第29話 おねえちゃんのカレー 前編
一夜明け、神殿の中はひどくざわついていた。
誰も彼もが慌ただしく走り回っている。
アースワームはじょじょに街に近づいてきていた。
西の森があった方向からは、絶え間なく地響きが聞こえ、昨晩のうちに異変に気付かなかった人々も不安な顔をしている。
ギギは言った。
おそらく、一両日中にはアースワームは神殿に到達するだろう、と。
一刻を争う事態に、騎士団はいちはやく住民や難民の避難を開始した。
とはいえ、膨大な人数だ。年寄りや、病を抱えた人、子どもだって少なくない。
けれど、アースワームという脅威が迫っている以上は、神殿にいるわけにはいかなかった。
どうすれば、彼等を安全に避難させられるのか?
もってこいの方法がある。私の料理を使うのだ。
「はいよ! さっさと持っていってくれ。空いた鍋を持ち帰るのを忘れずにね!」
「穂花様の加護入りスープだ。どんな年寄りだって走りたくなるくらいの活力が沸く。一滴たりとも無駄にするんじゃないよ!」
厨房におばさんたちの声が響いている。
おばさんたちが現場を仕切っている横で、私は汗水垂らしながら料理を作り続けていた。
「追加ぶん、できましたよ!」
「ありがとうねえ! 次はこっちもお願いね!」
「はい!」
私が作っているのは、マンドラゴラを使ったポタージュだ。
先日、妹にラペサンドを作ったのは記憶に新しい。
マンドラゴラには、もともと身体能力をアップさせる効果があった。
それを私が料理すれば――。
あら不思議。能力を底上げする特殊効果を発揮するというわけだ。
――一時的な効果だけど、避難する間くらいは保ってくれるはず。
希うような気持ちで、大量のポタージュを作っていく。
「第一団は出発したよ! さすがは勇者様だ。昨日まで寝たきりだった爺さんがシャキシャキ歩いてる!」
「よおおおおっし! 穂花様、この調子でやっていくよ!」
「はい!」
ポタージュは狙い通りの効果を表してくれているようだ。
ホッとしながらも、黙々と作業を続ける。
単純作業の繰り返しは、いまの私にはちょうどよかった。
余計なことを考えなくてすむからだ。
「――今晩、まもり様と騎士団がアースワーム討伐に打って出るらしいぞ」
「本当か。無事に倒せればいいのだが……」
騎士たちの会話が耳に飛び込んでくる。
そっと吐息をもらした。
――まもり……。
唇が震えた。泣きそうになるのをグッとこらえて、懸命に手を動かし続ける。
『世界を背負ってる覚悟なんてない。自分にとって大切なものは身内だけ。戦う姿なんて、本当は見たくない。大切な人が傷つく姿を想像したら――それだけで死にそうになる癖に』
頭のなかでは、魔女の問いかけが延々と繰り返し響いていた。
*
「……終わったあ……」
ようやく調理が終わったのは、太陽がずいぶん低い位置まで下りてきた頃だ。
中庭のベンチに腰かけ、ホッと息を吐いた。
ほとんどの人がいなくなった神殿はガランとしている。
ときおり、アースワームが起こす地響きが聞こえてくるだけで、人の熱は感じられない。奇妙な静寂が満ちていた。
「穂花君」
ふいに呼びかけられた。顔を上げると、柔和な笑みを湛えた老人の姿がある。
「ジオニス様」
「隣、いいかな」
「どうぞ」
ジオニスが腰かけると、やや古びたベンチは軋んだ音を立てた。
クスクスと教皇が笑う。
「あらら。さすがに修理しなくちゃ駄目かな。ボクが若い頃からあったからなあ」
ちらりと私をみやる。目尻に皺を寄せて言った。
「今日の討伐が終わったら、修理をしてみるのもいいかもね」
「…………」
そっと視線を外した。
なにも答える気になれない。
――討伐が終わったら。そうだ、妹は今晩……。
命懸けで巨大な怪物に戦いを挑む。
瞼を伏せれば、城壁の上から見えたアースワームの姿をまざまざと思い出せた。
――恐ろしいほど巨大だった。
胸が苦しくて、くしゃりと顔をゆがめた。
『妹を連れて、妾の棲み家へおいで』
魔女の誘いを断ったのは、他でもない妹自身だった。
『馬鹿言わないで。困っている人たちを放って逃げ出せっての!?』
顔を真っ赤にした妹は、ダーニャから守るように私の前に立ちはだかって宣言した。
『なによ。あんなの、でっかいミミズでしょ。私が倒してみせる』
ドンと胸を叩いて、私の方を振り返る。
『心配しないでね』
笑顔になって、そっと私を抱きしめて言った。
『ぜったいに負けない。おねえちゃんは、なにも心配しなくていいの』
……その後、アースワーム討伐に向けて、トントン拍子で話が進んでいった。
私自身は、口を出せる立場にない。ならば、料理でサポートしようと厨房に籠もった。考えるのを放棄して、ひたすら淡々と料理を続け――そして、いまに至る。
料理をしている間にも、ひしひしと感じていた。
誰もが妹の活躍を楽しみにしてるんだって。
大変なのはいまだけ。すぐに神殿に戻ってこられるんだって。
勇者ならやってくれるって――信じ切っている。
だからこそ、避難誘導の際も混乱が見られなかった。
妹という勇者が人々の心の支えになっているのは明白だ。
――私の感情だけで、一緒に逃げようなんて言えるはずがない。
正直、魔女の指摘は図星だった。
怖かった。当たり前じゃないか。たったひとりの妹なのだ。
万が一にでも死んでしまったらと思うと、いてもたってもいられなくなる。泣きたかった。叫びたかった。どうして妹が命を懸けなくちゃいけないの。化け物の相手が妹である理由はなんなのと、誰彼構わず問いただしたい気分だったのだ。
答えなんてわかりきってる。
私たちが神様から喚ばれた存在だからだ。
様々な恩恵を授かってここにいる。人々のためにも、これからこの世界で生きていくためにも、全力で尽くさねばならない。
――これまでだって、いろんな化け物と対峙してきたのにね。
自嘲をもらした。
いままでだって不安に駆られてはいた。けれど、これまで我慢してこられたのは、目の前に現れた魔物がまだ常識の範囲内だったからだ。
妹の強さは重々承知している。
だからこそ、敵に立ち向かう妹を素直に応援できた。
でも――。
あんな巨大な魔物と戦わないといけないなんて!
途方もない敵のスケールに、私が怖じ気づいてしまっている。
「……恨んでいるのかな?」
「え?」
物思いに沈んでいた私は、ふいに投げかけられた言葉に頓狂な声を上げた。
教皇はどこか寂しげな表情で私を見つめている。
「都合よく利用しようとするボクたちを、憎く思っているだろう?」
「……そんな。戦うと言ったのは妹だし、この場所に居続けているのは私です。お互いに利用し合っているだけですよ」
実際、神殿の人々には感謝していた。見ず知らずの場所で生きるなんて容易なことじゃない。この場所があったからこそ、生活が安定したと言っても過言ではなかった。
ゆるゆるとかぶりを振る私に、教皇はくしゃりと笑う。
「君は優しいね。そして強い。責任を他人に転嫁しない強さがある」
……やだなあ。買いかぶられている。
泣きたくなって、視線を地面に落とした。
「強いもんですか。ただ無力なだけです。誰かに当たり散らす余裕すらない。いつだって自分のことで精一杯で。なんとか〝姉らしく〟取り繕ってるだけ」
「らしく……? 君はどこからどう見たって、立派なお姉さんだと思うけどね」
「まさか!」
思わず笑ってしまった。すぐに笑いを引っ込めて、唇を震わせる。心配そうに私を見つめている教皇の瞳の中に、ひどくみっともない顔をした私が映り込んでいた。
「……私の価値はこれくらいしかないから」
「え?」
「父が……向こうの世界にいた時に言ったんです。お前にはなんにもない。幼い妹の面倒をみるくらいしか能のないゴミだって」
「まさか……自分もそう思っているのかい」
「ゴミ、ではないとは思いますけど。才能があるタイプじゃないのは重々理解してるつもりです」
私は平々凡々。
昔からずっとそうだった。
妹には剣道という才能があった。本妻には子が何人かいたが、それぞれ優秀な能力を持ち、父の事業を支えていた。
けれど、私には抜きん出た能力がない。
学力も運動神経もいたって普通。努力は重ねたものの、結局は才能を持った人たちには太刀打ちできず。
有名大学なんて夢のまた夢。そこそこの大学に行って、そこそこの企業で内定をもらうのがやっとだった。
父が私の内定を勝手に解消し、とある議員の後妻になれと言ってきた時だ。
言葉を失っている私に、父は言った。
『妹を育てあげたことだけは評価してやる。使い勝手がいい駒になりそうだ』
――父がなにを言っているのかは理解できなかった。
結局、父と言い争いになった。必死に抗って、抗って――……。
じょじょに近づいてくるサイレンの音を聞きながら、妹と夜の街を駆けていた時。
未来なんてまるで見えず、絶望に彩られた頭の中では、同じ文言が何度も繰り返されていた。
私ってなんなんだろう。
私の価値ってなに?
私って――なんのために生きてきたの。
その答えはすぐに出た。
――異世界に喚ばれて、神様と対面した時。
神様は妹に戦う力をくれ、
私には癒やす力をくれたのだ。
そして言った。
『姉妹、助け合っていきなさい』と。
あの瞬間、私は理解したのだ。
私はまもりの姉となるべく生まれて来たのだと。
姉として――突拍子もない行動をしがちな妹を支えるために、生きているのだって。
そうだ。私は〝おねえちゃん〟だ。
なんの才能もない。強くもない。むしろ弱いけれど。
これからは妹のために生きていこう。
それが私の価値だと。生き方だと悟った。
だからこそ、いまの状況が苦しくて仕方がない。
「姉としてしっかりしなくちゃ。暴走しがちな妹を止めなくちゃいけない。なのに――」
あの子がどうしようもなく傷ついてしまったら?
もしも。もしも、あの子が――
この戦いで……死んでしまったら?
姉として生きようと決めた私は――どうすればいいの。
「嫌だ。そんなの。いや。いやなの……」
とうとう涙があふれ出した。
心が悲鳴を上げている。涙腺が熱くて仕方がないのに、涙で濡れた頬は凍えるくらいに冷たくて。
ただただ無力な自分が、情けなくて仕方がなかった。
顔を手で覆ってうつむくと、なにか柔らかいものが膝に飛び乗ってきた。
「にゃあん」
「あなた……」
黒猫だ。ツヤツヤの黒い毛並みをした猫は、私の腕に頬を擦り付けて言った。
「だから、妾の棲み家に来いと誘ったのに」
「……ダーニャ?」
問いかけの代わりに、しっぽをユラユラ揺らした黒猫は、金色の瞳を細めた。
「なあ。妹を守りたいのだろう? 無理矢理連れ出せばいいではないか。どんなに妹がやる気を見せていたって、安全には代えられない。そうだろう? なにより命が大事だ……」
しかし、そっとためいきをこぼし、少し呆れたようにも言った。
「……でも、お前はそうしないのだろうな。妹が大切だからこそ、意思を尊重したいと思う。姉とはそういう生き物だ」
ちらりと、横に座った教皇ジオニスを見やった。
きゅっと眉をひそめた弟に、深く嘆息する。
ダーニャはジオニスの姉だ。彼女もまた、大切な弟を守りたいと思っている。だのに、責任者として残るときかない身内に、もどかしい気持ちを抱えているに違いなかった。
「……おそろいですね」
「うるさい」
べろりとザラついた舌で目もとを舐められた。
慰められている?
少し驚いていると、やたら賑やかな一団が近づいてきた。
「いたッ!! ホノカ・キザキッッ!!」
「だ、団長ッ! 駄目ですって。駄目ですから!」
騎士団長のフロレンスだ。
理由はわからないが、どう見ても満身創痍だった。体じゅう汗まみれで、あちこち傷が付いている。にじんだ血が痛々しく、必死に止めようとしている副官のギルを引きずっていた。
私の顔を見たとたん、フロレンスは小鼻を膨らませて言った。
「ほら見たことか。やはり泣いているではないか!!」
私の前に仁王立ちになると、胸を張って言った。
「ホノカ・キザキに申し伝える。団長としてッ! マモリ・キザキを最前線には出さんと決めた!!」
「……はい? そ、それはどういう……」
「どうもこうもない!! アースワームは我々の問題だ。お前たちには関係がないではないか。そもそもだ! 前から疑問に思っていたのだ。異世界の人間に問題を丸投げしてどうするのだと」
ニッと不敵に笑み、右手を掲げる。そこには、刀身が真っ赤に燃えた一振りの刀があった。
おそらく――ギギが用意したという魔剣だ。
「今回は私がやる。だから、ホノカ・キザキッッ! お前たち姉妹はどこか安全な場所に逃げていろ。ええい、心配してくれるな。魔剣くらい私にも扱えるからな。これで憎きアースワームを一刀両断してやるわ。覚悟していろッ! ワーッハッハッハ……」
フロレンスは、自信たっぷりな様子で高笑いしている。
それが本当なら、妹が危険な目に遭わなくてすむかもしれない!
期待で胸を高鳴らせていると、フロレンスの顔色が悪いのに気がついた。
苦しそうに肩で息をしている。どうしたのかと不安に思っていると、ふらりと体勢を崩した。
「団長ッ!」
慌ててギルが支える。フロレンスはぐったりとしていて、意識を無くしているようだ。
「ど、どうしたんですか!?」
「それが……」
「俺が話す」
ジェイクさんが姿を見せた。
悲しげに耳を伏せたジェイクさんは、意識のないフロレンスを眺めて淡々と言った。
「全魔力を魔剣に奪われたのだろう。この魔剣は、段違いに魔力を消費する。勇者のために調整された道具だからな。コイツだって魔力量は少なくないはずだが――まもりとは桁が違う」
全身に見られる傷も、無理矢理、魔剣を使用しようとした結果なのだそうだ。
ジェイクさんは、フロレンスの手から魔剣を取ると、悲しげにまぶたを伏せた。
「……以前から相談を受けていた。いざという時に、異世界人に頼らなくとも済む方法を知りたいと。俺も同じ気持ちだったから、こいつらを本気で鍛え上げた。なかなかいい感じに育ってきてはいたんだがな――」
間に合わなかったか。
ぽつん。つぶやいた声は、どこか寂しげだった。
「……そんな」
結局は妹が戦うしかないのだ。
不満を紛らわせようと、ギュッと拳を握った。
手が震えている。冷たい汗がにじんで、どうにも力が入らなかった。
「おねえちゃん」
ハッとして顔を上げた。
「まもり」
いつの間にか妹の姿がある。
ポリポリと頬を掻いた妹は、どこか気まずそうな笑みを浮かべた。
「勢揃いしてどうしたのさ。これから作戦でしょ」
みんなの顔を見回して――最後にフロレンスに目を留める。
「馬鹿だなあ。無理しちゃって」
ほろりと優しい笑みをこぼして、次に私を見た。
「聞いた? 決行の時間」
「え?」
「アースワームを倒しに行く時間だよ。やっと避難が終わったからね。日が落ちる前にはここを出るよ」
慌てて空を見上げた。じょじょに白んできた空は、たそがれの気配をまといつつある。
もう間もなく妹は決戦に臨むのだ。
……なんだか泣きそう。
不安で胸がいっぱいになって、なにかしゃべろうと思っても、ちっとも言葉が出てこなかった。
パクパクと口を開閉させているだけの私に、妹は小さく息を吐いた。
「というわけで!」
ニヒッと白い歯を見せて笑う。
「まだ時間があるからさ。出発前にご飯を食べようよ! 景気づけにさ!!」
最後に、いつもどおりの無邪気な顔で言った。
「私、おねえちゃんのカレーがいい。ね? 久しぶりに一緒に作ろう!」
妹の申し出に、私はただただ頷くことしかできなかった。
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