている功績もあるでしょう」

「いえ、幕府は天下のことなど考えておりません。徳川家のみの存続を考え、他を圧迫しているのです」

結果としてそれが泰平の世を守っているなら、殊更波風を立てる必要もあるまいと喜之助には思えたが、十兵衛は義憤にすっかり酔っているようであった。

「ある人がそれを教えてくれました。貴公ももしよければ一度会ってみませんか」

ああ、これで策の第一段階は成功だ。喜之助は急に興ざめしてしまったかのように脱力してしまった。

「なるほど、興味深いですな。日を改めて、是非ご紹介願いましょう」

喜之助は内心苦々しく思いながらもなんとかそう言うと、十兵衛の方は「十年の知己を得たようだ」とはしゃいでいた。

自分には斬った張ったの方が似合っている。喜之助はそう思いながら、この気の毒な男を直視できずにいた。



昼のことを報告するために、八丁堀の正太郎の屋敷には喜之助と安次が集まっていた。

相変わらず正太郎がお茶を淹れる中、昼間の様子を安次が立ち上がって熱演している。

「そしたら赤井様はまるで駄目なんでさあ。俺は笑いを堪えるのに大変でしたよ」

そして如何に喜之助が棒読みであったかを巧みに再現してみせた。

「よしなさい。赤井氏が困惑しているでしょう」

正太郎は一応口ではそう制止するが、表情はニコニコと笑っていた。

さすがに軽薄過ぎはしないか。喜之助は腹がたち、ムスッと黙っていたが、安次はそれに気がついたと見え、急におべっかを使い始めた。

「しかしなんです。その素人っぽさが逆に覿面だったのでしょう。こんな御仁が人を騙すわけがないから、魚がかかったというわけですよ」

「お前さんのいじめが堂に入っていたからと違いますか」

「嫌だな旦那、人聞きが悪い。普段は庶民の味方の安次でさあ。それにあの宿屋とはもとより昵懇でね」

盛り上がる主従をよそに、喜之助の気分はすっかり沈んでいた。

その魚を引っ掛けるための疑似餌としては、どちらに肩入れしたら良いものか。喜之助としては魚にこそ同情したい気持ちだった。

「もうよいでしょう。次はどうしたらいいのです」

半ば投げやりな気持ちになって喜之助が聞くと、主従はバツが悪そうな顔をし、正太郎はお茶を注ぎ、安次は座布団に座った。

「とりあえず、その首魁と思しき男を紹介してもらい、顔なじみになってもらいましょう。信頼を得られれば、重大な情報を掴めるかも知れません」

「要は屯している不逞浪人になりきれば良いということですかな」

「まあまあ、そう腐らずに。ただ奴らに同調して、情報が入れば時折こうやって報告してほしいのです」

つまりは完全に間諜である。果たして自分のような男にそのような器用な役目が務まるのか喜之助は不安であった。

「なに、まずいときは逃げ出して来てください。そこまでで打ち切りです。その後はほとぼりが冷めるまで奉行所の方で預かります」

「それは牢屋の中ということですかな」

「へっ、赤井様も中々言うじゃねえか。こいつは面白え」

「ご冗談を。しっかり警護させて頂きます」

正太郎の言うことに嘘はないだろうが、もしまずい状況になれば、潔く斬り死にしようと喜之助は心に決めた。自分だけが安全な場所から人を騙すということにどうやら耐えられそうもない。命を賭けて初めて釣り合いが取れ、堂々と十兵衛の顔を見られるような気がした。

「世話にならぬことを願います」

「赤井様のあの身のこなし、いざとなれば余裕綽々で逃げ果せますよ」

安次はそう太鼓判を押したが、正太郎は「とにかく無理はしないでください」と念を押した。

「危ないと思ったら向こうには顔を出さず、すぐにこちらへ逃げてきてください。その後のことはその時になってから考えましょう」

正太郎の言葉には真心がこもっていると思えたが、肝心の自分の気持ちに整理がつかないのであった。



十兵衛に教えられた彼の本郷の住まいを尋ねると、長屋木戸を入ったところで路地を走り回る五つぐらいの子供にぶつかりそうになった。喜之助はとっさに避けたが、子供はまるで喜之助が避けないことは想定していないかのようにそのままの速度で通り過ぎた。

「帯を締めなさい。慶次郎」

姉であろうか、その後を十ぐらいの少女が走って追いかける。

慶次郎と呼ばれた子供は絣を羽織って帯を締めずに長屋の路地を駆け回っていた。

喜之助は微笑ましくそれを眺めていたが、そのうち荒居十兵衛と書かれた目的の戸を見つけたので、中に声を掛けようとした。

が、その時。

「よしの、慶次郎、いい加減にしなさい」

いきなり目的の戸が向こうから開き、三十年増の女が叫んだ。

二人はちょうど顔を突き合わせる形となったので、喜之助は肝を潰し、声も出せずに女の顔を見ていたが、女の方も「あら、あら」と状況が掴めない様子である。

すると、中から「母上、今朝父上がおっしゃっていたではないですか。赤井様ですよ」と少年の声がした。

「あら、まあ。でもよしのと慶次郎を呼んだんですから」

「母上、それは偶然というものでしょう。人生とは時折そういうことが起きるものです」

「困ったわ。ああ、困ったわ。赤井様ですね。お話は伺っております。すこし待っていてください」

これは中々賑やかな家族がいるなと喜之助は笑いそうになってしまったが、十兵衛の妻らしき女は挨拶もそこそこにドタバタと衝立の中に引っ込み、代わりに元服前の前髪の少年が出てきた。

「むさ苦しいところですが、とりあえず中にお入りください。父はまだ仕事から帰っておりません。母は、その、化粧を直しているでしょうから、まず中へ」

これはまた、両親に似ないしっかりとした子供である。少年はため息をつくと、両親がこれだと子供は困るというように苦笑いをしてみせた。

「ではご無礼して。そなたは荒居殿のご長男かな」

喜之助は土間に入り、四畳半畳に腰を掛ける。

「はい。長男の一太郎と申します。先程大声を上げましたのが母のよね、長屋を走り回っていたのが長女のよしのと次男の慶次郎でございます」

これは今後はこの少年を通したほうが話が早そうだな。喜之助はそう思うと、間口に腰掛け十兵衛の帰りを待つことにした。

すると「嫌だわ、嫌だわ。すみません」と袖で顔を隠しながらよねが茶碗に水を入れて現れ、喜之助の手元に置くと、「失礼」と言ってまた奥に消えていった。

「お茶も出さずに申し訳ありませんが」

これは一太郎の発言である。

喜之助は苦笑いしながらも、「いや、ちょうど喉が渇いていたところだ。ありがたい」と礼を言って水に口をつけた。

「失礼ですが、赤井様もご浪人でらっしゃいますか」

「左様、加えて言うと独り者でもある」

一太郎は喜之助の身なりを見て一瞬なるほどと納得する表情をしかけたが、その無礼さにすぐに気がついて顔を赤面させた。

賢い子だ。と喜之助は思った。

「いやいや、正にその通り。男一人の暮らしでは格好に気をつけなくなってしまっていかんなあ」

喜之助がそう自虐してみせると、一太郎もやっとつられて安心したように笑った。

その後、二、三他愛のない会話をしていると、やっと化粧を整えたよねが出てきて「十兵衛の家内でございます。夫から話しは伺っております」と尋常な挨拶を述べた。

先程は急なことで容姿に気が回らなかったが、化粧を直した顔を改めて見ると、年相応ではあるが、生活の疲れを感じさせない明るい女であった。

「こんな暮らしでございますから、中々痛快なことはないのでございます。それが赤井様と知り合えて、夫はそれはそれは楽しそうでございましたのよ」

そう言うよねの言葉に、喜之助は良心の呵責を覚えたが、そこは平静を装わねばならなかった。

喜兵衛が母子に相手をされていると、程なくしてよしのと慶次郎の姉弟も走り疲れたのか家に戻ってきて、今度は喜之助をおもちゃにし始めた。母と兄に制止されるも、なんとか遊んでもらおうとちょっかいを出していた時、十兵衛がやっと仕事から帰宅した。

「いや、いや、お待たせして申し訳ない。早班の人足の仕事がどうしても抜けられなくてですな」

十兵衛はどかっと間口に腰掛けると、よしのと慶次郎は「父上おかえりなさい」と大はしゃぎを始めた。

よねは素早く水だらいをもって間口に降り、十兵衛の足を洗いながら、「今日もご苦労様でした。働き者の足でしたねえ」と労いの言葉をかけた。

「おいおい。足以外にも腰も腕も働いたぞ」

そう十兵衛が抗議したが、すぐに「でも頭は働いておらんなあ」と冗談を言って豪快に笑った。それにつられて家族も笑う。

喜之助にはそれがとても暖かく、羨ましいものに見えた。

貧しい浪人暮らしでもこうやって明るさを保てているのは、この夫婦の明るい気質の賜なのであろう。

「父上遊ぼう」

慶次郎が足を洗っている十兵衛の首に背中から絡みつく。

「今日はだめなんだよ。お客さんだから」

その慶次郎をよしのが剥がそうと必死になるが、慶次郎は「嫌だ嫌だ」と駄々をこねた。

するとすかさず一太郎が小さな木剣を持って、「慶次郎、今日は富田流の奥義を授けようぞ」と仰々しく言うと、慶次郎はそちらに興味を惹かれたのか、一太郎の方に走っていった。

「いやはや、我が家は毎日これでしてな。話になりませんので、一緒に巣鴨の堀殿の私塾へ参りましょう」

そう言うと十兵衛は立ち上がり、ボロボロの作業着を多少マシな紬に着替え、部屋の奥にかけてあった大小を腰に挿すと、「出かけるぞ」とよねに言った。

「まあ、まあ。もうですか」

よねはなにか不服そうであったが、「すまない、夜には帰るから」と言うと十兵衛は「参りましょう」と言って喜之助を促して家を出た。

「こんなにすぐに出かけるのであれば、足を洗わなければよかったですわ」

去る二人の後方からよねのぼやきが聞こえた。



堀帯刀の私塾兼道場は、巣鴨の町から半里ほど西に行った野原に建つ農家を改造したもので、二百坪はあろうかという敷地に広々とした母屋と講堂や道場,そして長屋を構えていた。

塾生たちは、午前は書物の講義、午後は道場で汗を流しているということで、二人がついた頃には道場の空気もだいぶ温まった後であった。

十兵衛が道場に顔を出すと数十人はいる塾生たちが一斉に手を止め、「先生」「師範」と礼をとった。

十兵衛は鷹揚に手を振って「いや、続けてくれ」と大声を張り、喜之助を奥へと通した。

「こちらで師範を務めてらっしゃるのか」

「いや、流派もなにもない鍛錬場でしてな。皆体が鈍らないように面倒を見ているだけです」

十兵衛はそう謙遜したが、道場に漂っていた熱気はただの運動という生易しいものではなかった。それは喜之助には懐かしい、青春の匂いを想起させるものであった。

「堀殿には話を通してあります。首を長くして赤井氏の到着を待っていることでしょう」

「かたじけない。しかしそれほど期待させてはがっかりさせるのではないか」

「ご謙遜を。拙者には分かっています。赤井氏の身のこなし、尋常な腕ではないでしょう。それに民を守ろうとする志を持ってらっしゃる。これほど相応しい方はいらっしゃいません。

なにに相応しいというのであろうか。やはり裏でなにかしらの計画があるような雰囲気を察しつつも、喜之助は敢えてそこには触れない。

「しかしご立派なお屋敷でらっしゃいますな」

「そこは堀殿のご人徳ということですな。さあ、こちらです」

講堂や道場から渡り廊下を挟んで少し離れたこところに母屋がある。

道場から廊下を渡ってすぐの角部屋は、土間とつながった大きな座敷となっており、中に入ると十人ほどの浪人と思しき男たちが入口に背を向けて上座の男の方を向いていた。

「遅くなり申した。こちらが赤井氏です」

十兵衛が上座の男に向かって喜之助を紹介すると、その場にいる者が一斉にこちらを振り向き、喜之助は好奇の目に晒された。この面々が不逞浪人集団の幹部ということになろうか。

多少場がざわついたが、上座に座る五十過ぎと思われる白髪で総髪の男は、それを手でなだめるように優しげに制し、落ち着いた様子で喜之助に声をかけた。

「お待ち申し上げておりました。堀帯刀と申します。以後お見知りおきを。どうぞこちらへ来てくだされ」

帯刀に前に出ることを促されると、喜之助は一瞬臆したが、十兵衛に背中を押されて仕方なく上座の方へと歩いていった。

「こちらが先日荒居殿よりお話があった赤井氏です。強きを挫き、弱きを助ける。その心意気は我々に通づるものがあると思われます」

なんだ、一体何の話であろうか。帯刀が喜之助を紹介すると、浪人たちからの羨望や好感、嫉妬や懐疑と複雑な視線がいっぺんに突き刺さり、背筋に緊張が走った。

「我々は天下を憂い、そして貧しき身を助け合う同志なのです。一つ、お耳汚しとは思われますが、我々の理念をお聞きください」

帯刀が語る理念とは以下のようなものであった。

天下人とは、本来民のために存在し、天に成り代わって民を守るためにその地位に就いている。ところが徳川幕府は徳川家のみの栄華と存続のみに執心し、民を苦しめ、天下を治める徳を失っている。これを改め、天下万民が安泰に暮らすには、我々武士が意識を新たにして立ち上がらなければならない。

なんのことはない、ありふれた孟子の易姓革命論であったが、生活に困窮した浪人たちにはこの古びた唐土の思想でも拠り所になるのであろうか。

「人は様々なことを克服してきましたが、未だ天に生かされる身であり、その天がもたらす富を私してはならぬのです。これは歴史が証明しております。平家然り、源氏然り、足利家も織田も豊臣も滅びました。天下を私する者はこのように滅びる定めなのです」

「一つ分からぬことがございますが、我々は浪人とはいえ武士、守られるべき民草ではなく、守る側ではないのでしょうか」

喜之助は慎重に言葉を選んだ。ここでしくじっては全てが台無しである。

「左様。であるからして、我々をして、民を守る機会を失わせしめる徳川幕府の指針には意義を唱えたく思っているのです」

「なるほど、では浪人の仕官の口を幕府に求め、民を守る志士を侍にするということですか」

帯刀はニコリと笑い、穏やかに喜之助に語りかけた。

「そうなれば重畳です。しかし、そうならなければ、我々民草を守るべき立場の者が世の中を是正し、あるべき地位につくべきなのです」

これは由々しきことを聞いたと思った。受け取りようによっては倒幕の宣言をしたと言えなくもない。

「し、失礼ですが。私のような者にそのような大事を語っても良いものなのでしょうか」

なぜ帯刀はこのように性急な話し方をするのであろう。喜之助は驚きつつ、もし同調しなければどういう扱いを受けるのかと警戒する気持ちが強くなってきた。

「なあに、人物は目を見ればわかります。赤井氏は正直な方だ。不躾ながらお聞きしますが、長い浪人のお暮らしでさぞご苦労をなさったのでは」

「は、まあ、人並みの苦労はしてきたやも知れません」

「ご謙遜を。今度は赤井氏のお話を聞かせてくださいませんか」

喜之助は仕方なく、自分の半生を皆に語った。最初は気乗りせず、人前で語ることに羞恥を感じたが、大人数に囲まれ、熱っぽい視線を感じながら話していると、なぜか体の芯から得体の知れない興奮が湧き上がってきた。

剣に打ち込みながら表舞台に出してもらえず、辛酸を嘗めた日々の下りでは、かなり感情的な口調になってしまい、それにあてられたのか、聴講者の中にはすすり泣く者まで出てきて、喜之助は今まで感じたことのない種類の快感を得た。

最終的には喜之助自身も声を震わせ、唾を飛ばしながら、父が亡くし今の暮らしが始まり、人足をするまでに落ちぶれた話まで語ってしまった。

「剣を極めながら市井に身をやつすとは、ご苦労なさいましたな」

「なんと不運な。これほどの方が時を得ずとは」

「赤井氏はこれで終わって良い御仁ではない」

話を聞いた者たちが、一様に喜之助を美化しようとするので、とてもくすぐったい気持ちになる。

すると、「拙者も」「私も」と一人二人と自分の半生を語り始め、それらの境遇の惨めさや悔しさに、喜之助もつい目に涙をにじませてしまった。

なんとも言えない甘酸っぱい一体感が場を支配し、もう皆長年の知己のような感覚に包まれ、各々が個々に身の上話に花を咲かせ始めた。

喜之助もその輪に入り、彼らの話に耳を傾けていると、帯刀がまとめに入った。

「大事なのは大儀に生きることです。我々はこのように世の辛酸を嘗めてきました。しかし、だからこそ世に大義が失われていることに気がつくことが出来たのです。我々の志を果たすため、これからも尽力していきましょう」

そうだそうだと声が上がり、場の熱気は最高潮を迎えた。

なるほど、そういうものか。などと喜之助も彼らの趣旨に納得仕掛けた時、帯刀は懐からすっと紙包みを取り出し、喜之助に渡そうとした。

「貴公は紛れもない我々の仲間です。仲間にはこれ以上苦労をかけはしません。これをお受け取りください」

紙包みには一両小判が数枚入っている様に見えた。それを見て喜之助から消え失せていた警戒心が蘇った。まるで冷水を頭からかけられたように、喜之助の体の熱は一気に霧散し、靄のかかっていた思考が晴れ渡る。

「こ、これはどういったことでしょうか」

「仲間の印とでも言いましょうか、もう苦労はかけさせないという我々の気持ちでございます。どうぞお受け取りください」

あ、手口がわかったぞ。そう喜之助は思った。まずいきなり大事を語り対象者を動揺させ、その後に演説を行わせて仲間意識を芽生えさせる。そして最後に金を掴ませ、感情面と実利面両方でくわえ込むのだろう。その手口の恐ろしさに喜之助は鳥肌が立った。そういう場所であると分かっていたから喜之助は気がつくことができたが、知らずに来たらどのような結果になっていただろうか。

「その儀は、その儀はしばしお待ちくだされ」

間諜としては同調して仲間になったフリをした方がいい。それは分かっているのだが、しかしこれを受け取ると喜之助は人として大事なものを失ってしまう気がしてどうしても受け入れられなかった。

すると、幹部の中から「お受け取りなさい」「仲間の好意を受け入れらないのか」といった声が上がり始め、喜之助に圧力をかけ始めた。

「赤井氏は志が高いお方だ。遠慮が先ず出てしまうのだろう」

十兵衛がすかさず助け舟を出したが、この金が集団の結束力を生んでいる以上、これを受け取らぬのであれば決別の意思と受け取られてしまう。それぐらいの理屈は喜之助にも理解できた。金は心を縛るのだ。生活に困窮したことのある者ならそれは誰もが知っていることであった。

しかしそれでも喜之助は首を縦に振ることはできなかった。

「赤井氏は思慮深いお方だ。それに高潔にして温厚。ご立派です。ではこうしては如何でしょう。我々の道場は五十人ほどが稽古を行っておりますが、情けないことに稽古をつけられる人材が不足している。そこで、赤井氏にはしばらく住込みで師範代を努めて頂きたい。その出来を見て報酬をお支払いするということで、これで如何でしょうか」

「なるほど、それならば食べることにも寝る場所にも困りませんし、毎日共に汗が流せますな」

十兵衛は嬉しそうに言ったが、帯刀の言葉の裏に隠された意図には全く気がついていないようであった。

要するに帯刀は金を受け取らなかった喜之助をそのまま帰すわけにはいかないと判断したということであろう。疑いが晴れるまではしばらく手元において、じっくり観察するといったところか。

これは困った事になった。喜之助は少し気持ちが重くなった。



話がまとまると、喜之助は早速道場に紹介されることになった。喜之助は幹部の一団に囲まれながら道場へと向かう。

母屋と道場は講堂を挟んでコの字に並んでおり、それぞれは廊下などでは繋がっておらず、独立した建物になっているようだった。長屋は道場の更に奥に畑を挟んで建っているのが遠目に見えた。

敵地だからな。連行されているようなものだ。喜之助は先程金の受け取りを拒否した気まずさもあって、居心地が悪くなってきた。

その一団がぞろぞろと道場にやってくると、塾生たちは何事かとピタリと稽古を止めた。

帯刀たちが道場の真ん中に進み出ると、塾生たちは場所を空け端へ寄り、喜之助は取り囲まれるような形になった。

道場はしばらくどよめきに満ちていたが、帯刀は中々話を切り出さない。

とうとう誰も口をきかなくなると、帯刀はやっと口を開き、「この御仁は赤井氏とおっしゃる。今日から我が道場の新しい師範代とする」と静かな声で紹介した。

突然のことに塾生たちはしんとしたが、やがて道場は再びどよめきに包まれた。

それはそうだろう。と喜之助も思う。道場には積み上げられてきた実力の上下関係がはっきりとある。突然横から師範代が入ってくるというのは当然好ましい事態ではない。

どう収拾をつけるのだろうと喜之助が思っていると、幹部の中の男が一人、塾生の前に進み出てこう言った。

「新しい師範代と言っても皆まだ腕も見ていないし心配だろう。私もそうだ」

全く同感だ。喜之助はすっかり塾生の方に同調しそう思ったが、いや他人事ではないぞとすぐに思い直した。

「どうだろう、互いを知るために、まずここで軽くご指導頂くというのは」

男は不敵に笑う。すると塾生からもそれに同意するような声が上がった。

その無数の加勢に満足したか、男は喜之助の方へ振り返り、「私は山田五郎兵衛と申す。この道場の師範代を努めている」と名乗った。

「宜しくお願い申す」

喜之助も尋常に受け答える。

「貴公の同輩ということになるかな。とういうわけでして、一手ご教授いただきたい」

そう言うと五郎兵衛は木剣が立てかけられている壁の方へ足を向けた。

「おいおい、急ぎすぎやしないか。それに腕を見るなら師範である拙者が・・・」

「荒居さんはお優しいから手心を加えかねません。まして師範代の私がいるのですから、私が先に当たるのが当然と言えましょう」

五郎兵衛は理屈で十兵衛を遮ると、帯刀に一瞥をくれた。それに帯刀が頷いたので、素早く壁に立てかけられた木剣を二本手に取ると、一本を喜之助に差し出した。

「赤井氏は達人だそうですから。木剣試合でいいですな」

「構いません」

喜之助はそれを受け取ると、五郎兵衛は下がってニヤリと笑った。

通常、道場の試合は防具をつけた竹刀試合が主であるが、免許をもった者同士では、木剣で寸止め試合をすることもある。もちろん木剣が当たれば相手に大怪我をさせてしまうので、通常であれば同門の手の内が知れた者同士が行うが、そうでなければ道場破りが命を賭けて試合するという類のものであった。

二人が距離を取り正眼に構えると、帯刀は両手を広げて塾生たちを更に壁際に追いやり、試合をする空間を広げる。

その広さを確かめるために喜之助が周囲を見渡すと、十兵衛が心配そうにこちらを見つめていた。

「では始め」

じゅうぶんな空間ができたと見たのか、帯刀が合図を送る。

「手加減はしませんぞ」

そう五郎兵衛が言うと、「やあ」と短く気合発し間合いを詰めてきた。

小兵の五郎兵衛の構えは、隙無く小さくまとまって見える。

それは大きな獲物に挑みかかる獰猛な小動物のようで、無限の活力を内に秘めているようだった。

中々できるようだ。喜之助は少し嬉しくなった。やはり、こういう交流のほうがまどろっこしくなくて良い。

二人は数秒の間睨み合っていたが、揺れ動く喜之助の体幹がわずかに中心を離れた時、それを敏感に捉えたのか五郎兵衛は「シャッ」と叫び跳躍してきた。

振りかぶられた木剣は、少し右に膨らむような軌道を取りながら振り下ろされ、三日月のような弧を描きながら喜之助の左袈裟に殺到する。

それは全力が込められた、寸止めをする気などない容赦のない斬撃であった。

喜之助は咄嗟に木剣を引き起こし垂直にすると左前に突き出す。直後、木剣がぶつかり合う乾いた音が道場に鳴り響き渡る。喜之助は手にしびれを覚えたが、斬撃の威力を受け流すように反時計回りに身を翻すと、五郎兵衛の勢いは削がれ静止した。しかし、喜之助の動作はそこで終わらず、そのまま回転を利用し右肩から五郎兵衛に体当たりを仕掛けた。

あっ、と驚くまもなく、五郎兵衛は突き飛ばされ、床を転げ回わる。

「まだまだ。終わりではありませんぞ」

転がる勢いを利用して立ち上がった五郎兵衛は、その言葉通りまだ闘志を失っていない様子であった。軽く体を動かし四肢に膂力が蘇ったのを確認すると、素早く場に戻ってきた。

一之太刀か。

喜之助は驚嘆した。初太刀にすべてを込めた新当流の技である。これまでも何度か受けたことはあったが、相変わらず凄まじい威力である。

五郎兵衛の目には敵意が感じられた。あるいは帯刀はここで私を始末するつもりか。喜之助はそうも思ったが、こうなってはもはや思考する段階ではない。

後は体が全てを語ってくれるだろう。

五郎兵衛は間合いに戻ると今度は下段に構え、低い位置から突き上げるように胴を狙ってきた。

喜之助はそれを嫌がり半歩後退して避ける。しかし五郎兵衛は空振りすることが分かっていたかのように木剣を喜之助の喉元辺りまで斬り上げると、今度は角度を急回転させ鳩尾に小さな斬込みを入れる。

その小回りの効く剣の回転速度は恐らく喜之助を上回っており、意外な難剣に喜之助は思わず舌を巻いた。

喜之助はかろうじて腰を引き躱すと、その崩れた態勢を五郎兵衛は見逃さず、更に間合いを詰める。

五郎兵衛は喜之助の懐に入ったまま離れず、喜之助に反撃の隙を与えぬように連続して木剣を振るった。

よく呼吸がもつものだ。喜之助は素直に感心したが、しかしそろそろその限界も見えてもきた。

塾生たちは固唾を呑んでこれを見守っている。傍から見れば先程から喜之助が防戦一方になっているように見えるのか、場の空気は段々と喜之助を侮るような風向きになってきた。

「山田さんの剣は癖が強いからな。赤井氏は戸惑っておられるかな」

そう十兵衛が独り言ちるのと同時であったか、乱打の流れで五郎兵衛が高めの横一文字を放った瞬間、喜之助の腰がまるで抜けたかのようにすとんと落ちた。

「あっ」

結末を予期した十兵衛が思わず声を上げる。

五郎兵衛の視界から喜之助が消えた。その脳裏には一瞬戸惑いと後悔が電撃のように走ったが、しかしこの近間の間合は自分の間合いである。相手に有効な反撃を打てる距離ではないはずだ。

言語化せずにそう五郎兵衛が感じた刹那、どすっ、という鈍い音が道場に響き、二人の体は密着するように重なった。

数秒の間を置いて、五郎兵衛だけがうめき声を上げ床に突っ伏す。

道場がざわめいた。なにが起きたのかを見届けられたのは、どうやら数人だけのようであった。

肩で息をしながら喜之助が立ち上がると、十兵衛は顔を紅潮させ帯刀の方へ振り向いた。

帯刀がそれに頷くと、十兵衛は前に出てきて「赤井氏の勝ちである」と判定を申し渡した。

「いやはや、見事でした。今のは柄を使った突きですかな」

「はい、間合いを詰められましたので、やむを得ず」

そう答える喜之助はまだ息が切れていた。

「皆、見たか。山田さんが高めの横薙ぎを狙った瞬間、赤井氏は態勢をこう引き落とし、左肩に木剣を担いで、柄頭の方で山田氏の鳩尾へ突きを」

興奮冷めやらぬのか、十兵衛は身振り手振りを交えて先程の技を解説する。

五郎兵衛の方はというと、数秒気を失っていたようであったが、塾生たちに介抱され意識を取り戻していた。

「大事はないでしょうか」

喜之助が恐る恐る五郎兵衛に声をかけると、五郎兵衛の目から先ほどまであった敵意がすっかり消えていた。

「お、おみそれ致しました。ご無礼、お許しください」

そう言うと五郎兵衛は跪き頭を垂れた。

「いえ、いえ、よしてください。紙一重の勝負でした」

喜之助が五郎兵衛に手を差し伸べて助け起こすと、自然と歓声が上がった。

振り返ると十兵衛が満足げに頷いていたが、帯刀の表情はちょうど影が差しよく見えなかった。



道場での生活もあっという間に二十日あまりが過ぎ、塾生たちにもじゅうぶんに喜之助に馴染んでいるように見える。

現場で稽古をつけるのは数年ぶりのことであったが、喜之助は毎日が楽しかった。

久しく忘れていたが、やはり自分はこれが好きなのだ。喜之助にとっては嬉しい再発見である。

五十人ほどはいる塾生は、やはり全員が浪人であり、妻帯者か独り者であるかに関わらず、ほとんどが敷地にある長屋で暮らしていた。

炊事や洗濯は、長屋に住まう女房たちが受け持っており、食料や日用品は商人が必要なものを売りに来るので、人里から離れているにも関わらず不自由はしなかった。

十兵衛や五郎兵衛を始め、幹部は外に自宅を持ち、通いであったが、塾生たちはめったに外出しないようだった。別に外出が禁止されている訳では無いが、なんらかの不文律が働いているようで、互いに見張っているような空気が感じられた。若い者が街の賑やかさを恋しがる様子もなく集団生活を送る様に、喜之助は異常さを感じずにはいられなかった。

外界から隔絶されたその暮らしぶりはまるで軍屯所のようであり、帯刀が私兵を育てていると言えばそのようにも見ることができる。例えば教えている座学も、思想書の他に銃器の扱いや軍法の講義もあり、その目的は正に戦える集団の形成にあるように思えた。

喜之助にも長屋の一室をあてがわれおり、毎日塾生と一緒に午前は座学に参加し、午後は道場で稽古をつけるという風に過ごしていたが、喜之助自身も特に外出を禁止されているわけではなかった。

しかし警戒されているかも知れない以上は、迂闊に外出するとあとをつけられるかもしれず、結果的に喜之助はずっと正太郎に連絡を取れないでいる。

一定の信頼を得るまでは仕方ないと思いつつも、皆に心配をかけているかもしれないというのが心苦しかった。

幸い塾生たちとの交流は稽古を通して上手く行っている。その中でも特に最初に剣を交わした師範代の山田五郎兵衛と、それと喜之助と同じく一刀流を学んでいたという太田、田中という二人の若者と懇意になり、稽古も余暇も喜之助を慕って彼ら共に過ごす時間が長くなった。

二人は明るい器質で剣筋もよいので、日中稽古をつける時は塾生の中心となって喜之助の指導を手伝ってくれた。それもあってか、この二十日ほどで塾生たちの腕はめきめきと上達し、それが彼らの連帯感を強めているようであった。

太田と田中は余程喜之助を気に入ったのか晩酌にもよく付き合ってくれるので、ある日喜之助はかねてから疑問に思っていたこと二人に聞いてみた。

「皆外には遊びに行かないのですか」

喜之助がそう聞くと、二人は「ははっ、師範代は夜遊びがこいしいですか」などと冗談を言ったが、喜之助が真面目な顔でもう一度聞くと、やや困惑したような表情を浮かべ、やがて「用がないから」などと曖昧に答えた。

二人は明らかにその話題には触れたくないようであったし、その表情には普段は見せない躊躇や恐れ見て取れたので、喜之助はやはり何かあると確信した。だが焦ってはいけない。

喜之助自身が微妙な立場にいることは自覚しているので、その後は話題を変え、無難な会話に終止しようとした。

しかしである。

「赤井さん。俺たちは本当に、その、義挙を行うのでしょうか」

話題も尽きた頃、太田が唐突に聞いてきた。

「やめろよ。誰かに聞かれたら」

驚いた田中が制したが、「皆も同じ気持ちなんじゃないのか」と太田が言うと黙り込んだ。

「それにほら、赤井さんは俺たちとは違うんだ。お金も受け取らなかったらしいし」

「えっ、本当ですか」

田中が驚いて喜之助に聞くと「ああ、受け取らなかった」と喜之助は答えた。

「じゃあ赤井さんは縛られてないんですね。いや、そうじゃないから師範代として束縛されているのか」

田中が謎掛けのような事を言うと、太田はそれに同意するように被せてきた。

「そうだよ。俺たちは塾長の金の出どころも知らない。支援してくれる篤志家がいるという話しだけど、怪しいもんさ。俺たちはその出処のよくわからない金を受け取ってしまった」

「そうだな。借金に塗れて、もう首を吊るか夜逃げかってところまで追い詰められていた。俺なんか金を目の前にして泣いて喜んだもんさ」

喜之助は気の毒に思った。そういう人の弱みにつけ込んで人集めをしているのが、帯刀のやり口なのだろう。

「そうさ。最初はみんな喜んださ。そして、この暮らしが当たり前になった時、ふとした時に気付いたんですよ。身も心も既に縛られているって。よくわからない金で生活し、穏やかならぬ企みを持っている。どう考えても、大手を振って表を歩けるような気分ではないですよ」

田中は吐き捨てるように言う。

「赤井さんはさっき俺たちに外に出ないのかって聞きましたよね。出られないんですよ。俺たちはみんな後ろめたいことをしているから。出れば密告しに行ったんじゃないかって疑われるんです」

「みんな疑心暗鬼ですよ。だから共犯者として、互いを監視せざるを得ないんだ。それに外に出たってどうせ帰る場所もない」

やはりそうか。彼らの全員が革命を起こそうと決意しているわけではないのだ。

理想に燃えているのは幹部たちだけなのかもしれない。

「赤井さんは少なくとも金に縛られていないから、だからこうやって仕事を与えて道場に縛り付けているんですよ」

それは喜之助もじゅうぶんに分かっていたが、ここまで塾生たちの士気が低いのは意外だった。

やはりおかしい、やり口の巧妙さや悪辣さに反して、これは如何にも杜撰じゃないか。喜之助は訝しく思った。このやり方であれば、確かに多人数をこの生活に縛り付けて置くことはできる。だが、このような士気の低い者たちが、いざその時に戦力として役に立つとは思えない。戦いは必ず帯刀側が少数になるはずで、少数精鋭が一騎当千の活躍をしてもらわねば勝ち目などないのは明白であった。それならば、もっと時間をかけて、彼らの士気を高めていく工作をしていくべきではないか。縛り付けて放置しているとは、帯刀は一体どういうつもりなのか。本当に彼らを使って蜂起する気があるのか。

喜之助の脳裏をたくさんの疑問がよぎったが、とにかく今は哀れな謀反人もどきが眼前にいるに過ぎない。

「お前たちに不安があるのは分かった。決して見捨てたりしない。だからお前たちも目立つことはしなくでくれ」

喜之助がそう言うと、太田と田中は不安そうに頷いた。

この事件に対して、ようやく喜之助個人の明確な目的ができた。

その日が来る前に、この集団から一人でも不本意な謀反人を減らしてやろう。

喜之助はそう心に誓った。


十一


更に十日ほど過ぎた。

正太郎にまだ連絡を取れていないこと以外は、喜之助の暮らしは依然として順調である。

あれから喜之助は塾生と稽古や生活を共にするにあたって、意識的に彼らの様子を見るようになった。

太田や田中と同じような心持ちの者が他にもいるのであれば、出来るだけ救ってやりたかった。望まない滞在をしている塾生たちを特定し、なんとか逃がす算段を整える、それが喜之助の大義だった。

喜之助は十兵衛等の幹部の言動にもそれとなく気をつけるようになっていた。

初日のあの興奮と熱狂もまだ記憶に新しいので、幹部たちの士気が高いのは分かっている。

ただ、そうであったとしたら、幹部が塾生をどう思っているのか、いざ蜂起というときにどう扱うつもりか知りたかった。

やはりそういった話を聞くなら十兵衛であろう。喜之助はそう心に決めると、稽古の時に敢えて十兵衛を誘った。

「荒居さん、どうですか、今日は一つ稽古をつけていただけませんか」

喜之助がそう声をかけると、十兵衛は嬉しくて堪らないといった面持ちで「やりましょう」と答えた。

二人が木剣を持ち構えると、周りはそれに注目し、自然と二人を取り巻く形になった。

「たまには皆に範を垂れる必要がありますからな。一つ胸をお借りします」

「いえ、こちらこそ。一手ご教授頂きたい」

そういうと喜之助は珍しく自分から打って出た。

なんのことはないごく普通の正眼からの面打ちであったが、無駄のない流れるような動きであった。

十兵衛は半歩後ろに下がり軽く間合いを外すと、左から回り込むように喜之助の喉元に小さく突きを入れる。

それを鎬で横に跳ねると、喜之助もまた十兵衛の右手に小さく斬り込んだ。

十兵衛は咄嗟に柄から右手を離し、喜之助の小手打は空を斬る。

ここで二人が一旦距離を取る。まるで予め段取りを決めた形のような美しさであった。

「思った通りです赤井さん。素晴らしい腕だ。私の動きもよく読んでいる」

「皆にもわかりやすいように動いてくれますので」

喜之助がそう言うと、十兵衛は「ご謙遜を」と笑い、再び構えて距離を詰めた。

十兵衛はスタスタと無造作に歩いて来たが、突然大上段から一足飛びに鋭い面打ちを放った。予備動作なしの大技である。体に剣術が染み付いているからこその技であった。

凡百の遣い手にとってそれは不意を突く一撃になったであろうが、喜之助には余裕を持って躱すことが出来た。

半歩引いた喜之助の眼前を上から下に風切り音が通り過ぎる。しかしその軌道は思ったより浅かった。

あっ、燕返しか。気が付いた喜之助は咄嗟にもう一歩飛び退く。

すると直後に今度は鼻先を下から上に風切り音が通り過ぎた。

危ないところだった。二撃目はほとんどかすったようなものであった。あんな無理な体制から連撃を打つなど、尋常な体捌きではない。

と、躱せたことに喜之助が安堵仕掛けたその時、左肩の位置まで斬り上げた十兵衛の木剣の切っ先が、既に喜之助に向いているのが見えた。柄を掴んでいた左手は下げられ、柄頭を覆うように握らえている。

まずい。これは突きが来る。喜之助は今度は逃げずにその場に留まり、木剣を素早く振りかぶった。

直後、十兵衛の左肩から電撃の様な強力な突きが放たれた。

真っ直ぐに喜之助の鳩尾を狙った強力な突きである。

それに合わせて喜之助も木剣を振り下ろす。その軌道は十兵衛を狙ったものではなく、十兵衛の木剣を狙ったものだった。

静まり返った道場に甲高い木剣がぶつかる音が道場に響き渡る。

喜之助の切り落としによって、十兵衛の突きは辛うじて軌道を変え、その切っ先は喜之助の左足のすぐ先に落ちていた。

床に穴が空いたんじゃないか。喜之助がそう思うほどの威力であった。これが寸止めするつもりでなかったのなら、喜之助を貫いていたかもしれない。

喜之助の木剣は突きを叩いた反動を利用して、一応十兵衛の鳩尾の前で寸止めされているが、その木剣には既に力がこもっていないことは喜之助自身がよく知っていた。

驚愕の思いで喜之助が十兵衛に顔を向けると、十兵衛も驚愕の表情で喜之助を見ていた。

瞬間、弾けたように二人は声を出して笑った。

「真剣勝負であったら私の負けでしたな」

「いやいや、拙者のこの手の痺れ、そもそも真剣であったら刀を両断されていたのではないかな」

二人がそう互いの健闘を称えると、周りの塾生たちも二人の元に集まってきて先程の稽古の評論を盛んに始めた。太田と田中は講釈師の様に若手の塾生たちに解説をし始める。

五郎兵衛に至っては二人の手を取らんばかりに近寄ってきてしきりと「良いものを見せてもらった。この様な勝負はめったに見られるものではない」と感動しているようだった。

その後の稽古は二人の熱を分け合うように熱を帯び、各々が受けた刺激を形にせんと盛り上がった。その熱も冷めやらぬざわめきの中、稽古の終わり際に喜之助は「少しお話したいことがあります」と十兵衛に告げた。

井戸端で水浴びをし、着替えをした後で喜之助は十兵衛を散歩に誘った。

十兵衛の帰路についていく形でしばらく外出するという体裁をとった。

晩秋の風はかなり冷たかったが、まだ体が熱を帯びているのか心地よい。

「話したいことというのはなんです」

しばらく歩いたところで十兵衛が聞いてきた。

長屋や飲み屋では他人に話を聞かれる恐れがあったので、散歩にしたのであったが、道すがら話すというのも中々切り出しづらいものがあった。

「いえ、その、塾生たちのことなんですが」

「ほう、彼らがどうかしましたかな」

十兵衛は上機嫌な様子であった。

「荒居さんはどう思いますか。その、堀殿の志に関して、意欲が高い者たちばかりでもないような気がしましたもので」

「ほほう、もう我々の心配をして頂けるのですかな」

十兵衛という男はどこまで楽天的なのだろう。

「特定の誰とは言いませぬが、恐れを抱いている者もおるように見受けます」

「仰る通り。誠に遺憾ながら、まだ志に身を捧げる覚悟のない者もまだおります。しかし心配はご無用。全ては時間の問題です。誰もがいずれは正しさを理解する。正しさとはそういうものである。拙者はそう思っております」

この豪傑は勇気のない者の気持ちを知らない。喜之助は呆気にとられた気持ちであったが、この男に太田や田中の離脱を相談するのはまずいと直感した。

「左様でござるな。然らば私がとやかく言うことでもありませんな」

「案外赤井さんは心配性ですなあ」

十兵衛はそういうと豪快に笑った。その後はとりとめのない日常の話になり、二里程十兵衛に付き添った後、喜之助は帰路についた。



十二


その帰路での話である。

もうすでに空は暗黒が支配し、人は月明かりを頼りに辛うじて道を見失わず歩いているような時分であった。

喜之助が掘の私塾に向かって歩いていると、暗がりの中に座り込んでいる人影が見えた。

道に沿って人影に近づくと、それは切り株に腰掛けている老婆であることがわかった。

喜之助はぎょっとしたが、老婆の身なりが旅装であることと、白木の杖を持っていることから何かの詣での帰りであろうことに気が付き、体に何か支障があって座り込んでいるものと思い声をかけた。

「もし、お体のお加減が悪いのですか」

喜之助がそう声をかけると、老婆は喜之助の接近に気がついていなかったものと見え、ひえっ、と大きな声を上げた。

「いや、いや、怪しいものではござらん。この近くで用がありたまたま通りかかった者で・・・」

喜之助がそこまでいうと、老婆はもう一度、ふぇっ、と良くわからない声を出し、夜目が効かぬのか明後日の方向に助けを求めるかのように手をかざして言った。

「た、助けてくだされ。この近くに住む百姓です。明神様の詣でに行ったのですが、足を挫いてしまってもう歩けないのです」

恐らくそのようなことを言ったのがだが、声があまりにもフガフガしすぎていて、喜之助にははっきりとは聞こえなかった。

「足を挫いたのですな。よいよい、拙者が背負います故、家までの道を教えてください」

「はえ~、ありがたやありがたや、なんまんだぶなんまんだぶ」

老婆は大袈裟に大きな声を出すと、また明後日の方向に拝み始めたので、喜之助は苦笑いしながら老婆の正面にまわり、後ろを向きかがんで背中を差し出した。

そこまでしてやっと老婆にも喜之助の位置がわかったのか、するっと手を喜之助の首に回し、案外な素早さと力で飛びついた。

「はあ~、これで助かります。野犬の餌にでもなるかと途方に暮れていたところです」

「たまたま通りかかってよかった。お家はどちらですかな」

背中で何度か老婆を上下にゆすり、具合の良い位置を確かめると喜之助は老婆に行き先を催促した。

「そこの別れ道を右に、ええ、小橋を渡ってください」

老婆は上機嫌で指示を出す。

しかし、喜之助は老婆を背負う内に違和感を覚えた。

重い。

およそ老婆の重みではない。

そしてどうであろう、このしなやかな肉体は。

まるで生け捕りにした子鹿を背負っているかの様な、しなやかな密度を背中に感じる。

喜之助の違和感が確信に変わった時、その緊張を捉えたのか、老婆は今までとは違う低い声を使い喜之助の耳元で囁いた。

「気がついたかえ。案外敏いのう」

若い。今までの老婆の力ない声ではない。それは低い囁きであったが、明らかに体内に強い力を内包した張りのある声であった。

「しっ、声を上げるでない。お主は監視されておる」

声を上げるどころではない、先程から喜之助は驚愕あまり喉が詰まったようになってしまい、どのような音声も発することが出来ない。

例えば今この女に刃物を差し込まれたらひとたまりもないのだ。

「疑われずに接触するにはこれしかなくてな。近所の婆様の姿を借りたのじゃ」

首を上下に振って喜之助は答える。

「よいか、お主は常に堀の手の者によって監視されておる。それ故奉行所の手の者も迂闊にお主に接触できない。そこで奉行所は強硬手段に出ることにした。お主が軟禁され、監視されておるだけで踏みこむに値すると睨んだわけじゃ。決行は明日の夕七つ・・・」

喜之助には状況がよく飲み込めない。

「そ、それで拙者はどうすれば」

喜之助の上ずった声を嘲笑うかのように女の声が重なる。

「知ったことかえ。逃げるなり奉行所と共に浪人を斬るなり好きにするがよい。これは私の気まぐれじゃ。天から降った幸運だと思ってありがたく聞くが良い」

どういうことだ、この者は奉行所の人間ではないのか。意味がわからない。

「な、そ、どういう」

やっとのことで喜之助が声を上げると、女はまた老婆に戻り大声で答えた。

「ああ、ここです。ありがたやありがたや」

気がつくと二人は一軒の農家の軒先まで歩いてきていた、老婆がおーいと声を上げると、母屋から何の変哲もない百姓男が出てきて、駆け寄ってきた。

「おっかあ。どこ行ってたんだあ、みんなで探したんだぞ」

「足を挫いて動けなくなってしまってなあ。この親切なお侍さんに助けて貰ったんだあ」

そう言うと老婆は体を息子と思しき百姓男に預け、するすると喜之助の体から降りていった。

喜之助は背筋が凍る思いであった。その身のこなし、まるで絡みついた大蛇が体をすり抜けていったようであった。

親子はしきりに大声で喜之助に礼を言う。

しかし喜之助にはこの者たちが何者かもわからない。その不気味さに喜之助が立ちすくんでいると、親子はひとしきり挨拶を済ませ母屋に消えていった。

そこでようやく金縛りが解けたようになり、喜之助はハッとしたように足早に堀帯刀の私塾へ向かって歩き始めた。

明日の夕七つに奉行所が踏み込むだって。

どうしたらいい、どうすれば。

全ては急すぎる。

喜之助の足はどんどん速くなっていった。


十三


その日である。

朝から道場が騒がしたかった。

喜之助はあまり良く眠れなかったが、昨日から思考が回り続けて一切の眠気を感じなかった。

考えもまとまらず、いつものように朝食後に軽く素振りをしていると、道場から歓声が聞こえる。

まだ稽古が始まるには時が早い、何かと思い喜之助が道場に顔を出すと、中には人だかりが出来ており、その視線の先にはむしろの上に寝かされた死体が置いてあった。

その異常な光景に喜之助が驚くと、死体の横に立っていた五郎兵衛が解説をしているのが聞こえた。

「これは昨晩堀先生が始末された密偵だ。大胆にも先生がいらっしゃる母屋にまで忍び込んでいたらしい」

死体をよく見ると見事な袈裟斬りでとどめを刺されていたが、特徴的なのは足が斬られていることであった。

堀帯刀は柳剛流を使うのか。

今までも何度か帯刀が道場で稽古をつけているのを見たことがあったが、脚切りを披露したことはなかった。

その稽古ぶりから非常な難剣を遣うことはわかっていたが、そもそもの流派が柳剛流で有ったことで、喜之助にはある程度得心がいった。

この密偵は命を賭して帯刀の剣を暴いたか。しかしこの切り口、尋常な腕ではない。そう思いながら喜之助は死体に近寄り、そして祈った。

回り込んで死体の顔を見た時、ほっとした気持ちと後ろめたい気持ちが同時に湧き上がってきた。

安次ではない。

見知ったものが死んだのではなかったという安堵と、しかしこの名も知らぬ功労者が身代わりに死んで良かったというわけにもいかないという複雑な気持ちが喜之助の頭の中を駆け巡った。

「赤井さん。どうにも大変なことになりました」

「これからどうなってしまうのでしょう」

喜之助を見つけた太田と田中が近寄ってきて声をかけてきた。

「わからぬ。ただ、斬ってしまった以上はただでは済まないだろう」

「そうでしょうね。みないよいよ対決かと口々に申しております」

「やはり、避けられないのでしょうか」

不安な気持ちを隠せない太田と田中は、救いを求めるように喜之助に質問を投げかける。

哀れなものだ。なんとか彼らを今夜の襲撃から救いたい。何か言葉をかけなくては。

喜之助がそう思っていると、それを遮るかの様に、五郎兵衛が声をかけてきたので三人は咄嗟に口をつぐんだ。

「おう、赤井氏。おはようございます。これは恐らく幕府の密偵でしょう。ここまで大胆に探ってくるということは、すでに我々に目星をつけているということでしょうな」

目星どころではない。今目の前にもう一人密偵がいるのだ。

「しかし、母屋にまで忍び込むとはいささか・・・」

「左様、幕府も焦っているのかも知れませんな。決行を早めるよう堀先生に具申せねば」

これがあの女の言っていた強硬手段の一環というわけか。どうやら奉行所は本当に踏み込むつもりらしい。

己が私塾の図面などを入江に報告できていないことで出た犠牲ではないか。そう思うと喜之助の気持ちは重くなった。

その後も五郎兵衛の熱弁は続き、太田と田中はいよいよ張り詰めたような表情となり、長屋の方に帰っていった。


午前は死体の片付けに終始し、昼になり幹部が集まって密談が開かれた。

喜之助としては己が幹部として認識されている自覚はないし、女が言うには警戒されていると言うので、密談に呼ばれるとは思わなかったが、どういう意図か喜之助も招かれていた。

意見を交わす幹部たちの士気は高く、議題はいつ決起を行うかに集約していった。

「母屋にまで入られたということは我々の計画を知られてしまったということやも知れません。踏み込まれるのは時間の問題かと」

「そうでなくても、密偵が帰ってこなければ敵も当然不審を抱き、第二第三の密偵を放ってくることは必定」

「堀殿、決起の決意を」

侃々諤々、幹部たちの熱意に動かされたのか、帯刀がカッと目を見開き、決起の演説を始める。

しかし喜之助はそれどころではない。この後すぐ夕七つには奉行所の襲撃があるのだ。帯刀の演説などからっきし耳に入ってこなかった。

「このように幕府は己の身可愛さで動く時のみ迅速である。野には未だ窮民が地べたを這い、天は災害を止めぬというのに、それを見ぬふりをして、あろうことか我々有徳の士を害するとは」

どうするべきか。この者たちに襲撃があることを告げて今すぐに解散させるべきか。いやしかしそれでは奉行所の目的が達せられない。実際に幕府転覆を狙っている者はこうしてここにいるのだ。逃がすべきは太田や田中などの無理やり付き合わされている者たちであろう。

「幕府は私利私欲に奔る賊徒である。力の大きさで為政者の顔をしているに過ぎない」

そもそも襲撃があることを告げたとして、この者たちが信じるであろうか。喜之助は未だ完全な信頼を得てはないであろうし、何よりこの者たちは本気だ。このまま野に放っては本当に世の中を乱しかねない。

「さぁ、今こそ我らの立ち上がる時である。決起は明日、府内に配置してある武器庫に人数を配置し、市中数カ所に火を放った後、その混乱に乗じて江戸城に討ち入るのじゃ」

ここでようやく帯刀の言葉が喜之助の耳に入ってきた。

なんだって。江戸に火を放つだって。こやつら、やはり尋常ではない。

江戸はただでさえ火に弱い街である。効果的と思われる場所に意図的に火を放ったら、一体どれだけの人が犠牲になるか見当もつかない。

ここで喜之助の腹は決まった。やはりこやつらは生かしてはおけない。

そう心に決めた時、喜之助の視界に自然に十兵衛が入った。

荒居十兵衛、彼も死なすのか。

喜之助の脳裏に十兵衛の妻子の顔が浮かぶ。

ええい、こうなってはもう私情よ。そもそも己は大義などない薄汚い密偵なのだ。

帯刀の演説が終わり、幹部たちが実務の打ち合わせに入った後、喜之助は十兵衛にそっと耳打ちをした。

「気になることがあります。昨夜別れた後、面妖な者に出くわしました」

「なんと」

昨夜のことを、幕府の密偵と思しき女を背負ったところまでは本当のことを話す。

「その者を成敗しようとしたところ、命乞いをし、重要なことを教えるから生かしてほしいと言うのです」

「ふむふむ、それで」

ここからが喜之助の咄嗟の嘘であるが、十兵衛は信じるであろうか。

「奉行所が本日の夕七つに日暮里の武器庫を襲うというのですが、日暮里にまことに武器庫はあるのでしょうか」

「それは恐らく谷中の蔵のことでしょうな。よく教えてくださった。念のため見に行く必要があるでしょう」

「行ってくださいますか」

「堀殿の許可を得てきます」

そう言うと十兵衛はすぐに帯刀のところへすっ飛んでいった。

喜之助が心配そうに様子を見ていると、意外にも話はすぐにまとまったと見え、十兵衛は戻ってきた。

「さすが堀殿ですな。昨夜放っていた斥候が老婆を背負う赤井さんを見ていたそうです」

「そうです。まさにその時です」

やはり監視されているというのは本当だったか。それを上手く利用する形となったが、何はともあれ、その時から十兵衛を逃がすことができて喜之助はほっとした。

しかし、なぜ決起は明日なのだろう。

喜之助は冷静になると、それが心に引っかかった。

事態は切迫しているのだ、やれるのであれば今日決起するべきではないのか。

お陰で奉行所の襲撃にとっては好都合であるが、都合が良過ぎはしないだろうか。

帯刀は底知れぬ男であり、食わせ物でもある。

何か意図があってそうしているような気がして喜之助は不安になった。

なあに、後は太田や田中たちを逃して、己はこの場に残って彼らの逃げる時間を作り、斬り死にすればよい。

それでこの後ろめたさも精算される。

喜之助は覚悟を決めた。

そうなれば後は単純なものだ。その後のことは奉行所に任せればいいのだ。


十四


十兵衛が出ていった後、昼八つを過ぎた。

幹部以外の同志たちは道場に集められ、五郎兵衛より明日の決起の手順と配置が説明されていた。

三十数人は集まっているだろうか。

この内幾人を逃がすことができるであろうか。

喜之助が考えるのはもはやそれだけである。

ある程度、五郎兵衛の説明が終わった後、道場を熱気が支配した。

気炎を上げる者、肩を抱き合い感極まる者、決起に興奮するものが目立ったが、しかし一方では太田や田中に目配せすると、萎縮して浮かない顔をしていた。

時間的にも今しかない。これ以上時が経つと彼らは包囲から逃げられないであろう。

喜之助は意を決した。

「すみません、ここで一つ拙者からみなに伝えたいことがあります」

「おお、赤井氏。何でしょう」

喜之助からも気炎が上がるのを期待したのか、五郎兵衛が相槌を打つ。

「大事な話ですのですみません」

道場は都合よく入り口以外は全ての雨戸が締め切られている。不意の来襲に備えてか雨戸には釘打った心張り棒が支えてあり、容易には開かないようになっていた。

当然道場は薄暗くなっているが、そこで喜之助は明かりを求めるという体を装い、出入口付近に移動した。

「皆さん高邁な志を旨に集まっていることは疑いようのないことですが、様々な事情でまだ死ぬことが出来ないと考える方もいらっしゃるでしょう」

「赤井氏、なにを」

何か異常を感じ取った五郎兵衛を喜之助が手で制する。

「大事なことなのです。ここで心を一つにせねば、なるものもなりません」

「ああ、そういう」

五郎兵衛は何か納得したのか引き下がり、喜之助は続けた。

「未だ覚悟が決められない方は、正直に拙者のところへ集まってください。拙者からあなた方へ話すべきことがあります」

喜之助がそう言葉を投げかけると、同志たちに明らかに動揺が広がった。

太田と田中は不安そうに周りを見渡し、そして喜之助に視線を向ける。

彼らと目が合った喜之助は、安心させるようにゆっくり頷いた。

すると太田と田中は喜之助の方へ歩み寄り、それを見た数人がぽつぽつそれに追随して喜之助の周りに集まり始めた。

「これだけですか。まだいませんか。大事な話です。後悔しないためにも、不安な方はいらっしゃってください」

最後のダメ押しをすると、最終的には二十名程の者が喜之助の周りに集まった。

「これで全てですね。ではお話を致します」

半数以上はこちらに来たか。これは喜之助にとって嬉しい誤算であった。後は彼らの幸運を祈るだけである。

「この嚢の中に五十両分の金が入っています」

入江正太郎から貰った金である。まさかこんなところで役に立つとは。

「太田、田中これを二人に預けます」

一体何の話だ。太田と田中を初め、集まった者たちはあっけにとられている様であった。

「この金を持って、皆さんお逃げなさい」

「えっ」

驚きの声と共に一同がどよめく。

「この後すぐに奉行所の襲撃がある。皆さんこの金を持ってお逃げなさい。長屋の家族を連れて一刻も早く」

「なんだと。赤井氏、どういうつもりだ」

ことの重大さに気がついた五郎兵衛が吠える。

「母屋とは反対方向に、一塊になって最寄りの宿場まで逃げなさい。そうすれば恐らく事前にことを荒立てたくない奉行所はあなた方を見逃すはず。後はその金を分け合って、散り散りに新しい土地へと逃げるのです」

喜之助は五郎兵衛に構わず続ける。五郎兵衛は静かに抜刀した。

「赤井さんはどうするんです」

太田の悲鳴のような叫び声が道場に響いた。

「私は密偵です。幕府の犬です。ここらへんでこの悪事を精算しないといけない。ここは私が食い止めます。金も汚い犬の金だ。気にせず使ってください」

「赤井。言いたいことはそれだけか。この裏切り者が」

抜刀した五郎兵衛が迫ってきた。

「早く、皆逃げてください。拙者に同情は不要です。拙者は裏切り者だ」

喜之助がそう言うや否や、数人が喜之助の背後の出入り口に向かって走り去って行った。

それを見た生き延びたい者たちは一斉に駆け始める。

「どうかご無事で」

泣きそうな声でそう叫ぶ田中の声を背中で聞き、喜之助は満足そうに微笑んだ。

「何がおかしい。幕府の犬め。ここで始末してやる」

「信じていたのに、赤井さん。裏切るなんて」

「我々の戦力を減らそうという腹か。しかしあんな腰抜け共がいなくなったところで我らの勢いは止められんぞ」

残った者たちは口々に喜之助を罵るが、喜之助にはそれは却って心地よかった。

これでようやく彼らを欺かずに済む。ここには一個の薄汚い犬がいるだけだった。

喜之助は出入り口を守る形で彼らに立ち塞った。

最初に仕掛けてきたのは山田五郎兵衛である。

稽古の時と寸分変わらぬ疾さで五郎兵衛の斬撃が喜之助を襲う。

それを喜之助は十分な距離を取って躱した。

「裏切り者とはいえこやつは手練れ。下手に手を出すと大事な手勢を失ってしまう。俺がやる。他は手を出すな」

五郎兵衛はそう言うと更に鋭い疾さと角度で喜之助に斬り込んできた。

しかし喜之助は抜刀することなくまた余裕の距離を取ってそれを躱す。

「抜け、斬り合え赤井。どこまで卑怯なんだ」

五郎兵衛が吠える。

およそ達人同士の斬り合いの場合、片方が完全に逃げに徹すれば勝負は容易にはつかない。

生き死にを賭けた斬り合いは、お互いが死地に乗り込んでお互いを斬ろうとしなければ成り立たないのだ。

そうでなければ永遠に必殺の間合いに入ることはない。

喜之助が今していることは時間稼ぎだ。とにかく少しでも逃げた者たちが遠くまで逃げおおせる時間を稼がねばならない。

「山田さん。おかしいと思わないのか。民草を救うと言う者が、江戸に火を放ち民草を苦しめるという」

「裏切り者の言葉など聞かぬ。ここで殺してやる」

五郎兵衛はがむしゃらに斬り込むが、喜之助は相手にしない。

「民草を苦しめて目的を達するのであれば、それは幕府と何が違うんだ」

「うるさい。議論はしない。大義がある」

「大義はただの言葉だよ、山田さん」

何合か言葉と刀の空振りを繰り返し、五郎兵衛やっと己の行動の愚に気がついた。

五郎兵衛は己と出入り口の直線上に喜之助がいないことを確かめると、一気に出入り口へと駆け出す。

ここでようやく喜之助が抜刀する。出入り口へまっすぐ向かう五郎兵衛に突きを放った。

横軸で動くものを突きで仕留めるのは容易なものではない、これは五郎兵衛を仕留めるための突きではなく牽制だった。

「やっと抜いたな。尋常に勝負しろ。ここで斬られろ」

五郎兵衛は喜之助の突きを軽く避けると、少し後退りし距離を測った。

「ここで斬られることには異存はない。しかしもう少し待ってほしいな」

「ほざけ」

一之太刀の間合いに入った五郎兵衛は跳躍し、一瞬で距離を詰めてきた。

これを躱せば出入り口から逃げたものを追う、先程の行動はそういう脅しであろう。

喜之助は切り結ぶ覚悟を決め、己からも踏み込んだ。

「なんだと」

五郎兵衛はそう叫んだつもりであったが、実際にそう口にすることはなかった。

斬り死にを覚悟した思い切りの良い喜之助の踏み込みは、稽古の時とは何もかもが違った。

電光の様な素早い切込みは、跳躍中の剣を振りかぶった状態の五郎兵衛に追いつき、五郎兵衛の左腕ごと左袈裟を深く切り裂いた。

一刀流奥義、切り落とし。

「なんだと」

と、先程語ったのは五郎兵衛の目だけであった。

それもほんの一瞬のことで、五郎兵衛の瞳はすぐに生気を失った。

斬撃は深く、へそのあたりまで達しており、即死であっただろう。

「馬鹿な、山田さんが」

「どうしてこうなった」

道場に残っている十数名に動揺が広がる。

己だって出来れば山田を斬りたくはなかった。喜之助からすれば、先程の説得は時間稼ぎ半分、本音が半分といったところであっただろう。

「さあどうする。まだやるか」

「当たり前だ。生かしては返さん」

そう言う同志たちは口とは裏腹に喜之助には近づいては来ない。

それもそうであろう。

お互い稽古を通して手の内は知り尽くした上に、喜之助とは数段の腕の差があることがわかりきっているのである。

「まとめてかかれ。一斉にかかれば勝機はある」

誰かがそう言いはしたが、実際に集団戦の訓練を積んだわけでもないし、指揮官がいるわけでもない。

結果、大人数で滅多矢鱈に打ち込んできたのだが、一人が斬り込む動線に誰かが途中で割って入り体をぶつけ、隙間を見つけてはまた別の者が斬り込んでくるのであったが、何分この暗さである、次第に味方を斬ってしまい散々な状況になった。

この状況に喜之助も積極的には殺傷をしない。

このまま時間を稼げれば、太田や田中たちも逃げおおせる可能性が高くなるし、その時が来ればこの者たちも殺さずに捕らえられるかも知れない。

しかしさすがに衆寡敵せず、喜之助も次第に細かな傷を負い始めた。

相手も集団戦にだんだん慣れてきたのか、襲い掛かる動作も順序も徐々に様になってきたようであった。

もうかれこれ四半刻は戦っているだろうか。その時はもうすぐ来る。しかし来るまで、己は生きているだろうか。

もとより死を覚悟している。心残りも特にはないようだった。

その後も数合に渡って切り結び、いよいよ膝に力も入らなくなり、喜之助もこれまでかと思い至った時、突然建物の外からバリバリと音が鳴った。

気のせいか。喜之助は訝しんだが、その音は同志たちにも聞こえていたと見え、彼らの動きが止まる。

そして、再度バリバリと音がした時、一斉に雨戸が引き倒された。

傾いた西日が道場に一斉に乱反射し、喜之助たちの目がくらむ。

「御用である、御用である」

あ、その時が来た。喜之助は膝から崩れ落ちた。

数えることが出来ないほどの武装した捕物出役の小者たちが一斉に道場になだれ込む。

その中から一人が素早く喜之助に歩み寄り、肩を貸して喜之助を支えた者がいた。

「赤井様、大活躍でございやしたね」

安次である。

喜之助はほっとして全身の力が弛緩した。

「おっと、大丈夫ですかい。どっか斬られなすったか」

「いや、大事ない。疲れてしまって」

どうやら残った同志たちも疲労困憊してしまったようで、大人しく縄についていたようであった。

「入江殿は」

「旦那は母屋に行きやした」

まずい、帯刀は手練れだ。それに柳剛流を遣うことを教えねば。あの頼りない入江正太郎ではひとたまりもないであろう。

「拙者も母屋に」

「その体でですかい」

喜之助はそれだけ言うと、安次の肩から離れ、母屋へ向かった。


十五


喜之助が母屋へたどり着くと、ちょうど同心たちが母屋にいる幹部たちと切り結び始めたところであった。同心たちは慎重に母屋を包囲し、少しずつその輪を縮めていいる。

その輪から少し離れた中庭に馬上にいる与力の伊沢が確認できた。後方で現場の指揮を采っているのだろう。

ということは、その周囲か。喜之助がその辺りを注意深く見渡すと、果たして丸い体を弾ませて正太郎が行ったり来たりしていた。

さすがに斬り込み隊には選ばれぬか。喜之助はほっとしながら正太郎に歩み寄った。

すると正太郎も喜之助に気がついたのか、にこりと微笑みながら近づいてきた。

「これは赤井殿ご活躍でしたね」

この主従は示し合わせたように同じようなことを言う。

しかし喜之助はそれどころではなく、いくつか伝えたいことと確認したいことがあった。

「堀帯刀、ここの首魁は柳剛流を遣います。気をつけてください。それと、浪人が家族連れで四十人程ここを逃げ出しましたが、捕らえるか逃がすかしましたか」

正太郎はまあまあ落ち着いてというと、配下の小者と幾つか応答を繰り返し、何か指図をした後で返答した。

「柳剛流の件は承知しました。斬り込み隊に伝えましょう。首魁は母屋の一番奥の床の間にいるようです。また、浪人の家族連れの話は報告を受けていません。我々は関知していません」

それを聞くと喜之助緊張の糸が切れ、安心して座り込んでしまった。

正太郎はそれを助け起こし、腰を掛けられそうなところを探して案内しようとした。

具合の良さそうな切り株を見つけると、正太郎は喜之助の肩に手を回し、体ごと担ぐように歩き始める。

喜之助は丸い正太郎の体におぶさるように抱えられ、存外力があるものよと喜之助は感心した。

完全に正太郎に身を任せ、互いの顔が接近した時、突然正太郎が周りには聞き取れないぐらいの小声で囁いた。

「浪人達を逃しましたか」

虚を突かれた喜之助はぎょっとして返答に窮したが、何も後ろめたいこともないと思い直し堂々と答えた。

「ええ、逃しました。あなたに頂いた金が役に立ちましたよ」

それを聞くと正太郎はさも可笑しそうに高々と笑った。

「そうですか、役に立ちましたか。それは何よりです」

喜之助としてはせめてもの皮肉を言ってやったつもりであったが、こうもあっけらかんと返さえると毒気も何も霧散してしまう。

「彼らは堀帯刀に騙されて手勢に加えられていただけなのです。謀反の意志はなかった。どうか見逃してほしい」

「赤井殿は軍資金を使い、見事敵の戦力を半減させた。この出来事はそれ以上でもそれ以下でもござらぬよ」

「かたじけない」

同心というものは好かぬが、この男は信頼に足る男かも知れない。喜之助は改めてそう思った。

切り株で一息つき、喜之助が母屋に目をやると、抵抗していた幹部たちも一人二人と討たれ、または捕縛され、包囲網は既に屋内に進入しているようだった。

やはりこのまま傍観しているわけにもいかない。そう思った喜之助は思い切って立ち上がると、母屋に向かって歩き始めた。

「赤井殿、どうするつもりです」

「ここまま安全な位置で見守るというわけにもいかないでしょう」

そう言うと喜之助は歩みを早めた。どうやら体に少しずつ力が戻りつつあるらしい。これなら多少はやれそうだ。そう見込みがつくと喜之助は勢いよく母屋に向かって走り出した。

「せっかちな人だなあ」

正太郎も文句を言いつつ喜之助について母屋に向かう。

縁側から母屋に乗り込むと、そこには斬り死にした死体、刺股でがんじがらめになって捕縛された者等がごろごろ転がっていた。

奥の方からはまだ剣戟の音が聞こえる。帯刀はまだ抵抗しているようだった。

そこに喜之助と正太郎が踏み込むと、ちょうど帯刀の最後の護衛が二人、斃されているところであった。

帯刀はそれを全く意に介していないようであったが、それだけ自身の腕に自信があるのだろうか。

「ここは私がやります。いいですね、入江殿」

喜之助は包囲を掻き分け一歩前に出る。正太郎は無言で頷いた。

これ以上犠牲者を出すこともなかろう、死ぬ優先順位の高さなら己のほうが上だ。喜之助のそういう思いからの申し出だった。

その姿を見て、余裕を保っていた帯刀が初めて感情を顕にした。

「なるほど、お主が裏切り者であったか。余計なことをしてくれたものよ」

「堀帯刀、大人しくお縄につくか、それともここで果てるか」

「たわけが。計画が台無しじゃ」

そう叫ぶと帯刀は素早く鞘から刃を滑らせ、抜き打ちで喜之助の足を払ってきた。しかしその一撃は朝の死体で想定済みである。喜之助は無造作にそれを刀で払うと、キンと甲高い音がして両者の刀身が折れて飛んだ。

しまった、連戦で刀に傷が入っていたか。喜之助はそう思ったが特に動揺はしていない。素早く脇差しを抜くと丹田に柄を当て、体ごとぶつかるように猛然と帯刀に突っ込んだ。

帯刀も折れた刀を捨て、脇差しを抜く。が、すでに喜之助の刃は体ごと眼前に迫っていた。この全体重をかけた勢いは小手先では止められない。帯刀は堪らず後方に飛び退く。

そこへ喜之助の丹田から電光の様に突きが飛んだ。

これは体制を保ったまま避けることは出来ない。帯刀は醜く転がりながらこれを免れた。

「どうだ、観念しろ」

喜之助の体に次第に気力が充実してきた。ようやく疲労が回復しきたらしい。

すると帯刀は寝転がった状態で高笑いをしはじめた。

「はっはっはっは。止めじゃ止めじゃ。観念観念。だがお主達が勝ったわけではない」

「どういうことだ」

「この期に及んでみっともないですな」

正太郎も口を挟む。

「ふん、馬鹿共め。全てを台無しにしおって。儂も同じじゃ。密偵じゃ。しかも町奉行なんてしみったれたもんの密偵じゃない。御公儀の密偵じゃ」

なんだと、どういうことだ。同心一同にざわめきが広がった。

「妄言を吐くな。この後みっちり奉行所で取り調べを受けてもらうのだからな」

正太郎がそう言うと、帯刀は上体を起こし、不敵に笑った。

「お主らも己の首が惜しければ、儂を牢に打ち込む前に、酒井雅楽頭様に確認を取るんだな。儂は老中酒井様の密命を受け、不逞浪人を集めておったのよ。もちろん後でそれを一網打尽にするためにな。わかったらとっとと与力にでも確認させい。お主らがそうせんでも公儀隠密の方から報告は行くと思うがな」

同心の一人が慌てて外に飛び出した。伊沢に報告をしに行くためだろう。

帯刀は悠々と脇差しを鞘に納め、胡座をかきニヤニヤと周りを見渡している。

同志たちはみな所在なさげに、言葉もなく次の指示が来るのを待つだけであった。

喜之助としても。あまりにも突飛なことが起きて思考がついて来なかった。


十六


丁重に堀帯刀殿を奉行所までお連れするように。

それが与力の伊沢の上司である町奉行からの命令だった。

死体を役人に任せ、捕らえた者は縄に繋ぎ、奉行所の一行は粛々と帰路につく。

誰も言葉を発するものはなく、それはまるで葬儀の行列の様であった。

先頭を往くのは馬上の堀帯刀。一人まるで戦勝の凱旋の様な晴れやかな顔で手綱を採る。

そしてその馬の後ろには顔面蒼白の伊沢が歩いていた。

喜之助はずっと正太郎と肩を並べて歩いてたが、互いに掛ける言葉がない。

そのまま一刻以上かけて八丁堀までたどり着くと、奉行所にはすでに酒井雅楽頭の家臣が待ち構えていた。

その家臣は堀帯刀に恭しく接し、北町奉行所の一同はいよいよ己たちが巨大な失態を犯したことを認めざるを得ない様子であった。

一行が奉行所に収まると、すぐに飛ぶように人が行き来し始め、この混乱の処理は始まった。

町奉行は既に老中に詰められているらしく、奉行所の動きに不審のかどありありとして、すぐに詮議が行われることなった。

これにより喜之助も証人として奉行所に留まることになり、昼夜を問わず何度か白洲呼び出されたが、身分の違いからか直接の吟味は行われず、ひたすら座敷で平伏する伊沢が畳に吸わせるように事の顛末を報告するのであった。

喜之助が解放されたのは二日目の夜になってからであった。

伊沢は処罰が決まるまで閉門、正太郎たち同心は罪は不問であるが町奉行から叱責を受けたということであった。

「それで、帯刀はどうなったのです」

「今夜報酬を貰い、ほとぼりが冷めるまで江戸から逐電するでしょう」

解放される間際、正太郎は顛末を語った。

帯刀の言っていたことは真実であった。

帯刀は国学と剣術で多少名が売れており、文化人の間を泳ぎ渡り名声を経て、大名相手に講義をすることもあったらしい。

そこで折からの権勢争いで大老の地位を狙っていた酒井雅楽頭が、その名声を利用して浪人を集めて不逞として処罰し、幕府に対して点数を稼ごうとしていたということであった。

この世にこれほど酷いことがあるものか。喜之助は事情を知るうちに酒井雅楽頭と堀帯刀に対する怒りがふつふつと湧きが上がってきた。

とかく、見たこともない雅楽頭より、帯刀への怒りは骨髄に染み渡るようなものであった。

「入江殿はなんとも思わないのですか。いくらなんでも、こんなにも人を馬鹿にしたことがあってもよいものでしょうか。騙されて殺された者、これから罪を得る者のことを考えるといたたまれなくなります」

「伏魔殿ではよくあることですから」

「所詮あなたとは相容れないようだ」

喜之助は怒りを隠さない口調で強く言うと、席を立った。

取りすがるように正太郎も立ち上がり、表立った報奨は出せないが、少しばかり喜之助にも金を渡せること、これまでの嫌疑は約束通り全て水に流すことを早口で伝えた。

喜之助はそれには返事をせず、まっすぐに玄関に向かう。

正太郎も仕方なく無言の喜之助に従い、門の外までついてきた。

「帯刀は下総の生まれのようですな」

立ち去る喜之助に正太郎それだけをぽつりと言った。

「それはどういう意味ですかな」

あまりにも唐突な言葉に、喜之助が聞き返すと

「しばらく江戸には帰ってこられませんからな。最後に吉原にでも行くでしょう」

「吉原から下総に向かうとすれば、向島の渡しですかな」

「私が言えるのはこれだけです」

と正太郎はそう言って悲しげに首を振った。

喜之助は小声でかたじけないと言うとそのまま真っすぐに立ち去った。

正太郎は喜之助が見えなくなるまで辻で見送っていた。


十七


刀を換えなければならない。

一昨日の帯刀との一戦で刀が折れてしまった。

幸い家にはまだ一振りの刀がある。

これは父の形見の刀で、家宝の刀であるが、斬奸を行うには相応しかろうと喜之助は思った。

空はすっかり暗くなってしまった。喜之助は神田川沿いの通りを小走りで駆け抜けて、柳橋の自宅へと急ぐ。

そう、急がねばならない。今晩帯刀を仕留め損ねれば、もう仕留める機会は失われてしまう気がする。

両国の広小路に差し掛かり、柳橋の袂まで来た頃には、既に街路には人っ子一人歩いていなかった。

今晩は新月ではないが、雲が厚く、通りはかなり暗い。

辺り一面闇のようであるが、その闇にも濃淡があり、建物の陰になっている部分はより一層闇が濃かった。

その濃い闇が突然盛り上がり、跳ねた。

喜之助は驚きのけぞったが、その瞬間左肩に鈍痛が走った。

まずい、斬られたか。

喜之助が脇差しを抜抜くと、闇は一瞬距離を取り、そしてまた向かってきた。

その闇の頂点に向かって喜之助は脇差しを振り下ろす。が、今度は闇は下がらない。

刃は闇に当たったようだが、ずんという重い手応えを喜之助は感じ、その直後今度は鳩尾に激痛が走った。

手甲と鎖帷子だ。喜之助は焦った。これでは刃物はほとんど通じない。

それに相手の姿形や武器が正確に視認できない。

全身黒装束で、武器も黒塗りしてあるのだろう。ただ闇が動いているようにしか見えなかった。

仕方なく喜之助は多少の当てずっぽうで脇差しを振るったが、闇はそれらをことごとくすり抜け、まるで手応えがない。

「諦めるのじゃ。この先に行かすわけにはいかん」

喜之助ははっとした。その低い声に聞き覚えがある。

「お主、あの時の女だな。そうか公儀隠密であったか」

女は無言で黒い棒のようなものを振るった。

棒は女の拳を中心に弧を描き、思いもよらない方向から喜之助の腰に打撃を与えた。

喜之助は帷子に覆われていない目元と指先を狙い脇差しを振るったが、女はそれをまるで予測していたかのようにするりするりと躱す。そして躱すたびに喜之助を棒で打ち据えるのであった。

「それほどまでに帯刀を守りたいのか」

喜之助がそう呼びかけたが、女は返事をせず黙々と戦闘を続けた。

それを見て喜之助の中で燃え上がる怒りがついに頂点に達した。

喜之助は脇差しを乱暴に振り回し、力押しで女を制しようとしたが、その尽くが手の内を知られているかのように躱される。

馬鹿な。喜之助は驚いた。喜之助の得意とする獲物はもちろん大刀であったが、小刀術にも自信があった。初見でここまで避け得る者がいるとは到底思えなかった。

これが忍びの実力というわけか。しかしそれには解せないことが一つあった。

なぜこの女は躱すだけで必殺の一撃を撃ってこないのであろうか。

これほど躱せるのであれば、反撃で喜之助を仕留めるのは容易であるはずだ。

「引き返せ。今日は同心の家にでも泊めてもらえばよかろう」

なんだ、目的がわからない。この者は意図的に喜之助に痛みだけを与えて、意志を砕こうとしているようだった。

喜之助はかっとなった。侮られている、しかも相手は憎き帯刀を守るためにそれをしている。

喜之助は脇差し柄を胸の高さに構えると、ゆっくり柄を胸に近づけて後退させた。

女は次の攻撃を予期して咄嗟に棒を身構える。

その姿は喜之助には相変わらず闇にしか見えないが、何度か斬り結び、相手の獲物の形がわかってきた。

棍棒の横に柄をつけたものを、逆手に持つようにして左右の手に持っている。

それを交差させて喜之助の突きに備えているのだ。

やはりこの女、一刀流を知っている。

喜之助は脇差しをじゅうぶんに胸に引きつけて、全力で突きを放った。

女はそれを受け流そうと半歩退いて棒で払おうとした。

しかしそれこそ喜之助の意図するところであった。

喜之助は手首をひねり上に向いていた刃を下に向け、突きの軌道を斬撃に変更し、棍棒を狙って振り下ろした。

かっと鈍い音がし、二本の棒の交差点に脇差しの刃が食い込む。

そして女の体重では喜之助の斬撃の勢いは受け止めきれなかったと見え、棒ごと女は体制を下に崩した。

喜之助はそのまま力任せに脇差しを振り切ると、棒は女の手を離れ、女は素早く地面に手を付き体制を立て直そうとしたが、その瞬間、喜之助の手刀が女の後ろ首に当たった。

堪らずのけぞる女の手にはクナイらしき刃物が鈍く光っていたが、それに構わず喜之助は女の鳩尾に拳を入れた。

「御免」

そう言うと喜之助はすっと飛び退き、棒に食い込んだ脇差しを棒から離して、鞘に納めた。

女はうつ伏せに転がっていた。呼吸が上手く出来ないらしく、ぜえぜえと言いながら喜之助を睨んでいる。

喜之助はそれに構わず立ち去ろうとした。

女は命のやり取りをするつもりはなかった。殺すまでもあるまい。

すると背後からか細い声が聞こえた。

「きのすけさま、行ってはなりませぬ。その先には・・・」

今までの女の声とは全く違う声色であった。老婆のものとも、不遜な低い声とも違う。

或いはこれが本来のこの女の声なのかも知れない。その声は不思議と懐かしい気さえした。

「おねがい・・・きょうは引きかえし・・・」

しかし喜之助は当然公儀隠密等に知り合いはいないし、何より今は帯刀を斬ることが先決である。

哀願する女を捨てて、喜之助はそのまま自宅へと向かった。


十八


喜之助が裏木戸を潜り、自宅続く長屋の路地に入ると、その男は立っていた。

そうか、忘れていたわけではなかったが、そうか。

喜之助は一瞬気後れしたが、意を決して男の方へ近づいた。

さっきまで分厚かった雲に切れ目が生じ、月明かりが男を照らす。

男は荒居十兵衛であった。

その顔は怒りによって赤黒く染まり、体の周囲は陽炎が生じたかのように歪んで見えた。

「赤井喜之助、何か言いたいことはあるか」

怒りを圧し殺すかのような低い声で十兵衛は発声した。

仁王像が人間になったらこの様なものであろうな。

喜之助は畏怖の念を覚えながらも、これは避けられないことであると自分を奮い立たせた。

「刀を取りに来た。ここでは近所の迷惑になる。河原へ行こう」

「よかろう。話が早い」

喜之助は自宅に入り、素早く刀を換えると、すぐに外に出てきた。

二人の浪人は無言で長屋の路地を抜け、裏木戸を潜り、土手沿いの柳の下を抜け、そして大川の河原に降りていった。

「赤井殿、拙者は貴殿の具申に従い私塾を離れた。幸い武器庫への攻撃はなかった。しかし、私塾に帰ってみれば、全ては終わっていたのだ。何か言いたいことはあるか」

「言いたいことはない。およそ荒居殿の察した通りだと思う」

喜之助がそこまで言うと、ものすごい勢いで突風が吹いた。

それは突風と思える様な、十兵衛の抜き打ちであった。

紙一重で躱した喜之助の絣は横一文字に裂け、鳩尾のあたりからはうっすらと血が流れていた。

「良くぞ躱した。それほどの腕がありながら、なぜ」

十兵衛は絶句した。そして大粒の涙を流した。

声にならない咆哮を発し、十兵衛は斬撃を繰り出す。

喜之助はじゅうぶんに距離を保ったつもりであったが、どの斬撃も紙一重の危うさであった。

「抜け、なぜ抜かない。拙者から逃げおおせると思うてか」

そうだ、このまま逃げ続けることなど出来ない。たとえこの場をやり過ごしても、十兵衛は地の果てまでも追いかけてくるであろう。

喜之助は覚悟を決めると両刀を鞘ぐるみで腰から抜き、十兵衛の方へ投げた。

「何のつもりだ」

「聞け、十兵衛ぇ」

「言え、喜之助ぇ」

二人は絶叫した。

そうだ、ここは全て正直に話してしまおう。喜之助はそう決心した。自分はここで斬られてもいい。ただ、堀帯刀という者がどういうものであったか知れば、きっと自分の代わりに十兵衛が帯刀を仕留めてくれるだろう。

「俺は斬られてもいいんだ、十兵衛。斬ってくれて構わない。俺はあんたが思う通りの薄汚い密偵だ。死ぬ覚悟はできている。ただ、死ぬ前にどうしても斬らなければならない男がいるんだ」

「何の話だ」

「帯刀は生きている」

「牢屋でか」

「いや、今頃吉原で女でも抱いているだろう」

「なんだと、どういうことなんだ」

喜之助は事の顛末を全て洗いざらい話した。

興奮しているせいか話が前後したり、言葉に詰まったりした。

丸腰になった喜之助は、いつ斬られても良い覚悟で、全てを伝えきろうと、大きく両手を上下させて必死で話す。

最初は激高して聞いていた十兵衛だったが、話が事の真相に及ぶと、信じられないといった風に大きく頭を振った。

「馬鹿な。それでは己は、我々は、その様な幕府の権力争いの道具として弄ばれただけなのか。正義はなかったというのか」

「真偽はこの先の向島の渡しでのうのうと生きている帯刀を見たら分かると思う。俺を斬った後、それを確かめて、そして俺の代わりに帯刀を斬ってくれ」

喜之助がそういうと十兵衛はとうとう刀を放り出して声を上げて泣き出してしまった。

「ふざけるな。全てが嘘だったのか。こんなことがあってたまるか。こんなの武士でもなんでなんでもない。最低な輩共の最低な騙し合いじゃないか」

「だからだ、帯刀を斬ろう。これは我々の武士としての矜持だ」

そう言うと喜之助は十兵衛の刀を拾い、彼にそれを握らせると両手を広げて己の身を差し出した。

しかし十兵衛はそれには反応せず、静かに刀を鞘に納めると、大音量で手鼻をかみ、目と鼻を一緒くたに袂で豪快に拭った。

「喜之助、行こう、共に。帯刀を斬ろう」

「いいのか。俺を許すのか」

「許すも何もない。お主は脅されていただけ、しかもその立場で極力被害を減らそうと太田たちを逃してくれた」

「そうだ、それに火を放つ前で良かった。お主の細君も子どもたちも、この町の多くの人たちもまだ生きられる」

喜之助がそう言うと、十兵衛は生気を取り戻し、誓うように言った。

「大義のために起つ。そう決心したことには今でも悔いはない。しかし、犠牲を伴うことにずっと迷いがあった。それをずっと、大義のために仕方のないことだと己に言い続けてきたのだ。だが己は愚かであった。この世に大義などなかったのだ。今は妻子や周りの人々の顔を思い出すばかりだ。初めて目が覚めた気がする」

都合の良い変心と誰が責められようか。武士ともあろう者が赤心で涙を流しているのだ。

喜之助が大きく頷くと、十兵衛は喜之助の大小を拾い上げ喜之助に差し出した。

「時間を取らせてしまった。間に合えばいいが」

それは喜之助も危惧していたところである。

それから二人は全速力で走り出した。汗まみれになりながら無言で走った。

柳橋から向島の渡しまでは一里弱であろう。

走れば四半刻もかからない距離だ。

無心で浅草を通り越し、吉原を左手に堤防沿いを走りきり、ようやく向島の渡しに差し掛かった。

いつの間にか夜空は晴れ渡り、月明かりではっきりと船の往来が見える。

「あ、あれは帯刀ではないか」

十兵衛が声を上げ対岸を指さした。

確かにそこには、向島側に渡り終えた人影が見える。

「わからん。俺には判別がつかん」

「江戸育ちと一緒にするな。俺には見える。間違いない。帯刀だ」

「しまった、遅かったか」

「あの渡しが戻ってきたら乗って追いかけよう」

やはり時間を取られすぎたのか、帯刀が渡しに乗る前には間に合わなかった。

戻ってきた渡しに乗って追いかけて、見つけられるだろうか。

二人は苛々を隠かくせず地団駄を踏む。

その時である。

ひいっ、という叫び声が聞こえ、船が勢いよく岸を離れた。

「なんだ」

「帯刀が誰かと話している、あっ、相手は刀を抜いているぞ」

喜之助も驚いて目を凝らすと、なるほど誰かが抜刀して帯刀と相対しているようである。

そして帯刀も低く腰を落とす。どうやら抜刀の構えをとったようであった。

「やり合うのか。誰なんだ」

二人の位置が左右に動き、ちょうど月明かりがその相手に当たる。すると丸い人影がくっきりと浮かび上がった。

「あ、あれは」

喜之助にはその丸さに心当たりがある。

「だめだ。あんたじゃあ相手にならない。逃げるんだ。俺たちがやる」

喜之助は堪らず対岸に向かって大声を上げた。

しかし、逆にそれが合図になってしまったかのように、二人の影が動き出す。

「足をっ」

そう喜之助が叫んだ時、丸い影は毬のように中空に跳ね、帯刀と交錯した。

その速さに帯刀の抜き打ちは虚しく宙を斬り、勢いのままに丸い影はそのまま何処かへと消え失せて行った。

一人その場で活動を止めた帯刀は、影絵のように月明かりに浮かび上がったが、一瞬の間を置いて遠目にも見えるほどの赤黒い血しぶきを上空に吹き上げ、やがて音もなく崩れ落ちた。

あっ、あいつ。実はできるのだ。

喜之助の頭の中を怒りとも安堵とも取れない気持ちが駆け巡る。

「一体誰なんだ。凄まじい遣い手だ」

十兵衛が驚嘆してそう言うと、喜之助は複雑な気持ちを抱えたまま答えた。

「我々の他にも、ささやかな正義を守る者がいたということだ」

そう言ってしまうと、喜之助はなんだか嬉しいような気分になってきた。

誰もが無責任に生きているわけではない。

地位がある者の中にも、矜持を持って生きている者はいるようであった。

それぞれの暮らしにそれぞれの矜持がある。それを目の当たりにして喜之助は目が覚めた様な気分になった。

「なあ十兵衛。事が終わったとはいえ、とりあえずは食っていかなきゃならんだろう。良い口入れ屋を知っているんだ。紹介するよ」

十兵衛は突然そう言われてびっくりした様子であったが「そうだな。とにかく食っていかないと何事も始まらん」と生真面目に答えた。

それを見て、喜之助の中に少しずつ日常に戻る実感が湧いてくる。

対岸にはもう何者の影も存在しない。

喜之助が帰るそ素振りで歩き出すと、十兵衛も静かにそれに続いた。

行きとは全く異なるゆっくりとした速度で二人の影は大川沿いの堤防を歩いていく。

その影は途中で止まったり、大きく体を広げて何かを表現したりしていたが、やがて江戸の町へと消えていった。


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