中年浪人用心棒になる

遠藤伊紀

中年浪人用心棒になる


江戸を照らす陽はすでに高い。

柳橋界隈はすっかり賑やかになり、表通りには人々がひっきりなしに往来し、裏長屋にも何かしら生活の音が鳴り響いていた。

その営みに一人参加せず、赤井喜之助は布団に包まり寝そべっている。

痛い、全身が痛い。

足腰はギシギシと音を立てるかのように軋み、太ももやふくらはぎは気を抜くとこむら返りを起こす。何度か安全な角度を求め身をよじったが、どうやら横向きにくの字になって横たわると痛みは比較的大人しくしてくれるようだった。

齢四十を越え、喜之助は初めて人足の仕事をした。

今までは傘張りや本の転写等の内職で細々とやってきたのだが、先月大風邪を患ってしまい、僅かな蓄えは使い果たしてしまった。

そこで口入れ屋に少し実入りの良い仕事を紹介してもらったというわけであったが、若くもない喜之助の体には、この十日間はだいぶ堪えたようであった。

「これじゃあまた病人に戻ったようじゃないか。数日は動けないぞ。うぅ、情けない」

武士として、剣の鍛錬だけは怠ってはいないつもりであったが、これでは基礎体力の低下は認めざるをえない。それに人足として働く己のザマを思い出すと余計に悲しくなる。

喜之助は大小を帯びず、ホッカムリをし、町人に扮して人足の仕事をした。

浪人といえども、さすがに人足などをするのは憚られたからである。

その成果もあってか、現場ではまるっきり町人として扱われてしまったのだが、それはそれで只々動きの悪い中年として周りから散々どやされてしまう結果になった。

「ああ、喉が渇いた」

水を飲もうと瓶に手を伸ばしたが、あいにく空になっている。井戸まで水を汲みに行くのは今の喜之助にとっては現実的ではなかった。

このまま寝てしまおうかと諦めかけたその時、戸を叩く音と「赤井の小父様」と喜之助を呼ぶ声が聞こえた。

天は我を見捨てなかったか、喜之助は大袈裟にではなく心底安堵すると、「お入りなさい」と声の主に答えた。

すると「はい」という声の後に、つつつと控えめに戸が開かれ、十四、五歳になる若い娘が遠慮がちに入ってきた。

「あのう、お加減は如何でしょうか?」

娘は上半身だけ覗き込むように喜之助に傾けると、すぐに喜之助を取り巻いている惨事に気が付き、心配そうな顔をした。

助かった、これでどうにかなりそうだ。喜之助の気が緩む。

「さかえ殿、すまんが井戸から水を一杯汲んできてくれないか。こむら返りがひどくて動けんのだ」

「ああ、はい、分かりました。一杯とは言わず、瓶をいっぱいにして差し上げますよ」

役割を与えられたことで不安が消し飛んだのか、さかえは勢いよく請け負うと、指に木桶をひっかけて井戸の方に向かっていった。

さかえは何回か井戸と喜之助の部屋を往復してくれて、本当に瓶に水をいっぱいにしてくれた。

そして間口に腰を掛けると、転がった茶碗を汲んできた水で軽くすすぎ、てきぱきと水の用意を進める。

これで当分飲むのは困らないが、小便に行くのは誰かに代わってもらうわけには行かんなあと、喜之助は心の中で苦笑いしながら、上体を起こして、さかえが本来の要件を切り出すのを待った。

「こむら返りにはですね、塩水が良いっていうんですよ。汗をかくと体の中からお塩が出てきますでしょう。そのお塩が足りなくなるのが原因なんですって」

そう言いながらさかえは棚から塩の入った壺を取り、一つまみだけ塩を茶碗に入れると、水を注いで箸でかき回した。

「かたじけない。さかえ殿は物知りだなあ」

喜之助は塩水を受け取ると一気に飲み干した。

「まぁ、そんなに喉が乾いてらしたんですか。もう一杯どうぞ」

さかえは自分の行為に効果があったことに喜び、急いでおかわりを作り始めた。

「物知りだなんて、全部お父つぁんからの受け売りですのよ。職業柄お疲れになる方の面倒を見ることが多いので」

「今日はその太吉の要件か」

口入れ屋の太吉は用がある時は大抵こうやって娘のさかえを寄越す。特に割に合わない仕事を紹介した後や、何かうしろめたいことがある時は特にこの手を使う。

確かにいきなりきつねのような太吉の顔を見せつけられるよりは、あどけないさかえの顔を見てから挑むほうが、こちらとしても幾らかは気が楽であった。

「はい、昨日の今日で申し訳ないのですが、今日も頼みたいお仕事があるんですって」

そらきた、喜之助は一瞬得意げになったが、この状態で仕事をすることを考えるとすぐに意気消沈した。

「でもね、お体を使う仕事だっていうから、ダメそうなら遠慮して貰おうって」

年頃のさかえの言葉遣いは、時折子供と娘の間を行き来する。

「なるほど、その様子見を兼ねて来たわけか。どれ、動けるか見てみよう」

喜之助はおかわりの塩水を一気に飲み干すと、全身の筋肉のご機嫌を伺いながら慎重に立ち上がった。

痛い、体中がやはり軋む。その音は実際に骨を伝わって喜之助には聞こえてきた。が、幸いにもこむら返りは起きないようだった。

「あ、お着替えになりますか」

襦袢とふんどしだけの喜之助の下半身が露わになると、さかえはさっと頬を赤らめ外に出ていった。

そのことで喜之助も改めてその気恥ずかしさに気がついたようで「や、すまぬ」と言うと慌てて紬を羽織り、袴を履いた。

いかんなぁ、もう子供じゃないんだ。喜之助はそう思いながら、先ほどの頬を赤らめたさかえの顔を思い出すと、ふとおかしな気分になりそうになった。

いかんいかん、女房も子供もいないということは、こういうところがいかん。

理性では分かっていても、若い娘の変化にどうしてもハッとしてしまう自分が情けない。

喜之助は、その邪念を打ち消すように袴の紐をきゅっと締めると、鬢を手櫛で整え、大小を挿し部屋を出ていった。




口入れ屋の太吉は、店に入ってきた喜之助を見かけるとニッと作り笑顔し、「やや、赤井様。お元気でらっしゃいますな」とおべっかを使った。

その作り笑顔は縁日の狐の面そっくりで、浅薄な邪悪さを醸し出しているのだが、本人は全くそれに気がついていない様子なので、喜之助には却ってそれが愛嬌に感じられた。

「元気なものか。ひどい目にあったぞ」

「いえいえ、赤井様はまだまだご壮健。それに実入りも中々のものでしたでしょう」

「あれだけ動いて日に二朱金一枚か。割に合わんな」

「ご冗談を。普通は三百文が相場のお仕事でございます。どうしても人が足りないということで破格のお給金でしたので特に赤井様に・・・」

「分かった分かった。感謝はしておる」

喜之助が雑に話を遮ると、太吉は疑わしそうに首を傾げた。

「本当に分かって頂けていれば良いのですが。失礼ながらお金にお困りのようでしたので、特に割の良いお仕事を・・・」

「分かっておる。大変助かった。これで人心地はつけるであろう」

喜之助がそう言うと、やっと太吉は安心した様子で、「お仕事の話なのですが」と切り出した。

「赤井様は腕に覚えはございますか」

「腕にというと、剣のことか」

「左様でございます。確か初めてうちにいらした時に、何かしらのご流派の免許を持っていると仰っていらしたような」

「ああ、中西派一刀流の免許を持っている。が、しかし真剣に打ち込んでいたのはもう十数年も前の話だぞ」

「昔取った杵柄というものがございます。いえいえ、何もそんなに危険なお仕事というわけではございません」

嫌な予感がするなと喜之助は思った。正直な話、自分の腕に全く自信がないわけではなかったが、なにぶん体が思うように動かないことに驚愕したばかりであるので、気持ちが重い。

「なに、ご老人の警護をするだけでございます。ご隠居の身ですが、お武家の方でございまして、人品卑しからぬ方をご紹介しなければなりませぬので」

「うちでは人品と言えば赤井の小父様ぐらいしかいらっしゃいませんからね」

店の奥の方からさかえも父を応援してきた。

「体を使う仕事だと聞いたが」

「それでございます。危険はないと思うのですが、このご老人が毎日外を出歩きますので、その間の無聊を慰めると申しますか」

「それでなぜ剣の腕が必要なのかな」

「それが、先方からの注文でございまして、一つ、腕が立つこと、二つ、人品卑しからぬこと、これが条件でございまして」

「最初の注文が腕前のことではないか。本当に危険はないのか」

「はい、特に危険なことはないとのことでした。単に万が一のときのためということで」

その万が一が本当は万が千ぐらいのことではないのか、心当たり無ければ護衛をつけたりしないだろうと喜之助は思ったが、大事なのは給金である。それを聞かねば何も決められたものではない。

「分かった分かった。して、報酬は如何ようなものなのだ」

金の話になるとこれはもう太吉の領分である。太吉は我が意を得たりと得意げに語り始めた。

「これが実にべらぼうなものでして、なんと一日一分金出すとのことです」

これはいよいよ危ないぞと喜之助は警戒した。どこの世界に隠居老人のお供にこのような大金を出す者がいるというのか。これはどうにかすると汚い仕事をさせられるかもしれないと喜之助は鼻白んだ。

先程まで得意げであった太吉は、敏感に喜之助の反応を汲み取ると、さも心外であるかのように息巻いた。

「ご心配になられるのも無理もありませんが、この太吉を見損なってもらっては困ります。これでも人を見る目はございまして、むしろそれだけが商売道具と言っても宜しい。断じて今回の依頼者は素性の怪しいものではございません。とある藩の御家老を勤めていらっしゃった方でございまして、私とも中々長い付き合いでございます」

太吉は大見得を切ったが、きつねが一生懸命虎の威を借りているようで、喜之助は少し意地悪をしてやりたくなった。

「ほう、その一藩の御家老がなぜ町人のそなたと繋がりがあるのだ」

「そこはそれ、魚心あれば水心でございますよ。御家老ともなれば、御家中のみで片付けられる仕事ばかりではございません。そういった仕事をなすのに、我々のような口入れ屋を使う方も多くてございまして」

「やはり表向きには出来ない仕事を引き受けてきたのではないか」

「かの方はその様な方ではございません。今まで一度たりともやましい依頼はございませんでした」

あまりにも太吉がきっぱりと断言するので、喜之助はこの仕事を受けても良いかなと思い始めた。危険かどうかまだ分からないが、少なくともやましい仕事でないのなら気は楽であったし、何より一日一分金という給金は魅力的であった。

「太吉、その言葉信じるぞ。もし何かあったら化けて出てやるからな」

「ようがす。万に一つもそのようなことはないと存じますが、お後の面倒はもちろん承ります」

「安心なすってください。何かありましても私がお世話をしますわ」

太吉の言い様には言いたいこともあったが、さかえにそう重ねられると、気勢は削がれ、喜之助は抵抗せずに仕事の詳細を太吉から聞いた。




喜之助は隠居老人多古甚兵衛と対面している。

甚兵衛は音羽の森の近く、護国寺が佇む江戸の郊外に、洒落た数寄屋造りの居を構えていた。周囲に人家はないが、敷地は角を立てて切りそろえられた高生垣に囲まれており、その奥には黒々と光る立派な瓦屋根が見えている。なるほど金はうなるほどあるようだと、喜之助は喜びよりもむしろ気後れしたような気分で門を叩いた。

家僕と思われる老人に中に通され、真新しい畳の香りに包まれていると、甚兵衛はすぐにやってきた。

甚兵衛はというと白髪の総髪を後ろへ流し、長い眉は目にかかるかというぐらい垂れ、その奥から切れ長の目が鋭い眼光を放っている。齢は六十を越えているだろうが、肌はつやつやと張りがあり、滲み出る生気は隠居の身分を持て余しているのを隠そうともしていない。

甚兵衛はその眉に隠れる細い目で、まるで魚屋が魚の良し悪しを鑑定するかのように遠慮なく喜之助を見渡し、不意に「人品卑しからぬ者と注文したが、はて、それに若くもないな」とつぶやいた。

その不躾さに喜之助は人品卑しいのはどちらの方かと腹が立ったが、確かに護衛と言えば若いものかとも思いだんだん居心地が悪くなってきた。それに格好の方もまずい。一応一張羅の紋付袴でやっては来たが、羽織の袖口はほつれ、袴の膝には継ぎ当てがしてあり、いかにもみすぼらしい浪人そのものの出で立ちであった。

月代だけはちゃんと剃ってきてよかった。久々に髪結いを使ったということだけを頼りに喜之助はどうにか自尊心を保つ。

「して、赤井氏。腕の方は確かかの」

「はい、中西派一刀流の免許を頂いております」

「ほう、それはそれは。失礼だがどちらの道場であるか」

「神田下谷練塀小路の中西忠弥先生の下で学びました」

「なんと、忠弥先生とは面識がある。先生が免許を与えたのなら腕は確かであろう」

甚兵衛はその箔に満足したのか、眼光を幾らか和らげ、「まずくつろげ」と言った。

寄らば大樹の陰である。喜之助は大流派の剣術を学んだことに内心感謝しながら、甚兵衛の言葉を待った。

「なに、難しいことは何もないのじゃ。儂が出歩く時に着いてきてくれれば良い。それで万が一の時は護衛を頼むと、それだけのことじゃ」

そう言うと甚兵衛は雇うにあたっての約束事を並べ立てた。

一つ、毎朝五つにはこちらへ来ること

二つ、基本的には通いで構わないが、泊りがけになることもあること

三つ、万が一斬り合いになった時は、甚兵衛の許可を得てから斬ること

四つ、許可なく酒を飲まないこと


護衛の仕事を始めて五日が経った。

その間、甚兵衛老人は毎日喜之助を従えて出歩き、大きな屋敷を行き来している。

隠居の身分で一体何をそんなに足繁く通う必要があるのかと喜之助は思ったが、この場合雇われの護衛としては詮索しないのが正解であろう。

甚兵衛もあまり話し好きではないと見えて、大抵は黙って歩き自分からは特に何も話さない。

喜之助としては、黙って甚兵衛について歩き、着いた先でお茶を振る舞われて控えの間で甚兵衛の帰り待つという楽な仕事であった。

お陰で人足の筋肉痛も抜け、まるで生まれ変わったかのように力がみなぎってきてはいるが、これが嵐の前の静けさでなければ良いと思うのだった。

今日は朝から小石川の立派な屋敷に来ている。

この屋敷は今回で二回目だな、喜之助はそう思ったが、賢しげにそういうところに気をやるのが良い護衛なのか、それとも何も見聞きせず言われたこと以外やならいのが良いのか、全く判断がつかなかった。

恐らくそれに答えはないのだろうし、どちらが吉と出るかは運次第なのだろうが、それならば喜之助は楽な方を選びたかった。

屋敷には一時(いっとき)程も居たであろうか、奥のほうからざわめきが聞こえ、暫くすると甚兵衛が現れ、一言「帰るぞ」と言った。

首尾は悪かったと見えて、甚兵衛は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

屋敷を出ると今度は外堀沿いを下谷の方に下っていき、昌平橋を渡ってそのまま神田鍛冶町の方へ向かう。

ははぁ、これはまたあの料亭かなと喜之助は当たりをつけたが、果たして甚兵衛が足を止めたのは何度か来ている今川橋跡付近に建つ料亭であった。

この料亭に来るのは四度目、つまりほとんど毎回寄っているわけであるが、町家と町家の間に小さな入り口があるだけで、看板も何も出てないこの店は、一体どのように商売をしているのか見当もつかなかった。

店に入ると甚兵衛は勝手知ったる様子で案内も使わずに奥へ消えてき、決まって半時は時間を使う。

喜之助は一番入り口に近い部屋で待たされるが、大体いつもここで昼餉になる。

「いわゆる一見さんお断りっていうやつかな」喜之助はそう独り言ち、出された料理を一人でつまむ。ほとんどその日暮らしをしてきた喜之助には今まで関わり合いのない世界であった。

焦る必要はない。喜之助としてはゆっくり出された料理をつついていれば良いのであった。

料理はいつもお重の様な塗箱に小鉢が九つ並べられて出てくる。

小鉢には鯵の膾、鰻の蒲焼き、鶏と里芋の煮付けなど様々な料理が色彩良く並べられており、喜之助にとってはこの仕事の一番の楽しみとなっている。

特にここの鰻は絶品で、ふんわりと焼き上げられた身と香ばしいパリパリとした皮の間には濃厚な脂が溜まっており、もう少し米が欲しいなと贅沢な気持ちになるのであった。

小鉢の中身は毎日違うが、鰻だけは名物と見えて毎回必ず入っていた。

たまに食う浅草のうな重とはものが違うな、少ないから美味く感じるのかしらん。いやいや、でもこの鰻を一度は丼いっぱいに食べてみたいものだ。

そんなことを考えていると「出るぞ」という甚兵衛の声が聞こえてきて、喜之助は慌てて部屋を出た。

ここを出た後は今のところ毎回行くところが違う。今日はどこへ行くのだろうか。

店を出ると、甚兵衛は埋め立てられた神田堀の方へあるき始めた。

神田堀跡へはほんの十間程、そこへ着くと甚兵衛は神田掘埋立地沿いの道へと曲がり、小伝馬町の方へと進路を取る。

するとどこからか子供の叫び声が聞こえ始めた。

最初は何を言っているのか聞き取れなかったが、向かう方向に声の発生源はあると見え、声は次第にはっきりしてきた。

「やい、このでくのぼう。おいら達の遊び場を返しやがれ」

「うるせえガキだ。バラして大川に流しちまうぞ」

「上等でえ。こちとら何も悪いことはしてねえんだ。やってみやがれ、二度とお天道様の下で歩けなくなるぜこの薄ら頭」

埋立地が木材の集積地になっているのだが、声の主は木材の裏に隠れて姿は見えない。

それにしても恐ろしくこまっしゃくれた子供である。

「やい、本当にやる気か。やめろ、おい。痛い」

しかし次第に事態は切迫して来ている様子で、喜之助は堪らずそちらの方へ向かおうとした。

「よせ、捨て置け」

それを見てすかさず甚兵衛は喜之助を制す。

「しかし、尋常な様子ではありません。聞き捨てには出来ませんよ」

喜之助は甚兵衛に構わず木材の裏へ足を進めた。

命を狙われているわからない老人より、今悲鳴を上げている子供のほうが大事である。

「おい」という甚兵衛はもう一度喜之助に声をかけたが、喜之助はそのまま奥へと入っていた。

すると男が子供を足蹴にしているところであった。

「止めよ。何をしている」

喜之助は割って入り、無理やり二人を引き剥がした。

「やい、このうすらとんかち。おいらはここを明け渡さないぞ」

子供はというと、喜之助の助けなど要らないという勢いでまだ悪態をついている。年の頃は十に至っているであろうか。

「旦那、どこのどなたかは知りませんが。深入りすると怪我をしますぜ」

男は少し距離を取り、不気味な笑いをたたえながら喜之助に凄んでみせた。

男は緋色の派手な紬を着た町人風で、如何にもヤクザ者ですと言わんばかりに着崩した襟からは入れ墨が見えている。

「如何な理由があろうとも子供にこの様な乱暴を働いて良いものか。止めねば痛い目にあうのはそちらの方だぞ」

喜之助がそう返すと、男は皮肉な笑みを浮かべながらこちらへ歩みを進め、少し屈んだ姿勢から顔をぐいっと上げて前に出し、喜兵衛の眼前にまで近づけ睨みつけてきた。

「旦那あ、俺は警告はしましたぜ。恨みっこなしでお願いしますわあ」

そう言うと男はくるっと身を翻し、喜兵衛に背を向け立ち去るような様子を見せた。

が、その瞬間、懐に挿した九寸五分を抜き、振り返りざまに喜兵衛に斬りつける。

相手に抜く動作を見せない不意の一撃である。相当慣れていると見え、恐らく男にとってはそれが必殺の一撃であったのだろう。

「あっ、小父さん」

横たわる子供にはその白刃のきらめきが見え、とっさに叫ぶ。

しかし喜之助は特に慌てた様子もなく、緩慢な動作で左足を後ろに引いて半身になると、少しだけ上体を後ろに倒し、男の必殺の一撃は虚しく空を斬った。

対象物を失った男は姿勢を崩し、右腕から中空に飛び込むような姿勢になる。

その腕を喜之助は無造作に掴みねじ上げると、男は苦痛に顔を歪め九寸五分を落とした。

「このまま奉行所に送り届けてやろうか」

「へっ、その世話にはなりませんぜ」

男はそう言うと左手を懐へ突っ込み、今度は匕首を抜いて喜之助に突きつけてきた。

さすがにそれは予想外であったのか、喜之助は男の手を離し飛び退くと、男も後退し神田堀跡の溝の方へ下がる。

「へへっ、備えあれば憂いなしってね。侍だけが二本差しとは限らねえ」

そして男はそのまま溝へ飛び降り走り去ってしまった。

喜之助は子供の方へ向かうと「大丈夫か」と声をかけた。

子供はというと、先程の出来事に声も出なくなったようで、小さい声で「小父さん強いんだね」とつぶやいた。

子供は痣だらけになっていたが、幸い骨などは折れておらず、大事はないようであった。

「あいつ、おいら達の遊び場を奪うんだ。突然ここから出て行けって、それで」

「分かった。偉いな、しかし相手を選ばんと怪我をするぞ」

喜之助が子供を介抱していると甚兵衛が通りから入ってきて「勝手なことをしてくれる」と言った。

「しかし見捨てては置けぬでしょう」

喜之助は抵抗したが、甚兵衛はまるでゴミを見るかのような冷たい視線で子供を見るのでゾッとした。

「へっ、どこのご大人だが知らねえが、あんた相当な唐変木だね」

子供はその視線に再び闘志を掻き立てられたのか、気炎を発した。

「なんだと小僧」

悪態に甚兵衛は怒った様子だったが、子供は構わずに続ける。

「さっきのヤクザもんは権左っていうんだ。この辺じゃあ知らないもんがいねえならずもんさあ。あいつがここからおいら達を追い出したのはあんたを見張るためなんだぜ」

「何、どういうことだ」

子供に詳しく話を聞くと、ここは子供達の遊び場だったらしいが、一ヶ月程前に権左とその仲間がやってきて彼らを追い出し、日中はずっとここに屯していたらしい。

彼らには権左達が何をしているのか最初は分からなかったが、場所を取り返すために観察を続けていると、どうやら特定の人物の動きを見張っているようだった。

それが甚兵衛なのだと言う。

「確かか小僧」

甚兵衛は真剣になった。

「へっ、見損なうねえ。神田掘箪笥職人の安次の息子、一太さまといえばこの辺じゃあ知らねえもんはいねえ。そのうち江戸一の箪笥職人になるもんだあ、覚えておけ」

一太はそう啖呵を切ったが、「この辺じゃあ」の部分が権左と被ってしまったのを喜之助はおかしく思った。

「あいつら、いつも同じ人を見張ってつけるもんだから、顔を覚えちまった。あんただよ」

「なるほど、つけられているとは感じていたが、これではっきりした」

喜之助もここで漸く得心がいった。何故甚兵衛が高い金を払って護衛を頼んだのか、やはり心当たりがあったのだ。これは果たしておいしい仕事であるか分からなくなってきたぞ、喜之助は気が重くなった。




一太によれば、権左はヤクザな博打打ちで、賭場の用心棒のようなこともやっているらしい。

なんと一太は賭場の場所まで把握していて、そこには浪人や御家人らしい者も出入りしているということだった。

とかく大人は人目は気にしても子供の目は気にしないものだが、真に世の中を見ているのは子供の方なのかも知れない。

そこまでの情報を引き出すと、甚兵衛は作戦を立てると言いその場を立ち去ろうとした。

喜之助は慌てて引き止め、治療費も必要であろうし、一太に小遣いをやってはどうかと提案した。

これには甚兵衛も一太も渋ったが、情報料だという建前を喜之助が絞り出すと、甚兵衛は渋々一朱金を三枚取り出し、一太も渋々それを受け取った。

「こんな大金、ちゃんにどう説明したらいいかわかんねえや」

一太は心底困った様子であったが、喜之助が近くの店から筆を借りて懐紙に一筆書いてやると、一太は納得したようでうちに帰っていった。

さて、甚兵衛の言う作戦であるが、それは今川橋跡の料亭とは違う大川沿いの料亭で行われている。

そして、今度は喜之助も奥に通された。

甚兵衛と奥の間に上がると、そこには喜之助と同じ歳ぐらいの身なりの立派な武士が待っていた。

武士は甚兵衛を上座に譲ると、自分は甚兵衛の左斜前の次座に座り、喜之助を下座に座らせ、自分は田中一之進であると名乗ると、すぐに甚兵衛と喜之助から事情を聞き始めた。

せっかちな人だなと喜之助は思ったが、その分余計なことも喋らず淡々と話は進む。

「なるほど、ではその権左とやらは、横川殿一派の手の者と考えて良いですかな」

「恐らくそうであろう」

喜之助には何のことか分からなったが、二人の会話は進んでいく。

「尽きるところ、頼母様を襲った刺客、これを抑えればなんとかなるのではないでしょうか」

「そうであろうな、頼母様は刺客の顔を覚えてらっしゃるはずだ」

全く知らぬ人名が飛び交う。

「ではこちらから動きますか。その権左とやらを追えば横川殿にたどり着けるやも知れません」

「儂もそれしかないと思う。横川の手の者を一人一人辿っていく他あるまい」

「でしょうな。されば、この御仁にも事情を話さねばなりませんな」

そう言うと、一之進と甚兵衛は同時に喜之助に顔を向けた。

「や、や、どういうことでございましょう」

喜之助は戸惑ったかが、甚兵衛は構わず話を続けた。

「お主は兄弟はおるか」

「いえ、おりませぬが」

「これは兄弟の話なのだ。兄弟というものは、とかく天然自然に育てば仲睦まじく育つものだ」

「はあ、そういうものでしょうな」

「だが、良からぬ作為が働くと不倶戴天の敵にもなりうる」

一之進と違い、甚兵衛は老人らしく回りくどい言い方をするなと喜之助は思った。

「世の中では兄ではなく弟が家を継ぐことがある。わかるかな」

「漢の恵帝の様な具合でございましょうか」

「よく知っておるな。我が君もかの恵帝のように兄想いの方じゃ」

甚兵衛の話を要約すると、こうである。

甚兵衛や一之進の君主である壱岐守には頼母という庶兄がいる。

壱岐守と頼母は幼い頃から仲の良い兄弟であったが、嫡子の壱岐守が先君の跡を継いだ頃から不和になった。それというのも頼母に壱岐守の悪評を流している者がいるからだった。

それが横川主計という者で、江戸在府の家老であったが、この横川は先君が政治に興味がないことを利用して在府の政治を壟断し、私服を肥やしているという噂があった。

しかし壱岐守が跡を継ぐと、藩政を自分で見る意向を示したため、横川は悪事が露呈するのを恐れ、頼母を担ぎ上げ壱岐守を藩主の座から追い落とそうしているというのだ。

「最初は頼母様も横川の奸計なんぞに耳を傾けはせなんだ。しかし頼母様が刺客に襲われてから事情が変わっての」

頼母が刺客に襲われたのは、寝所でのことであった。ある夜、寝ている頼母の枕元に刺客が音も立てずに立った。頼母は愛妾と同衾していたが、妾が目を覚まし刺客に気がついたのは幸か不幸か偶然のことであった。

妾はすぐに叫び声を上げ、主人を守るために起き上がり刺客に掴みかかった。その事態に頼母もすぐに目を覚ましたが、無惨にも頼母の眼前で冷たい刃が妾を貫いた。

妾は鈍い音を立てて崩れ落ちたが、最期の力を振り絞り刺客の頭巾を剥ぎ取っており、その露わになった刺客の顔を頼母は、見た。

頼母は枕元の刀を引き寄せ立膝をつき、迎撃の構えをとる、やがて周りから人が駆けつける音も聞こえ、刺客は寝所から逃げ出した。

その顔は頼母が今まで見たことのないものであったが、藩邸の中の一室のことである。すぐに捕まるかと思いきや、刺客は雲のように消えてしまった。その手際の良さから、物盗りや外部の者の犯行とは思えず、頼母は内部の差し金であると確信した。

「それ以来じゃ。頼母様は壱岐守様を目の敵のようにし、大っぴらに派閥を作り、今は藩を二分する騒動になっておるのじゃ」

幸い壱岐守はこれが奸計であることに気がついている。そしてこれに対処するべく、隠居した家老の甚兵衛を呼び寄せ、両派閥の暴発を防ぐために要人を訪問させなだめつつ、事の真相を密かに探らせている。

「なにぶん家中の者も誰が横川と繋がっているのか分からぬ。そこで娘婿の一之進と図って事態の解決の糸口を探しているのだ」

「恐れながら、横川殿は頼母様の信頼を得て、いずれ壱岐守様を亡き者にする機会を伺っているのでしょう。ご君主一族の内々の儀などに賊を招き入れられては対処ができませぬ」

「頼母様もご自身の支持者を増やしておるから、これで壱岐守様の後釜に座る算段を整えるつもりなのであろう」

そこまで聞いて喜之助は途方に暮れた。

うまい話などというものではない、この仕事は藩を巻き込んだ大騒動であったのだ。

恨むぞ太吉、喜之助は心中で悪態をついたが、ここまで聞いてしまった以上は、知らぬ存ぜぬで押し通せるわけもなかった。

義を見てせざるは勇無きなり、それで金も出るなら儲けもの。

とにかく喜之助は自分にそう言い聞かせ、自身を納得させようとするのであった。




護衛の任務は張り込みと尾行に変わった。

喜之助は一太から教わった権左が出入りしているという賭場を数件回って、彼が出てくるのを待っていた。

権左が今回の件に関わっているとすれば、それなりに金回りは良くなっているはずであり、そうなれば賭場にも頻繁に出入りするはずである。それに権左は喜之助に顔を見られたことで役割が変わったとみえて、あれ以来甚兵衛の周囲には姿を現さなくなっている。きっと無聊をかこっているに違いない。

三日後、果たして賭場から出る権左を見つけることができ、喜之助は密かに後をつけた。

賭場は向島の農家にあったが、権左は寺島の渡しから浅草の方に渡るようであった。

しまった、博打に勝って吉原にでも行くのか。

喜之助は焦った。権左には顔を知られている。

幸い先日は権左は一太と揉めていたため、喜之助が甚兵衛の護衛をしているところまでは見られていはないだろうが、顔を知られている以上は同じ船に乗り合わせれば何が起きるかわからない。

二人は渡しに向かう一本道を五間ほどの距離を開けて歩いている。幸い黄昏時なので今のところはバレてはいないが、このままでは渡しで顔を合わせてしまいかねない。

他の渡しを使って対岸に行き改めて権左を探すか、そう喜之助が考えていた時であった。

喜之助の視界の端にきらめく何かが動いた。

と、喜之助自身は認識したであろうか、ほとんど無意識に喜之助は飛び退き、その右手には既に抜かれた大刀が握られている。

それから一間程の距離をあけて、前方にも白刃を握る男が音も立てずにゆらりと立っていた。一本道は田畑の中のあぜ道である。男はその脇の斜面にでも隠れていたのであろうか、それはあまりにも突然に現れた。

どこか斬られたか。喜之助は心配になったが、確かめる余裕もない。

男の後方に目をやると、権左はこちらに気が付かないのかどんどん遠ざかっていった。

「奴をつけても無駄だ。それに貴様はここで死ぬ」

革袋をこすり合わせたようなしわがれた声であった。

男の構えに一切の隙きはない。正眼の切っ先には、男の殺意と自信が乗り移ったかのようにずっしりと喜之助の眉間を捉えていた。

喜之助は頭の先から足の裏まで、一気に汗が吹き出すのを感じた。

こやつ、できる。

「奴はしくじったがな。それを餌にして泳がせておけば大魚が釣れると思っていたぞ」

まんまとハメられた、喜之助は動揺した。

「お前たちをつけているのは私だけではないぞ」

「強がりを言うな。しばらく貴様をつけていたが、少なくともこの場には貴様の他はいない」

そう言うと男はヌッと刀を突き出してきた。

凄まじく鋭い突きだ。その鋒は迷うことなく最短で迫ってくる。喜之助は鎬でそれを払うが、間髪を入れず再び突きが来る。刀は間に合わない、体勢を左に崩しなんとか躱すが、男の握る大刀の柄頭は既に丹田の位置に戻っており、「三発目が来る」そう感じた喜之助は大刀を握った右手を前に突き出し、崩れた体勢のまま前方に飛び込み、前回り受け身で難を逃れた。

二人の影が交差し、前後の位置が入れ替わる。

「ほう、俺の三段突きを避けるか」

喜之助は言葉を発せない。

全身が軋み、呼吸は乱れ、後頭部に重い痛みが走った。

そう、呼吸だ。呼吸を整えなければ。喜之助は長めの間合いを取り、後退りしながら己の体が本来の力を取り戻すのを待った。

「貴様ただの素浪人ではあるまい。名のある者であろう。でなければ俺の三段突きを躱せるわけがない」

お前こそ誰だと思う余裕がまだ喜之助にはあったが、せっかく戻ってきた呼吸を乱したくはなかったのでおし黙った。

男は縦に長細い顔をしていて、顔全体が上に引っ張られているかのように目も眉も吊り上がり、悪鬼のような顔をしている。着流しから見え隠れする細身の体には、ゴツゴツとした筋肉が張りつていいて、まるで人を殺すのに不要なものは全て削ぎ落としたかのような体をしていた。

幸い男はそれ以上仕掛けては来ず、喜之助は呼吸を整える猶予を得た。呼吸が戻るとともに後頭部の痛みは引いていき、視界もはっきりしてきたようであった。

あれ程に鋭い突きをもらったのは何年ぶりか。どこの流派の技であったか、見覚えはあるが思い出せない。ええい、耄碌したかと喜之助は己を罵ったが、出てこないものは出てこない。

「おい、名を名乗れ、構えからして一刀流であろう」

男は何故か喜之助の名にこだわった。

「人に名を尋ねるのであれば己から名乗るのが礼儀であろう」

喜之助がなんとかそれだけ返すと、意外にも男は素直に名乗り始めた。

「作州浪人、直心影流坂田内膳という。覚えてもらおう」

「奥州浪人、一刀流赤井喜之助だ」

はて、坂田内膳。不思議とどこかで聞いたことのある名前のような気がしたが、内膳の方は「赤井喜之助だと。聞いたことがないな。どこの道場だ」と喜之助のことは知らない様子であった。

「練塀小路さ」

「中西派か。ただの免許持ちではないな」

ずいぶんと高く値踏みされたものだと喜之助は内心迷惑だったが、お陰で呼吸は整った。

剣術において、およそ重要なのは呼吸である。

どんな優れた技も、一呼吸のうちにしか繋げることが出来ない。

そして、守るのは攻めるより難しい、ここは攻めるべきだと喜之助は思った。

喜之助は正眼の構えを斜め右下に流すと、大きく息を吸い、一気に距離を詰め内膳の胴に向けて斬り込んだ、内膳はふわりと飛び退き間合いを取る。それに構わず喜之助は更に踏み込み、右から左に流れた大刀を折り返すと逆胴に繋げた。舞の様な美しく素早い連撃であったが、それも内膳はふわりと飛び退いて躱す。

誘いに乗ってこない。喜之助は内心ドキリとした。実は一連の動きは、内膳の反撃を誘ったものであった。もちろん凡庸な使い手であれば避けられない鋭さではあったが、先程のような激烈な突きを入れてくるような者であれば躱されるのは計算の内であった。静に動を当てるのは難しいが、こちらが意図的に誘った動作に技を当てるのは容易である。所謂「後の先」というものであるが、一呼吸が終わらぬ内に相手の動作を誘えれば、必殺の間合いで一撃を打つことができるはずであった。

逆胴流れからの斬り上げ篭手、唐竹割りからの突き上げ、喜之助は誘いの大刀を打ち続ける。

ふーっ。

しかし、やがて喜之助の呼吸は尽き、動きは止まる。

それを待っていたかのように内膳の反撃が始まった。

息もつかせず急所への突きや細かい斬撃が続き、それはどれも一撃必殺の鋭さをはらんでいた。

紙一重で躱しているせいか、その幾つかは喜之助の皮膚を裂いた。

汗だか血だか分からないが、喜之助は全身ドロドロになり、かろうじて攻撃を避けている。

「はっ、誘いの手になど乗らんよ。一刀流のやり口はよく分かっている」

その一合が終わり、再び距離を取った時に内膳は言った。

大層場慣れしていやがる。一刀流の剣士とも何度か斬り合っているのだろう。

余裕を見せる相手とは逆に、喜之助は息苦しさに目が飛び出しそうになり、視界がチカチカし始めた。

まずい、あと二合とはもちそうにない。喜之助は焦った。このままでは追い詰められてしまうのは自明の理であった。

こうなれば、まだ余力があるうちに賭けに出るしかない。

「酷い呼吸ではないか。稽古を怠っているな」

内膳は何故か怒ったように吐き捨てたが、喜之助には心外だった。決して日頃の鍛錬を怠っているわけではない。この場合は只々己の老いが憎かった。

「お前さんも年を取ればわかるさ」

そう言うと喜之助は最後の呼吸を整え、打って出た。

それは正しく神速のひと大刀であった。正眼から振り上げた刀は体ごとぶつかるような勢いで内膳の脳天へと殺到する。喜之助はこの一撃にすべてを賭けたが、思いの外体は動き、まるで往年の自分が帰ってきたかのような充実感があった。

その勢いに内膳はさっと顔色を変えたが、ほとんど逡巡することもなく喜之助に合わせ、己も喜之助の脳天へと斬り込んできた。

ギンっと甲高い金属音が響き、影が交差する。

そして二人の動きは止まり、一瞬の沈黙の後、喜之助は「うぅ」とうめき声をあげ地に伏した。

内膳は息を切らしながらその場に立ちすくんでいたが、やがてよろよろと喜之助に近寄ってきた。

しかし、様子が辺である。

その左手に持った太刀は半ばから折れ、なんと右手は肘の下から失われていた。

「なんということだ。赤井喜之助だと。聞いたこともない。こんなやつが、無名のまま世に埋もれていたというのか。俺はとんだ自惚れ屋だったのではないか」

内膳は呆然と喜之助を見下ろし、ブツブツ二三つぶやくと、下げ緒をほどき右手の止血をし、苦痛に顔を歪めながらその場を立ち去っていった。

喜之助はというと、精根を尽き果たしほとんど気を失いかけている。

しかし打ち合ったその時、自分の大刀が内膳の振り上げられた大刀を折り、そのまま右手を切断するのを見た。

切り落とし。

防御をかえりみない中西派一刀流の奥義である。

最後の最後で内膳は体をひねったので、頭部への斬撃は躱されたが、右腕は存分に切り離した。相手の刀は折れたので自分は致命傷を負っていないはずだ。全身から力が抜けてしまってはいるが、内膳は先程立ち去ったので、これでなんとか死の危機は逃れ得たと言える。

とりあえず重畳、まんまと敵を取り逃がしたとも言えるが、命あっての物種である。

実に数年ぶりの真剣勝負。俺はまだやれる。満足そうに道に臥しながら、とにかく喜之助は体が動くようになるのを待った。



「腕一本だけではな、証拠にはならんかな」

甚兵衛は渋い顔をして臥している喜之助を睨みつけている。

「冗談ではないですよ。赤井様の怪我を御覧なさい。この様な危険な目に遭わせるのでしたら今回のお仕事はお受けしませんでした」

太吉はピシャリと言ったが、甚兵衛はさも心外だと言うように首を振る。

「一日二朱だぞ。それに戦うべき時に戦わないのであればそれは士道不覚悟というべきものじゃ」

「その通りです」

喜之助は起き上がって口を挟さもうとしたが、「小父様は寝ていてください」と、さかえに叱責され亀のように首を引っ込めた。

喜之助はあの晩、ほうほうの体で自宅まで戻ると、間口に倒れ込んでしまった。

最後の力を振り絞ってなんとか隣人に太吉への言付けを頼むと、ことの重大さに気がついたのかすぐにすっ飛んでいき、四半刻も経たずに太吉とさかえを連れて帰ってきた。

その後医者を呼び治療をしたが、全身縫い傷だらけで、まるで継ぎ接ぎの人間が出来上がったようであった。治療が終わり、どうやら命に別条はないと分かったが、傷のせいか熱が出てしまい、太吉は店のことがあり一度帰ったが、さかえは一晩中喜之助の看病をしてくれた。

そして明くる今日、太吉は甚兵衛を伴って再び喜之助の長屋にやってきたのだった。

「この刺客の腕はどうする。とりあえず塩漬けにしておくか。後で付き合わせることもあるかもしれんの」

貝合せではあるまいにと喜之助はおかしくなったが、「そのようなことを気にしている場合ですか」と太吉は息巻いた。

「このお仕事からは私たちは手を引かせて頂きます。何が単なる警護ですか、巨大な政争の片棒を掴まされているではないですか。これでは筋が通りません」

「小父様、お古の浴衣みいたにボロボロになってしまって、お可哀想ですわ」

親子の責めにさすがの甚兵衛も閉口したのか、「すまぬ、謀るつもりはなかったのじゃ」と詫びを言ったが、「しかし、ここで降りてもらっては困るぞ」と断言した。

「私もここで降りるつもりはありません」

それに喜之助も同調したので、親子の勢いはだいぶ削がれた。

「それで、坂田内膳というのは調べがついたのか」

「昨日の今日でございます、そんなしっかりとしたことは分かりはしません。ただ情報屋によりますと、どうやら坂田内膳というのは以前牛込にあった直心影流の道場主の名前であるようですな」

「聞いたことがないな」

甚兵衛はそう言ったが、喜之助はああそうかと思い出した。坂田内膳とは一時期江戸界隈を賑わした剣客の名前だ。確かいつぞやの御前試合で勝ち上がり名を上げ、牛込に道場を開いたのではなかったか。一時はかなり流行っていたと見え、近所の長屋の者も数人通っていたということを思い出した。

「道場はそれなりに流行ってはいたようですが、ある時細君と弟子が金を持って駆け落ちしてしまったようで、それで経営が傾き、道場を畳んだ後は行方知れずということでしたな」

「ふん、それで今では悪の手先か」

名を上げた者でも一歩踏み違えばそんなものか。喜之助は己の境遇と照らし合わせて内膳に同情した。

赤井家は喜之助の親の代で浪人し、江戸に流れてきた。喜之助が物心ついた頃には既に母は亡く、父は男手一つで喜之助を育ててくれた。しかしそこは下町の長屋であるから、周りの世話焼き達が足りない所は面倒を見てくれたが、父はあくまで武士として喜之助を厳しく教育した。

十二の歳になった時、父はどういうツテを使ったものか、喜之助は中西派一刀流の道場に通えるようになり、道場の小者として雑用をこなしながら稽古をつけてもらえるようになった。喜之助には天稟はあったようで、めきめきと腕を上げたが、大流派である中西派一刀流は、既に上流武士の社交場としての意味合いも強くなってきており、表舞台に立てるのは大身の旗本の師弟や既に剣名高い剣客の師弟ばかりであった。

既に半ば実力社会ではなくなっている剣の道に喜之助は失望したが、剣術自体は好きであったので、一心不乱に打ち込んだ。二十二の時に免許を貰い、その後しばらくは出稽古などにも呼ばれ、実力は赤井が一番などと言われたこともあったが、上流社会は素浪人など相手にせず、終ぞ大きな試合などには出ることはなく歳月だけが流れ、そのうち喜之助は剣士として完全に世に埋もれてしまった。今では喜之助の名を知る者などいないのではないか。

下層の同輩の中でも、金やツテのあるものは己の道場を開き中西道場を去っていた。そしてある者は成功し、またある者は失敗し、それももう今は昔の出来事である。

そして何も持たざる者は喜之助と同じように自然と道場から離れていった。

父には失望させてしまったかもしれない。それだけが心残りであったが、父は最期まで恨み言は言わなかった。やがて父も亡くなり、それから先は生活をすること自体が日々の課題になった。鍛錬こそ怠ってはなかったが、喜之助は志を完全に失っており、特に目的もなく無為に世を過ごしていた。

何の後ろ盾もなく名を上げるとは偉いものだ。

そんな日々の中で坂田内膳の活躍を聞いた時、その様な感想を持ったものだ。

「蛇の道は蛇といいます。本当に赤井様は坂田内膳の名前に聞き覚えはないのですか」

「いや、いや、牛込の道場で今しがた思い出したところだ。十年程前であろうか、直心影流で名を成した御仁だ」

「御仁か。赤井氏、お主敵に情でも移ったか」

喜之助はその通りだと言いたかったが、死力を尽くして戦った剣士同士の気持ちなど甚兵衛には説明しても分からぬだろうなと諦めた。

「失礼。坂田は剣士としてはまず数十年に一度と言えるような逸材ですな。刺客とすればこれほどの適材はいないでしょう」

「横川はそやつを使い、いずれ頼母様の手引で壱岐守様を亡き者にしようと目論んでいるのじゃろうて」

「秘密を知る人間はそう多くはできないものです。おおかた頼母様を襲う芝居をしたのもその坂田内膳ではないでしょうか」

太吉は訳知り顔で言った。

「ふん、妾まで殺して迫真の演技であったな」

甚兵衛はあげつらうように言ったが、喜之助には内膳の気持ちが痛いほど分かった。内膳は落ちぶれても剣士としての自尊心は捨てていない様子であった。それが丸腰の女を斬ることになったとは、大変な後悔であったのではないだろうか。もちろん哀れなのは健気にも立ち向かった女の方であるが。

「いずれにしても、多古様をつけていた権左を調べたら坂田が出てきた、ということは事実でございます」

太吉が話をまとめる。

「この坂田の行方を追うのが先決かと存じます。なに、片腕を失った者の治療など滅多にあることではございません。その筋を当たればすぐに情報は出てくると存じます」

普段の太吉は、一度紹介した仕事にこの様に肩入れしてくることはない。恐らく喜之助を大怪我させてしまった後ろめたさから一生懸命になっているのであろう。案外責任感の強い男だなと喜之助は感心した。

「左様、まずはその坂田なる曲者を捕らえるのじゃ」

甚兵衛は年甲斐もなく顔を上気させている。

「あの腕も案外使い所があるやもしれん。儂は儂で一つ横川に揺さぶりをかけてみよう」

確かに自体は進展しているようであったが、喜之助にとってはまず体を治さねば話にならなかった。



「そのようなむさ苦しいところでは傷が化膿しかねない」

甚兵衛がそう主張し、喜之助の身柄は音羽にある甚兵衛の隠居所に移された。

傷が開くといけないということで、駕籠ではなく担架で運ばれたため、道中では死体でも上がったのかと好奇の目に晒され閉口したが、傷口自体は斬れ味があまりにも良かったことが却って幸いしたのか、案外すぐに塞がった。十日も経たずして喜之助は日常生活を送るのに困らなくなったが、帰宅しては不便だということで、そのまま住込みをすることになった。

先の戦いで使い物にならないほど破損してしまった大刀と、ボロボロになった紬の替えは太吉が用意してくれた。今まで太吉のことをケチで金にがめつい男だと決めつけていた喜之助は大いに反省し、神妙に礼を言った。

「いえいえ、今回のことで違約金と申しますか、多古様には色を付けてもらいましたからな」

太吉はそう答えると邪悪に笑ってみせた。

やはり抜け目のない男である。

政争の方はと言えば、甚兵衛が壱岐守派として動いているということは既に横川主計には知られていることがわかったので、甚兵衛の活動はどんどん大っぴらになっていった。

今では田中一之進を始め、頻繁に一味の者が甚兵衛の隠居所を出入りし、横川一派との戦いは佳境に入ってきている。今日も一之進が朝早くから訪れ、進捗を報告していた。

「それで、横川の件はどうなったのじゃ」

「はい、かねてより壱岐守が調査を進めておりました収賄の件で詮議が行われたのですが、やはり頼母様が横槍を入れまして、中々話が進みません」

「そうであろうな」

「はい、他にも頼母様を慕う者、横川殿と利権を同じくする者も詮議に異を唱えまして、このままでは沙汰止みになりかねません」

「そこであれを使ったのか」

「はい、調査を邪魔する刺客が放たれたという証拠に、あの腕を出しました」

「手柄であったな、赤井氏」

「はぁ」

本来なら褒められて悪い気はしないはずであるが、剣士の腕がこのようなことに使われていることに対する反感の方が喜之助には強く感じられた。

「しかしこれでは決定的な証拠にはならんかな」

「そうでしょう。横川殿も自作自演だと喚いておりました」

「ふふふ、人は己を通してしか他人を推し量れぬものよの」

甚兵衛は横川が頼母に刺客を放って自作自演で信頼を得たことを揶揄しているのだろう。甚兵衛と一之進の言動は次第に熱を帯びてきたが、喜之助は却って気持ちが冷めてくるようであった。話は喜之助の関わることができない場所で進んでいる、ではその疎外感がこの気持の原因であろうか。

いや違うな。喜之助はそう思った。

自分が蚊帳の外になって気分が悪いのではない。もっと根本的な、本質的な何かが彼らとは相容れない気がしていた。

「しかし横川一派が動揺したのは事実です。彼らは我々がどこまで証拠を掴んでいるのか分かっておりませんからな」

「焦って尻尾を出すのを待つというわけじゃな」

はっはっはと甚兵衛は陽気に笑ったが、冗談じゃないぞと喜之助は思った。

「その、尻尾を出すというのは、多古様や田中様を亡き者にしようと強硬手段に出るということではないのですか」

その喜之助の一言に、甚兵衛と一之進は沈黙した。

分かっている、そのために喜之助の身柄をここへ移したのであろう。抜け目のない老人である。

「敵の襲撃はいずれあるものとして、坂田の行方は分かったのでしょうか」

「口入れ屋も見栄を切った割には口ほどにもないの。治療したという医師は見つかったようだが、その後の足取りはとんと掴めぬようじゃ」

医師が見つかったのなら太吉は役目を果たしたではないか。喜之助は段々腹が立ってきた。

「横川の息の掛かった場所には見張りを置いているのではないのですか」

「当然置いておるが、隻腕の武士が出入りしているのを見た者はおらぬ」

一之進は忌々しげに首を振りながら言う。

内膳は横川の下には帰っていないのか。詮議で出された証拠の腕を見た横川の反応を見れば関わりがあることはまず間違いはないと思われたが、敵は余程慎重なのかもしれない。

横川の詮議はあと五日で終わるということである。

襲撃があるならそれまでにあるだろうということになり、その日から一之進の家士が数名甚兵衛の隠居所に詰めるようになった。


それから三日目の夜である。

いつものように一之進が会合を行うために甚兵衛の隠居所に来ており、一同は夕餉を取り小休止していた。

喜之助は庭で木刀を振り、体の具合を確かめている。

月は満月であり、上気した喜之助の体を照らしているが、その青白さが文字通り夜中の一軒家である隠居所の静けさを余計に際立たせているようであった。

喜之助は木刀を振り続ける。傷口は完全に塞がっており、いつもの鍛錬を行っても痛みはない。むしろすこぶる体調は良いようだった。

これなら存分に働けるだろう。夜風が気持ち良い、このまま汗を乾かすか。そう喜之助が思った時、しんとした静寂の中に違和感を覚えた。

何か来る、喜之助が感じた時、バリバリという大きな音が辺りに鳴り響いた。

即座に音の方向を見ると、隠居所の木戸が破られ、丸太が顔を覗かせていいた。

「来るぞ、賊だ」

喜之助がそう叫ぶと、縁側に腰掛けていた一之進の家士は一斉に抜刀し、二人が庭に、残りの一人は甚兵衛と一之進を守るために屋内に入っていった。

良く訓練されているな。その動きの機敏さを喜之助は頼もしく思った。

やがて、じり、じり、という地面を摺る音と共に賊が姿を現す。

夜陰に塗れるためと、同士討ちを避けるためだろう、賊はみな黒装束であった。

しかしこの満月では夜陰に塗れることは叶わないのではないか。一人一人の顔がはっきりと見えた。

十人はいるだろうか。数が多い。喜之助は不安になったが、やってみる他あるまい。もたげた疑念を無理やり腹にねじ込み、喜之助は木刀を投げ捨て抜刀する。

賊の頭目だろうか、一人の賊が片手を挙げると、賊は一斉に斬りかかってきた。

乱戦である。こうなっては忙しくて動きに思考を挟む猶予はない。喜之助はとにかくせわしなく前後左右に動き回り、上手く間合いを取りながら視界に入るものを断ち切った。幸い件の内膳のような腕のものは居ないと見え、二人三人と斬る内に賊は喜之助を遠巻きにするようになった。

一之進の家士も無事に斬り結んでいるとみえ、やあっ、とうと背後に声が聞こえる。

これはどうにか切り抜けられそうかと思った時であった。再びバリバリという音が鳴り響く。

しまった、裏木戸を破られたかと喜之助はとっさに音の方向を振り向くが、その隙きを賊が見逃すわけはなく、一斉に斬りかかってきた。

賊は元々二手に分かれていたのだ。最初に囮が正面から斬り込み喜之助たちを引き付け、分断した後に本命が裏から甚兵衛達を襲う算段であろう。

喜之助は焦ったが、四人の敵に囲まれ動けない。賊の攻撃は容赦なく続く。右から来る雑な突きを躱し、左の賊に踏み込み脳天を割る、その動きの終端を狙って先程の頭目らしき男が斬り込んできた。堪らず喜之助は大振りに太刀を降って弾こうとしたが、思いの外斬り込みは鋭く危うく刀を飛ばされそうになってしまった。

手中で暴れる柄をどうにかいなし、斬撃を後方へ流す。しかし間髪を入れずに他の賊が斬り込む。

一人一人の技量は大したことはないが、集団戦に優れた者たちのようであった。

突っ込んできた賊を横一文字に両断し、身を翻した時、「ぎゃっ」っと屋内から叫び声が聞こえた。

そちらへ少し目をやると、喜之助の視界の端に、縁側に飛び出してきた甚兵衛と一之進の姿が入った。

どうやら屋内を守っていた家士はやられてしまったようであった。

二人は囲まれようとしており、抜刀はしていたが頼りない及び腰でじりじりと後退していた。

喜之助は駆けつけたかったが、また一人賊が斬り込んでくる。慌ててその刀を弾くと手応えはなく、弾いたままに飛んでいった。訝しく思い賊の手元をみると、匕首が握られていた。

あ、こやつ。

刀は投げられたもので、本命は脾腹を狙った匕首の一撃。

喜之助はとっさに右手を脇差しの柄にかけると、抜き打ちの剣閃が敵の首をなでた。

月明かりに照らされ賊の顔が見える。権左は匕首を握ったまま、きょとんとした顔で血飛沫を上げていた。

それが崩れ落ちると、視界が開け、甚兵衛に斬りかかる賊の姿が見えた。

喜之助はそのまま脇差しを賊に投げつけると、その賊の背中に刺さった。

しかし二人を囲む賊はまだ五人はいる。万事窮すか。そう思われた時、ヌッと異物のような、賊とは違う動きをする影が跳躍し、甚兵衛を囲む賊の一人が血飛沫を上げた。

「赤井氏。助太刀致す」

そのしわがれた声には聞き覚えがある。その堂々たる隻腕の体躯にも見覚えがある。修羅場に紛れ込んだ異物はなんと坂田内膳であった。

「かたじけない」

喜之助はそれだけを言うと眼前の敵に向き直る。

理由など聞いている暇はない。信じるも信じないもない。助けがなければやられてしまう。

無心で賊に斬り込むと、また一人賊は音もなく崩れ落ちた。

後は頭目と思しき男だけである。

喜之助は落ち着いて誘いの大刀を使った。

わずかに浅い斬り込みは、賊には魅力的に見えたであろうか。じゅうぶんに御し得ると確信したのか頭目は合わせて大きく踏み込んできた。しかし喜之助の大刀は途中で止まり、再び眉間の高さまで振り上げられる。

頭目の目に絶望の色が広がる。

恐らく一瞬後の己の死を悟ったであろう、頭目の体は、全身で攻撃を止め、身をよじって逃げようとしたが、巨大な肉食獣に捕食された草食動物のように喜之助の牙にかかった。

逆袈裟からへそまで切り下げられた頭目は、嫉妬とも悔恨ともつかない表情を浮かべ崩れ落ちる。

喜之助が急ぎ振り返ると、残りの賊を家士二人が仕留めたところであり、その奥では内膳が左手片手で縦横無尽に大刀を振るっていた。

「おい、お前らの頭はやられたぞ」

喜之助が声を上げると賊は色めき立ち、バラバラと木戸から逃げ去っていった。



藩邸にはお白洲があり、そこに坂田内膳が正座している。

座敷からそれを見下ろすのは頼母であった。

それを脇から甚兵衛、一之進、喜之助の三人が見守っている。

「真にお主に間違いはない。あの日、寝所で見た顔だ」

頼母は怒りに身を震わせていた。

「恐れながら、こやつ坂田内膳は、横川主計の指図で壱岐守様とのお仲を裂こうと頼母様を襲うふりをしたのです」

内膳は青白い顔をしており、右手からは傷口が破れたのか血が流れていた。

しかし何故かその表情は憑き物が落ちたように澄んでおり、瞳はまっすぐに頼母を見つめていた。

「よい、私も愚かではないつもりだ。直接この者を詮議する」

甚兵衛の説明を制し、頼母が厳しく詰問に挑む。

内膳は落ち着いた様子で事の次第を語り始めた。

借金に追われて辛酸を嘗めたこと。

かつて仲間だと思っていた者は誰も助けてくれなかったこと。

全てを失い、ヤケになって身を持ち崩したこと。

己の才能と努力が報われない世間を恨み、どんどん汚い仕事に手を染めていったこと。

程なくして横川一派から声がかかり、謀の要として使われるようになったこと。

「こう言葉にしてしまえば何のことはない、よくある話でございます。しかし私は世間を恨みました。誰でも良かったのです。順風満帆な者の人生を壊したかった。それに暗い喜びを感じておりました」

「そのお主がなぜ心変わりし、甚兵衛らに味方したというのか」

「恐れながら、まず一つは頼母様のお妾を殺めてしまったことにございます」

身を持ち崩した内膳を支えたのは、己の剣士としての矜持であった。

才能に恵まれ、それに甘えず鍛錬を積み、戦えば誰よりも強かった。

その己が報われないことが、世間が真っ当でない証であり、それに復讐をするというのが内膳なりの大義となっていた。

しかし丸腰の女手に掛けた時、内膳の心は揺らぎ始めた。

主を守るために女の身でありながら丸腰で内膳に挑んだ女。

それを切り捨てることになんの大義があったであろうか。

それ以降、内膳の暮らしはより荒んでいった。

「そして、次に赤井氏との決闘がございました」

矜持を失いかけた内膳を辛うじて支えていたのは己の強さであった。

その中で喜之助という強者に出会えたことを初めは喜んだ。

「全ては私の、己は強いという気持ちから始まっていました。ですから強者に勝ち、己を取り戻そうとしていたのかも知れません。常に強者との戦いを欲していました。しかし結局は赤井氏に敗れた。まるで無名の、いや、失礼。しかし聞いたこともない者に完敗した。これは驚くべきことでした。この様な強者が何の名声も得ず、世に埋もれている。それでいて私のように世間を恨むでもなく自然に暮らしている。世間は私が思っているより広く、そして深かった。これは新鮮な驚きだったのです。私が憑き物が落ちたようになりました。いえ、実際に赤井氏が私の右腕と共に切り離してくれたのかも知れません。私は己が馬鹿馬鹿しくなりました。およそ、私の人生は己が才能に振り回されてきたと言えるでしょう。才能を活かすためだけに生き、その価値を認めない世間を恨んだ。しかしそれが何だというのでしょう。何のことはない、更に上の強者はそんなことにこだわりを持ってなどいなかったのです」

そう一気に語ると、内膳は「うぅ」っと嗚咽を漏らした。

「私は罪を犯しました。憑き物が落ちたあと、残されたのは罪人としての私だけでした。償うには死を以てしかない。しかし、ただでは死んではいけない。せめて少しでも借りを返してから世を去ろうと考えました」

「それで甚兵衛らに味方したのか」

「せめてもの償いでございます」

「では、大人しくここに連れてこられたのは死ぬためか」

「はい、頼母様に仇を討って頂くために」

「よう申した。願いを叶えてやろう」

そう言うと頼母は白州に降り、脇差しを抜くとスッと内膳の腹に差し込んだ。

「ありがたき幸せ」

内膳は一瞬苦痛に顔を歪めたが、すぐに晴れがましい顔に戻った。

「脇差しの柄を握れ。仇ながらその志はあっぱれである。介錯致そう」

頼母の意図を内膳は察したのか、残る左手で脇差を掴み、腹を静かに横一文字に裂いた。

「武士として扱っていただき、真に感謝に耐えませぬ」

内膳がそう言うと、頼母は静かに大刀を抜き、内膳の首に振り下ろした。

内膳の首は皮一枚を残して両断された。

すかさず一之進が懐紙を以て歩み寄り、頼母の大刀の血を拭う。

「後は頼んだぞ。丁重に葬ってやれ」

「はっ」

一之進は頼母に大刀を返すと、目配せで喜之助を呼び寄せた。後始末が始まろうとしている。

「甚兵衛、壱岐守様に会うぞ。付いて参れ」

「ははっ」

頼母は素早く大刀を納刀しながらそう言うと、甚兵衛を連れ屋敷の奥の方に消えていった。

甚兵衛はというと、年甲斐もなく声色を興奮で裏返しながらそれに追従した。

喜之助は一之進に呼び寄せられながらも、何をどうしたら良いのか一向にわからない。

一之進はそれに構わず更に人を呼び、その指図に従い家士が慌ただしく右往左往している。何もかもが慌ただしかった。

喜之助といえば、呆然と内膳の遺体を見つめていた。

頼母の剣の冴えは素晴らしく、内膳は全く体勢を崩さず絶命したままの姿で座っていた。

立派な武士の死に様、内膳の様子はそれを体現したかのようであった。

お主は私から何かを得たのかい。私は何かを得られたのだろうか。

喜之助は友を失ったような寂寥感に襲わた。

何故だか置いてけぼりにされたような、梯子を外されたような、喜之助はやるせない気持ちになった。



江戸を照らす陽はすでに高い。

柳橋界隈はすっかり賑やかになり、表通りには人々がひっきりなしに往来し、裏長屋にも何かしら生活の音が鳴り響いていた。

その営みに一人参加せず、赤井喜之助は布団に包まり寝そべっている。

あれから十日経っていた。

全ては嘘のように上手く行った。

頼母は全てを壱岐守に打ち明け謝罪をすると、兄弟は即座に和解、明くる日の詮議で横川主計はその罪を全て明るみにされ、謀反のかどで上意討ちにされた。

横川家は取り潰し、それに与していた一派も一掃された。

田中一之進はその功績を認められ、中老から家老に昇進し、横川の後釜に座った。

喜之助には全てが雲の上の出来事のように感じられた。

これはもう自分の出る幕はないと、護衛の仕事を辞する意向を甚兵衛に伝えると、甚兵衛は朗報があると仰々しく喜之助に言った。

「えへん。喜之助、そなたの働き、頼母様の覚えもめでたく、この度当家で召し抱える事に相なった。石高は五十石用意する。頼母様の近習としてお仕えするのじゃ」

既に喜之助の呼称が赤井氏ではなくなっている。

浪人は尽きるところ士官するために生きていると言える。本来であれば喜び勇んでお受けするところなのであろうが、喜之助の気持ちは重くなった。

「・・・」

「なんだ喜之助、お主よもや断るつもりか。この様な良い話は今後ないぞ」

それはわかっている。しかし喜之助の脳裏をよぎるのは、一太をゴミを見るように冷たく一瞥した甚兵衛や、謀に上気する一之進の顔であった。

その世界に喜之助の居場所はないような気がした。

喜之助は丁重に仕官を断ると、甚兵衛は腹を立てた様子であったが、それももうどうでも良いことのように思われた。

では己の居るべき場所、やるべきこととはなんなのか。その問いがここ数日の喜之助を縛り付けている。

そんな事考えたこともなかったな。喜之助は困り果ててしまった。全てはその時その時をやり過ごすのに精一杯であったように思う。己の存在する意味などに思いをきたす余裕はなかったのだ。

思考は袋小路に入ったように出口が見えない。

四十で不惑とは孔子様も酷いことを仰る。まるであべこべじゃないか。そう喜之助は聖人にまで悪態をつくと、今まで己が何をしてきたのか自信がなくなってきてしまった。

そして喜之助は不貞腐れたように毎日を無為に過ごしている。

今日もこのまま寝てしまおうかと諦めかけたその時、戸を叩く音と「赤井の小父様」と喜之助を呼ぶ声が聞こえた。

「あっ」喜之助は体に電流が走ったかのような感覚を得た。

そうか、またさかえに助けられてしまったな。

「小父様、いらっしゃいますか。仕官のお話お断りになったんですって。お父つぁんが喜んでおりましたわ。大した御仁だって」

喜之助は思わず苦笑いをした。なんということはない。太吉からしたら商売道具を失わずにすんだことが嬉しいのであろう。

「今開ける。仕事の話か」

「はい、そうなんです。今度こそおいしいお話だからってお父つぁんが」

喜之助は声に出して笑ってしまったが、悪い気はしなかった。

そうか、己のあるべき暮らしは元からここにあったのだ。

やれやれ、また嫌な予感がするな。


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